旗を持って行った父、旗を保管していた父、いずれも、戦争を生き抜いて母国へ帰りました。家族思いで、地域のために働いてきた2人。旗のことは一切語らず、戦いについて話したがらないというのも共通していました。あれから70年以上たって里帰りした旗を見た息子はつぶやきました。
「この旗を見ると、戦争がいかに悲惨なものだったのかと考えさせられる。父にとっては思い出したくない記憶だったのだろう。こんなに傷んでいるのに、大切にしまっておいてくださって感謝しかない」。
日章旗の返還をめぐる家族の思いを伝えます。
(千葉放送局記者 金子ひとみ)
終戦の日翌日の8月16日。
太平洋戦争で日本兵が戦地に持って行った日章旗が、その後、アメリカで発見され、市川市の家族のもとに返還されました。
旗は縦66センチ、横83センチ。破れや色あせ、インクのにじみがあり、かなり傷んだ状態で、月日の流れを感じさせます。
一番大きく書かれている「松丸泰介君」というのがこの旗の持ち主、市川市下貝塚出身の松丸泰介さんです。周りには、妻の百合子さんの名前のほか、「祈・必勝」や「祈・武運長久」などの勝利を祈ることばが寄せ書きされています。
松丸泰介さんは大正10年生まれで、長男の裕一さん(71)によりますと、宮城県の石巻市から南太平洋のニューギニアなどに向けて出征し、船舶工兵として戦ったということです。
【裕一さん】
「父からは戦うというより生きるために必死だった、足をやられたら置いて行かれるからダメだということを聞いたことがあるぐらいです。
おそらく、10人のうち1人が帰ってくることができるかどうかみたいなところで、本当によく帰ってきたなあと」。
泰介さんは、おととし98歳で亡くなるまで、梨農園やゴルフ練習場の経営に携わりました。家族思いで、自治会活動にも熱心でしたが、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。
自治会やライオンズクラブなど、地域とのつながりを大事にしたいなという感じの父親でした。性格も前向きで、くよくよしないというか。でも、出征の話、戦地の話、帰還したときの話は、全然聞いたことがなかった。みなさんから託された旗ですから、本人は覚えていたでしょうけど、私はもう、まったく知らなくて、まさか、ただただびっくりです。
日章旗を保管していたのは、オリバー・ブッシーさんで、市川市から1万キロ以上離れたアメリカのマサチューセッツ州に住んでいました。
長男のビル・ブッシーさん(75)によりますと、海兵隊員として、ガダルカナル島やパラオに赴いていたということです。
29年前の1993年8月、オリバーさんが74歳で亡くなったあと、10年以上たって、家を売ることになった際、クローゼットに、軍服や勲章などの記念品とともに箱の中に日章旗が入っているのを見つけたということです。
ワックス紙で包まれていて、ガーゼのように薄くて、すぐに壊れそうでした。何度も広げたらさらに破れてしまうと思い、一度だけ開いて写真を撮って、すぐに閉じました。
ビルさんの父、オリバーさんも、泰介さん同様、戦争については堅く口を閉ざしていました。
郵便局員などとして地域で働き、家族思いのいい父親でした。ただ、戦争はいい思い出ではなかったんでしょう、本当に本当に話したがらなかったんです。私は、父から聞くよりも本を通して、太平洋戦争について学びましたから。だから、父がこの旗を持っていたことすら私も弟も知らなかったんです。少なくとも、捨てずに大切に保管していたというのは、敬意を持っていたのではないでしょうか。
ビルさんは、友人に相談したり、自分で調べたりする中で、日章旗など遺留品の返還に取り組むNPO「OBONソサエティ」のことを知り、この団体を通じて旗を返還することになりました。
調べる中で、この旗は、日本兵が戦地に持って行ったものであることが分かり、何度も何度もこの旗をどうするのがいいのか、考えました。ただ、逆の立場だったら、旗を戻してもらいたいだろうから、日本で持ち主を見つけるのは大変だろうけど、戻したいなと。
松丸さんも父も、戦争を生き抜き、それぞれ家庭を築くことができました、本当によかったです。
70年以上の時をへて、家族のもとに戻った日章旗。返還式では、ビルさんからの手紙も読み上げられました。
「So glad to hear that the honor flag is being returned to your family.
(旗をあなたたち家族のもとにお返しできることを大変にうれしく思います)
Knowing how terrible WWⅡ was,let's hope the world never experiences that again.
(大戦がどれだけ悲惨なものだったかを知るにつけ、この先二度と同じことが繰り返されないよう願っています)」
【裕一さん】
「戦争についてほとんど語らなかった父ですが、この旗を実際に見て、どんなに悲惨な戦いだったんだろう、語ることができなかったのではないかと思いました。思い出したくない記憶だったのでしょう。ブッシーさん親子は、日の丸の赤の中に血がにじむ思いがあると分かってくれて、こんなに傷んでいるのに、大切にしまっておいてくださって感謝しかないです。ビルさんにお礼の手紙を送りたいです」
裕一さんは、この旗を「戦争の悲惨さに思いをはせることができる遺物だと思う。家庭にとどめておくより、より多くの人の目に触れるところに置いてほしい」と市に寄贈する意向で、今後、市の歴史博物館で展示される予定です。
過去の日章旗返還事例について少し調べたところ、戦地で亡くなった方の旗のケースが多く、生還した方のケースは珍しいのではないかと思います。
長年保管していたオリバーさんの息子、ビルさんは「今回、松丸さんが戦争で生き残ったと知ってうれしかった、無事だったのかどうか定かではなかったから」と安心していました。かつては敵だったけれど、今はお互いの安否を気づかえるというのは、平和だからなのかなあと思いました。
これを書いているのは、2022年8月24日で、ロシアによるウクライナへの侵攻が始まってからちょうど半年の日です。この2つの国がお互いをおもんぱかる日が早く来てほしいと願うばかりです。