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「沖縄と太平洋戦争」

海洋貿易国家「琉球王国」として、独自の歴史と文化をはぐくんできた沖縄。

1879年の琉球処分によって「沖縄県」となって以降、急速に進められた同化政策によって、太平洋戦争のときには日本本土との一体感が強まっていました。その沖縄は、太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦の戦場となり、20万人を超す犠牲者が出ました。そのうち住民の死者は9万4千人にのぼります。また、サイパンやテニアンなど移住先で犠牲になった沖縄県出身者も数多くいます。

戦後は、日本本土から切り離されて米軍政下におかれた上に、東西冷戦勃発を背景に大規模な米軍基地が作られ、復帰40年の今も、日本の米軍基地(専用施設)の74%が沖縄県に集中する現実が続いています。

沖縄県出身者や沖縄戦を体験した人々(米軍人を含む)の証言と関連の番組で、大きな犠牲を強いられた沖縄の人々の戦争と戦後の体験を知り、沖縄のたどった現代史を学ぶことに役立ててください。

女子学徒隊の証言者を追加しました。(2014.08.06)

沖縄戦(6分15秒)

アメリカ軍の砲爆撃があまりにすさまじく、「鉄の暴風」が吹き荒れたとまで表現された沖縄戦。この戦闘は、20万人の命を奪いました。そのうち、住民の犠牲は9万4千人に上り、沖縄県民の4人に1人が命を落としたのです。まず、沖縄戦の概要をお伝えするこの動画をご視聴ください。

沖縄戦(6分15秒)

(※)住民と米軍

(※)亀甲墓を攻撃する米軍

(※)写真:大田昌秀編著「総史 沖縄戦」より

1. 基地に奪われたふるさと

沖縄戦終結後、サンフランシスコ条約発効で日本が独立を回復する一方、沖縄は日本本土から切り離され、引き続きアメリカの軍政下におかれました。そのうえ、東西冷戦を背景に米軍基地は拡大されて行ったのです。沖縄本島中部の宜野湾や伊江島では、住民がいったん定住し、田畑を耕していた土地が暴力的に奪われ、基地へと変わっていきました。こうした土地の強制収用は、沖縄の人々が反基地闘争や祖国復帰運動に突き進むきっかけともなりました。

沖縄戦を体験し、その後の米軍支配の時代から復帰後も、基地の問題と向き合い続けてきた人々の証言です。

キャンプ瑞慶覧

証言
平安山良有さん
沖縄戦、そして求め続けた軍用地返還
玉那覇清仁さん
沖縄戦、そして今も続く「基地問題」
国吉真保さん
沖縄戦、そして今も続く「基地問題」
花城清善さん
沖縄戦
日本ニュース      
戦後編 第34号 沖縄へ! 復員兵かえる -土浦      

2. 基地の島・沖縄、癒えることのない心の傷

戦争で家族の命を奪われた人の中には、自分が生き残ったことや家族の死に責任を感じている人がいます。また、戦争だけでなく戦後の体験に苦しみ続ける沖縄の人々がいます。家や土地を米軍基地に奪われたこと、頻発し続けた演習事故や米軍兵士による犯罪、多くの県民の反対を押し切る形で配備されたオスプレイなど米軍機の騒音に、いまも精神的な苦痛を感じ、不眠症や不安障害を訴えるお年寄りがいます。

土地を奪われた伊江島の人々による米軍に抗議する「乞食行進」

証言
玉栄真佐子さん
沖縄戦
大湾千代さん
沖縄戦
新垣ハルさん
沖縄戦
長浜キクさん
沖縄戦
証言      
平安山ヒロ子さん
沖縄戦
     

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3. サイパン・テニアンの戦い 昭和19年6月~8月

沖縄県からは、多くの住民が中南米、ハワイ、南洋諸島に「移民」として移住していきました。

その中でも、沖縄からの移民が多かった当時の委任統治領、サイパン、テニアンなど北マリアナ諸島で、多くの沖縄出身者が犠牲になりました。「テニアンの戦い」でかろうじて生き残った森山紹一さんが、追いつめられて起こった「集団自決」について語っています。

マリアナ諸島の戦いが終わると米軍は矛先をパラオ諸島のペリリュー島に向けました。米軍は昭和19年9月、ペリリュー島に上陸、2か月余りにわたって日米両軍が死闘を繰り広げ、日本軍はおよそ1万人の戦死者を出して玉砕、米軍もほぼ同数の死傷者を出す激戦となりました。そして、生き残った34人の日本軍兵士が終戦をまたいで2年半にわたって洞くつに潜み続けたのです。その一人、沖縄出身の海軍兵士・亀谷長成さんがその体験を語ってくれました。

テニアン島

証言 番組 日本ニュース
森山紹一さん
テニアンの戦い体験者
亀谷長成さん
茨城県・水戸2連隊
楽園の島は地獄になった ~テニアン島~ 第218号 戦勢熾烈 中部太平洋戦線

