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特集 消えた女学校 女子学徒たちの沖縄戦

1945年(昭和20年)3月からおよそ3か月間の地上戦で、20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。
いまの高校生にあたる女学校や師範学校の生徒が、戦場に駆り出され、多くの少女が命を失いました。
しかも、戦争が終わっても、生き残った人々が戻るべき母校の多くは消え去っていました。
沖縄本島の南部は廃墟と化していたのです。しかし、生き残った女性たちは、その中から立ち上がり、沖縄の復興を支え、
そしてその体験から平和の大切さを伝える活動を続けてきました。
戦争当時の少女たちと同じ世代の、高校3年生 宮崎花澄さんが、女子学徒として沖縄本島南部の戦場で過酷な体験をした方と共に、
戦跡を訪ねました。花澄さんは、どんなことを感じたのでしょうか。

なごらん学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊の証言者を追加しました。(2014.08.06)

番組女子学徒たちの沖縄戦(19分26秒)

現在の那覇市域にあった女学校と師範学校女子部に在学していて、沖縄戦に動員された8人の方々の証言をもとに、入学した頃の様子から、沖縄戦、そして終戦後に至るまでの体験を、この番組では時間を追ってたどります。この番組をご覧になったあとに、ひとりひとりの女子学徒のみなさんの証言動画を見れば、沖縄戦についてより深く知ることができます。

宮崎花澄さん 沖縄県立南風原高校3年生

小さいときから、民謡や琉球古典音楽、琉球舞踊に取り組み、高校でも郷土文化コースで、沖縄の芸能を学び、郷土芸能クラブの部長をつとめています。花澄さん自身のおじいさんやおばあさんは、沖縄戦のときは幼かったため、戦争の記憶がほとんどなく、戦争の話を聞く機会はほとんどなかったそうです。

エピソード1

女学校と師範学校での生活

高等女学校は、小学校卒業後に女性が進学する学校で、4年から5年の教育がおこなわれました。
師範学校は、先生になるための学校でした。沖縄には大学はなかったので、県内でもっとも上級の学校で、同世代の若者の中からわずかの人しか進学しませんでした。ですから、通っていた若者は、地域の代表としてとても真剣に勉強に取り組みました。

さらに、沖縄戦が近づくと、陣地構築などの作業に動員されたり、看護教育を受けたりしましたが、故郷と国を守るためだと、懸命に働きました。県内全体から進学したので、寄宿舎に暮らす生徒もたくさんいました。そうした生徒たちは、勉強に励み、友情をはぐくみ、そして将来郷土のために何ができるのかなどの夢を語り合っていました。

当時の話を聞いてみましょう

元白梅学徒隊の中山きくさんに、かつて二高女のあった場所に案内してもらい、当時の女学校での生活について話を聞きました。


中山きくさん
白梅学徒隊

中山きくさん 白梅学徒隊

元ひめゆり学徒の宮城喜久子さんは、戦争の始まった年に入学、戦争が続くと、授業はほとんどなくなっていったそうです。


宮城喜久子さん
ひめゆり学徒隊

宮城喜久子さん ひめゆり学徒隊

宮崎花澄さん
「当時どんな学校生活だったのかを聞いて」

「中山さんもブラスバンド部で夢はもって、高校生活を送ってたらしいんですけど、当時戦争があって、私たちと同じように夢を追いかけてたけど、戦争の最中は、そういった夢をかなえることができなくて、今の私たちはこうやって恵まれた環境で自分たちの好きなことをしたり、できていることが、当たり前ではなくて、感謝しないといけないんだなというのを感じました。」

「こうやって銅像とかが建てられて、中山さんたちみたいにお話してくださる方がいることで、私たちも学ぶことができるので、こういうことがあったことを決して忘れてはいけないと思いました。」

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エピソード2

「十・十空襲」~1944年(昭和19年)10月~

沖縄が、最初の戦火に見舞われたのは、1944年(昭和19年)10月10日の空襲でした。沖縄全域が空母から発進した爆撃機・戦闘機に襲われ、とくに、集中的に攻撃された那覇市は、灰燼に帰しました。この時多くの学校が校舎を失っています。

そして、年が明けると、高学年の生徒たちは、沖縄守備軍からの求めに応じて看護の教育を受けることになりました。すでにフィリピンで激戦が続き、連合軍の沖縄侵攻が間近に迫っていることが予想され、短期間に厳しい講習が行われました。

当時の話を聞いてみましょう

元梯梧学徒隊の稲福マサさんは、那覇市のほとんどを焼き尽くした十・十空襲を目の当たりにしていました。


稲福マサさん
梯梧(でいご)学徒隊

稲福マサさん 梯梧(でいご)学徒隊

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エピソード3

「アメリカ軍の侵攻始まる」~1945年(昭和20年)3月~

アメリカ軍は、3月26日、まず慶良間諸島に上陸を開始、同時に沖縄本島に対して激しい艦砲射撃と空襲を開始しました。このころ、各地に作られた軍の病院に、学校単位で配属されました。

