れきしクンと訪ねた「鎌倉殿の13人」ゆかりの比企地域

  • 2022年10月17日

いよいよ大詰めを迎えている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。埼玉ゆかりの武士も大活躍しました。ドラマと関わりの深い比企地域を、熊谷市出身で歴史作家・歴史ナビゲーターの長谷川ヨシテルさん、通称「れきしクン」と訪ねました。

(さいたま局キャスター 武田涼花)

菅谷館跡 (嵐山町)

鎌倉幕府の有力御家人の一人で“坂東武者”の鑑といわれた畠山重忠。重忠が住んでいたと伝えられているのが、嵐山町にある菅谷館跡です。広さは東京ドームおよそ3個分、城の南側には川が流れ、攻めにくく交通の便もよい場所だったと考えられています。

館跡にある土塁の上に建っているのが畠山重忠公像です。昭和4年に造られ、町の文化財に指定されています。平服姿で烏帽子を被ったその姿は重忠の最後に関係していると、れきしクンは話してくれました。

畠山重忠は、最後は謀反を疑われて、ここから鎌倉へ向かうんですが、途中で討伐軍に遭遇して二俣川というところで討ち死にしてしまうんですね。でも、(このとき、重忠は)自分は無実なので、甲冑姿じゃなくていいと。平服姿というのは、鎌倉殿、将軍への忠義心を表しているんです。ですので、この像も鎌倉の方角を向いているんです。

三門館跡 (滑川町)

源頼朝の乳母(めのと)、つまり育ての親として知られる比企尼。幼少期に流人として伊豆に流された源頼朝に米や麦、和紙などを20年間にわたって送り続けた大恩人です。滑川町にある三門館跡は比企家の館といわれています。今でも空堀と土塁の一部が残っています。

中心部に館があったとされていて、堀と土塁でぐるっと囲まれています。比企家は権力を持ちすぎたがゆえに北条家に滅ぼされてしまったので、伝わってるものが非常に少ない。建物は残っていないけれど、歴史を味わうことができる貴重な場所です。

比企家はドラマをきっかけに地元でも見直されています。滑川町では比企家の物語を伝えようと、新たに紙芝居をつくり、学校や図書館などで披露されています。駅前には高さ5メートルもある比企尼の看板も誕生しました。

二ノ宮山展望塔 (滑川町)

滑川町には、比企地域が一望できる二ノ宮山展望塔もあります。展望塔からは、新宿の副都心や筑波山、浅間山などの大パノラマが広がります。

比企家は滅ぼされて何も残ってはいないんですが、きっとこの地形は変わらないですよね。何もないからこそ想像して、ロマンを感じてみるのも比企地域を楽しむポイントかもしれません。

二ノ宮山展望塔

扇谷山宗悟寺 (東松山市)

「鎌倉殿の13人」の一人、比企能員。能員の娘で、2代将軍・源頼家の妻の若狭局にゆかりがあるとされるのが東松山市にある扇谷山宗悟寺です。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国の修禅寺に幽閉されたあと、暗殺されてしまいますが、この寺には、頼家のものと伝わる位牌が残されています。

比企一族は北条家と敵対して滅ぼされてしまうわけですけども、実は若狭局がこの地域に落ちのびてきたという言い伝えがあります。そのときに夫の頼家の位牌を持ってきたと伝わっているんです。

扇谷山宗悟寺

串引沼 (東松山市)

宗悟寺から北に1キロほどのところにある串引沼と呼ばれるため池も若狭局にゆかりがあります。

若狭局は伊豆の修善寺からこちらに来たんですが、そのときに夫の形見として櫛を持っていたんです。ただ、それを毎日見て嘆き悲しみ、苦しんでいたということで、比企尼の勧めでこの沼に(櫛を)投げ捨てて、そして、思いを断ち切ったと伝えられているんです。

串引沼の土手には頼家が亡くなった修善寺から寄贈された桜の木が植えられています。「頼家桜」と呼ばれ、白く小さな花を毎年、咲かせながら今もこの沼を見守っています。

キャスターからひと言

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地が数多く残る比企地域。来月4日から6日まで、国内最大のウォーキングイベント「第45回日本スリーデーマーチ」が開催されます。5キロから50キロまでさまざまなコースがありますので、ぜひ、参加して、埼玉の武士ゆかりの地を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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