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4. 疎開船の悲劇 昭和19年8月

戦場になることが予想された沖縄では、軍隊の食料の確保などのため、足手まといになると考えられた子どもや年配の人々を中心に本土や台湾へ疎開させました。

しかし、その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目、米潜水艦の攻撃を受けてトカラ列島の悪石島近海で沈没、800人の学童を含む1400人あまりの命が奪われたのです。

対馬丸に乗船して、遭難・漂流の末生き残った人々が壮絶な体験を語ります。

対馬丸

証言
新崎美津子さん
対馬丸遭難者
儀間真勝さん
対馬丸遭難者
喜屋武盛守さん
対馬丸遭難者
平良啓子さん
対馬丸遭難者
証言 番組
糸数裕子さん
対馬丸遭難者
中島高男さん
対馬丸遭難者
堀川澄子さん
対馬丸遭難者
海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
日本ニュース      
第220号 学童疎開生活      

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5. 住民を巻き込んだ地上戦 沖縄守備軍の戦い 昭和20年3月~6月

米軍の沖縄侵攻が予想された戦争末期、沖縄守備軍は、本島南部を中心に隆起サンゴ礁の地形に洞くつ陣地を縦横無尽に堀って、立てこもる持久戦を行うことになりました。

米軍は昭和20年3月下旬に沖縄に進攻開始、4月1日には本島中部の読谷、嘉手納に上陸したのです。司令部のある首里に近づくにつれて、各地で血で血を洗う激戦になりました。5月4日には、総攻撃に出ましたが、失敗。5月下旬には、沖縄守備軍は首里の司令部を捨て、島の南部へ撤退することになりました。その際、野戦病院などに収容されていた動けなくなった重傷の兵士たちが、致死性の薬の入った注射を打たれるなどして殺される悲劇がおきています。

また、那覇近郊に住んでいた住民も軍の撤退と同時に南に向けて逃げ出し、そこに米軍の激しい砲爆撃が加えられて、大勢の住民が命を落とす大混乱に陥りました。

隠れ場所になった壕では、軍と住民が一体となり、日本軍によって住民が壕から追い出されたり、隠れていることを悟られないように、泣き声を立てる子どもが殺されたりする残虐行為が起こりました。

組織的な戦闘が終わったのは、6月下旬。しかし、それ以降も壕にたてこもり続けた将兵が大勢いました。北海道や東北から送られてきた部隊の元将兵、あるいは、現地召集でそうした部隊に配属された沖縄県出身の元兵士の証言です。

(※)瓦礫と化した首里城(※)那覇市内に突入する米海兵隊

証言
大井正さん
陸軍軍医の戦場
満山凱丈さん
北海道・歩兵第89連隊
笹森兼太郞さん
北海道・歩兵第89連隊
南義雄さん
北海道・歩兵第89連隊
証言
伊禮進順さん
北海道・歩兵第89連隊
大村光憲さん
北海道・歩兵第89連隊
北條與四郎さん
北海道・歩兵第89連隊
守屋友作さん
北海道・歩兵第89連隊
証言
渡辺春雄さん
山形県・第32連隊
田畑勝男さん
山形県・第32連隊
笹島繁勝さん
山形県・第32連隊
比嘉恒吉さん
山形県・第32連隊
証言
川畑勝さん
山形県・第32連隊
照屋清次さん
山形県・第32連隊
土屋清太さん
山形県・第32連隊
大場惣次郎さん
山形県・第32連隊
証言
前田宇太郎さん
山形県・第32連隊
伊東孝一さん
山形県・第32連隊
比嘉政雄さん
山形県・第32連隊
濱本俊則さん
山形県・第32連隊
証言
恵田光之さん
野砲兵第42連隊
松浦利秋さん
野砲兵第42連隊
譜久山ハルさん
従軍看護婦
西村金造さん
震洋特別攻撃隊
証言
二階堂悌二郎さん
震洋特別攻撃隊
土屋貞智さん
震洋特別攻撃隊
上野寿さん
震洋特別攻撃隊
石崎幸男さん
震洋特別攻撃隊
証言
大家和博さん
震洋特別攻撃隊
辰巳保夫さん
震洋特別攻撃隊
久保守人さん
震洋特別攻撃隊
豊廣稔さん
震洋特別攻撃隊
番組 日本ニュース
沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~ 沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~ "ベニヤボート"の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~ 第249号 南西諸島 陸の特攻隊出動
日本ニュース  
第250号 沖縄決戦 第252号 義烈 空挺部隊 第253号 沖縄戦線 雷撃隊出動  

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6. 動員された学徒たち 鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊など女子学徒隊

沖縄戦の特徴の一つに、中学生、女学校生など10代の若者が戦場に動員され、戦死や集団自決に追い込まれたことがあげられます。

中学生や男子師範学校生は、伝令や弾薬など物資の運搬などに、女学校生や女子師範学校生は、陸軍病院などで負傷兵の看護などに当たらされました。

米軍の侵攻が進むと、多くの生徒たちは軍について南部に撤退し、最後には糸満の荒崎海岸などに追いつめられました。そこまで何とかたどり着いた生徒たちの中から、米軍の掃討攻撃や手りゅう弾を炸裂させる集団自決で、多くの犠牲者が出たのです。

