昨年、芸能生活50周年を迎えた、歌手の吉幾三さん。自ら作詞・作曲を手掛けた「おら東京さ行ぐだ」や「雪國」など、数々のヒット曲を長年にわたって生み出してきました。
そんな吉さんの、東京の「いちオシの場所」とは?「50年の思い」と共に、伺いました。
視聴者からの質問にも答えていただきました!
吉さんは、9人きょうだいのすえっことして青森県に生まれました。
貧しさから抜け出すため、得意だった歌の道に進もうと、中学を卒業後すぐに上京しました。
吉幾三さん
「だってものすごい貧しくて、うちにいても、やっぱりね学校高校とかもいくとなるとやっぱりお金かかるじゃないですか。何か身につけなきゃいかんと。歌手になるって。不安だったよね。15歳だもん」
そんな吉さんのいちオシは、浅草。
吉幾三さん
「東京に出てきて15歳で僕ね、レッスン場所は浅草だったんですよ。都電が走ってるころね」
「お金がある時は都電でいけるけど、お金がない時には、自転車でもね、30分くらいかかる。(アルバイト先から)30~40分。片道ね。譜面だけつんで、ビニール袋にくるんで、ぬれないように」
吉さんは上京後、浅草の浅草寺の近くにある音楽教室に通い始めます。
吉幾三さん
「いろんなねテレビで見たことのある歌手がね。僕の前を通って先生の部屋に行くんですよ。やっぱりこうやって見てるとね、みんなうまいもんね歌聴くとね」
先生は、米山正夫さんでした。
美空ひばりさんを育てあげるなど、当時の歌謡界を代表する大作曲家でした。
そんな中、吉さんを悩ませたのは、言葉のアクセント。ふるさと津軽弁のなまりを直すよう、厳しく注意されました。
吉幾三さん
「お前はどこの言葉だって言われましたね」
「♪虹は、消えないうちに って歌えっていう先生がね。僕は♪虹は、“く”えないうちに って、なまって」
吉さんは懸命に努力しました。しかし、なかなか思うようになりませんでした。やがて折れたのは、先生の米山さんの方でした。
吉幾三さん
「優しい先生でね。あの、目はちょっとこわいんですよ、時々、うん」
(先生)「“き” だよ き、き」
(吉さん)「く」
(先生が)「それでいい!って」
「いい先生でしたよ」
「なまりはそのままでいい」。ふるさと津軽こそが、かけがえのない個性なんだと気づいたといいます。
吉さんにとって、浅草の言問橋も印象に残っています。
レッスンのあと、夜遅く、自転車で渡って帰っていました。橋の向こうには、きつく大変だったアルバイト先がありました。
吉幾三さん
「遅く行けば遅く行ったで親方が。料理の親方が。『なに遊んできてんだ』って。いや、僕はレッスン、行ってもいいってことで、(店の)オーナーから呼ばれてるんだからって。『お疲れ様でした!』ってみんな帰ってんのに、俺だけ、皿をずっと洗ってて」
スターになることを夢みて通い詰めた浅草。
苦しい日々の中でも、歌手としての成功を決してあきらめませんでした。
覚悟を決めたその場所が、「浅草」だったのです。
吉幾三さん
「親父の言葉なんだけど“継続は力なり”ってね。やっぱり続けて、やめたいなと思った時は何回もあるけど、歌手になりたかったんですよ」
「浅草は一番好きですよ、原点ってあるんでしょうね」
そして上京から5年。吉さんは、ついにチャンスをつかみます。
ようやく歌手デビューした吉さん。はじめは山岡英二という、アイドルでした。しかしなかなか売れない日々が続きました。
今度は、吉幾三と改名。独学で作詞作曲に挑みます。
ふるさと青森の五所川原をモチーフにして歌った「俺はぜったい!プレスリー」で、初めてヒットを出すことができました。
しかし、その後ヒットは続かず、再び困難な日々を過ごします。
吉幾三さん
「やっぱりね、それは大変でしたよ。また大変でしたよ」
「(妻は)もうやめたらって。もうやだこんな生活って。もうやめてって。昼間は、喫茶店でコーヒーわかして、夜は夜でねナイトクラブでギターの弾き語りとかやって、朝帰るの。朝方でしょ、べろべろに酔っ払って。体も壊しましたけどね」
7年もの間、売れない日々が続きました。
それでもあきらめずに曲を書き続けたといいます。
吉幾三さん
「1回ちょっとした日の目を見ちゃうと、やっぱりそれ以上にいきたくなるんだよ。欲ってあるんだよね。だからそこからドンっと下がられた時にはね。なにくそって根性もなくなるよ。もういいかってなっちゃう。年も年だし。うん。でもそこでまた、う~ん。何か書いてみようかなって」
青森出身だからこそ作ることができたこの曲が大ヒット!