このほかにも、本島南部の白梅学徒隊、梯梧学徒隊、瑞泉学徒隊。本島北部のなごらん学徒隊、宮古島の宮古高女学徒隊、石垣島の八重山高女学徒隊などが組織され、日本軍の病院などに動員されました。

当時の中学生、師範学校生、女学校生が、同級生の死を始めとする過酷な戦場体験を証言しています。

(※)捕らわれた学徒兵(※)負傷した少女

証言
中山きくさん
白梅学徒隊
武村豊さん
白梅学徒隊
稲福マサさん
梯梧学徒隊
宮城巳知子さん
瑞泉学徒隊
証言
仲里ハルさん
積徳学徒隊
上原米子さん
なごらん学徒隊
大城信子さん
なごらん学徒隊
砂川末子さん
宮古高女学徒隊
証言
黒島春さん
八重山高女学徒隊
徳山昌子さん
八重山高女学徒隊
宮平盛彦さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
比嘉重智さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
証言
與座章健さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
摩文仁朝彦さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
神谷依信さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
山田義邦さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
証言
運天政和さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
比嘉森正さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
石川栄喜さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
新垣幸栄さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
証言
宮城真一さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
山城興文さん
沖縄県・鉄血勤皇隊
宮良ルリさん
沖縄戦
宮城喜久子さん
沖縄戦
証言 番組
上原当美子さん
沖縄戦
津波古ヒサさん
沖縄戦
本村つるさん
沖縄戦
戦場の少年兵たち~沖縄・鉄血勤皇隊~

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7. 離島の戦い 伊江島、阿嘉島 軍民一体の悲劇と「朝鮮人軍夫」

沖縄本島の周囲の島々にも、米軍が上陸し激戦になり、多くの住民が命を落としました。

伊江島では、長期にわたって日本軍に住民が協力して飛行場建設に当たったことから、軍民の一体感が強まっていたのです。4月半ば、伊江島に米軍が上陸すると、島の住民は、義勇隊や婦人協力隊として軍と行動を共にし、斬り込み攻撃や集団自決で多くの犠牲者が出ました。

戦後、慶良間などに移されていた住民が伊江島に戻ると島の面積の多くが米軍基地になっていました。家や土地を奪われた伊江島の人々は、飢えに苦しんだ末に、沖縄本島をめぐる「乞食行進」と自ら名付けた行脚を行い、その苦しみと米軍政の非道を訴えました。

砲撃を受ける伊江島

証言
知念金一さん
沖縄・伊江島の戦い
並里千枝子さん
沖縄・伊江島の戦い
比嘉正明さん
沖縄・伊江島の戦い
大城シゲさん
沖縄・伊江島の戦い
証言 番組  
知念宗真さん
沖縄・伊江島の戦い
山城竹さん
沖縄・伊江島の戦い
悲劇の島語れなかった記憶~沖縄県・伊江島~  

慶良間諸島の阿嘉島では、陸軍の海上攻撃艇部隊に朝鮮から徴用されてきた人々が、軍夫として雑役を担わされました。米軍上陸後、食糧がなくなる中、わずかな稲を盗んだ人々が日本軍によって銃殺されたことなど過酷な体験を、当時徴用された人々やその事件を目の当たりにした人が語ります。

(※)慶良間に配備されていた特攻艇

証言 日本ニュース
カン・インチャンさん
沖縄戦
イム・ビョンファンさん
沖縄戦
垣花武一さん
沖縄戦
第165号 朝鮮青年に徴兵制<東亜不動の体制成る>
日本ニュース      
第223号 朝鮮同胞も戦列へ      

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8. 米海兵隊員の沖縄戦

沖縄戦での米軍側の死者は1万2,500人あまり、負傷者は7万人以上に上ったと言われています。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げました。上陸した米軍のうち、最もかれつな戦闘に関わったのが第6海兵師団と名付けられた部隊です。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘で、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言しています。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかります。

なお、沖縄には今も数多くの米軍施設がありますが、「キャンプ・フォスター」、「キャンプ・ハンセン」、「キャンプ・キンザー」、「キャンプ・シュワブ」、「キャンプ・コートニー」など米軍側の施設名称のほとんどが、沖縄戦で戦死した海兵隊将兵の名前から付けられています。

米第6海兵師団の兵士たち

証言
カール・ブラザースさん
アメリカ軍
フランク・ヘイグラーさん
アメリカ軍
トム・プライスさん
アメリカ軍
フェントン・グラナートさん
アメリカ軍
証言    
エド・ホフマンさん
アメリカ軍
チャールズ・レパンドさん
アメリカ軍
   

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