「俺ら東京さ行ぐだ」
さらに、ふるさと東北をモチーフにした「雪國」を発表。ミリオンセラーになりました。この曲で、とうとう「紅白歌合戦」にも出場しました。
ふるさとへのこだわりはいまも変わりありません。
コロナ禍の自粛期間、津軽弁で対策を知らせるユニークなラップ調の曲を作りました。
地元のことばであれば、多くの人により深く伝わると考えたのです。
音楽家としての自分の原点は「ふるさと津軽」。「東京浅草」でそのことに気づいた吉さん。
これからもふるさと、そして日本語を大切にした曲作りをしたいといいます。
そんな吉さんに日本語にこだわる理由をたずねました。
吉幾三さん
「日本語がおかしくなってきてるから。だから津軽って言葉も津軽弁でしょ、津軽弁いまつかわなくなってきてるから。津軽でも女の子、若い子たちは」
「だから、言葉を大事にしていきたいと。できるかぎり日本語で歌える歌を書いていきたいなと。メロディーもね。簡単だし。だからそういう歌をまだ残していきたい」
【Q1】
「同世代で毎日吉さんの歌を聴いています。歌声がセクシーで力強く、やんちゃです。声の維持のしかたを教えて頂きたいです」
1曲か2曲。毎日。必ず声出すように、ちゃんと歌うこと。(本いきで)
維持をするには、楽な歌い方をせずに、歌えるんだったら半音あげてちょっと高い声で歌ってみると。届かなくてもいいの。届けばもっといいし。じゃないとどんどんキーが下がっていくから。
吉さんちなみにキーって昔と今と?
変わらないです。
【Q2】
「毎日体にいい運動はしていますか」
朝ね。6時半が大体日の出なんで、6時半から7時の間に家を出て、5000歩を目標にまず朝歩きます。
それで笑うこと。笑うことは大事。笑いが一番いい。だからあんまりくよくよしない、なんだか考えない!歩くことと笑うこと、でよく食べること。
【Q3】
「作詞作曲もされている吉さんですが、どんな時に詞や曲が浮かびますか?」
詞のほうはね、やっぱり旅の新幹線の中とか在来線乗ってる時とか。橋1つでも、おもしろい橋だったらその橋1つで、メロディー作れるからね。
石があるんだよ。渡るための。水がいっぱいあったら渡れないわけじゃん。水がひくとそこを渡っていけそう、子どもたちが遊んでたのよ。そっから、トン、トントン、トントントン♪って。「昔渡った なになに川よ」って。そういうのを書いて。旅をしないと。
【Q4】
「小6でおら東京さ行ぐだ。高1で雪國。吉幾三さんを聴いて育ちました。いつの時代もよどみなく、名曲を常に、送り出していらっしゃいますが、創作の上でスランプに陥ったことはありますか」
はいもちろんあります。ありますあります。何も浮かんでこないときありますよ。でもまた周りは期待をするでしょうやっぱり。レコード会社は次の曲いつ出しましょうかって。知ったことか、って。
その時はね。無理しないの。うん。
あっ、何も浮かんでこないんだと思ったら、いいんですよ。あっていいんです。だからスランプに負けないこと。
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