学校によってはそこで、卒業式を行ったところもありました。砲弾が頭上を飛び交う中での卒業式だったと言います。
また、戦争が近づいているということもあって、卒業式が行われないままの学校の方が多かったのです。

当時の話を聞いてみましょう

動員されたのは、高学年の生徒たち。戦場で卒業式が行われた学校がありました。元ひめゆり学徒の本村つるさんがその時の様子を語っています。


本村つるさん
ひめゆり学徒隊

本村つるさん ひめゆり学徒隊

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エピソード4

「続々と運ばれてくる負傷兵」~1945年(昭和20年)4月~

4月1日、アメリカ軍が、本島中部の読谷、嘉手納の海岸に上陸してきました。この時、日本軍はひきつけて攻撃する方針でしたので、日本軍の激しい抵抗はありませんでした。しかし、アメリカ軍が、南部に迫ってくるにつれて、戦闘は激しくなり、大勢の負傷した将兵が病院に運び込まれるようになりました。

陸軍の病院で治療や食事の準備にあたる生徒たちは、眠る暇もないほど、仕事に追われるようになりました。そして、重症の兵士の手術、切り落とされた手足の処理、排せつ物の世話、これまでの人生では見たこともない、過酷な仕事を強いられました。さらに、砲弾が病院に落ちるようになり、生徒の中から死傷者が出るようになりました。

当時の話を聞いてみましょう

二高女の武村豊さんたち女子学徒は、続々とけがした兵士たちが送られてくるとこれまで見たことも体験したこともない過酷な仕事をしなければなりませんでした。


武村豊さん
白梅学徒隊

武村豊さん 白梅学徒隊

宮崎花澄さん
「軍の病院での体験を、元白梅学徒の武村豊さんからうかがって」

「天気がよかったんですけど、入ってみたら肌寒くて、中も真っ暗。当時こういう所で、ロウソクの火だけで手術を行ったりしていたっていうのを聞いてびっくりしました。けがした兵隊さんたちの手術とかを、私と同じぐらいの年頃の女学生たちが行っていたっていうのは、考えるだけでも、自分だったらできないなって思いました。」

「手足の切断であったり、もう考えただけでも怖いんですけど、当時は、そういうのもだんだんやっていくうちに慣れていったって聞いて、戦争って恐ろしいと思いました。」

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エピソード5

「砲爆撃下の撤退」~1945年(昭和20年)5月~

沖縄戦が始まっておよそ2か月。5月の下旬になると、アメリカ軍は、首里の司令部に迫りました。沖縄守備軍司令部は、南部への撤退を決定、軍も多くの住民も本島南部へ向かっていっせいに移動を始めたのです。女子学徒たちも、病院を後にしました。

その際、捕虜になることを防ぐために、撤退できない患者たちが、致死性の薬の入った注射を打たれたり、手りゅう弾をさく裂させて自決したりする悲劇が起こりました。
女子学徒たちは、その撤退の途中、多くの民間人が砲爆撃で死んでいるのを目にしたのでした。また、学徒のなかからも犠牲者が出ました。

当時の話を聞いてみましょう

首里高女・元瑞泉学徒隊の宮城巳知子さんは、撤退についていけない重症の患者に過酷な措置が取られたのを目の当たりにしていました。


宮城巳知子さん
瑞泉学徒隊

宮城巳知子さん 瑞泉学徒隊

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エピソード6

「潜んだ壕に行われた馬乗り攻撃」~1945年(昭和20年)6月~

学徒たちが撤退した先は、糸満など南部の自然の壕(洞窟、沖縄の言葉で「ガマ」)でした。そこでも、看護や治療の仕事は続きました。そして、6月に入ると、アメリカ軍が南部にやってきました。

アメリカ軍は、壕を取り巻き、出口をふさいで爆弾や黄燐弾を投げ込んで壕に潜む人々を殺したり、いぶし出したりする「馬乗り攻撃」を行いました。女子学徒隊がいた壕にもこの「馬乗り攻撃」が行われ、多くの生徒が犠牲になったのです。

当時の話を聞いてみましょう

元ひめゆり学徒の宮良ルリさんのいた伊原第3外科壕に、黄燐弾が投げ入れられ、数多くの友人と先生を亡くしました。


宮良ルリさん
ひめゆり学徒隊

宮良ルリさん ひめゆり学徒隊

元ひめゆり学徒の上原当美子さんのいた伊原の第1外科壕にも爆弾が投げ込まれました。どんな状況になったのでしょうか。


上原当美子さん
ひめゆり学徒隊

上原当美子さん ひめゆり学徒隊

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エピソード7

「解散、そして死の彷徨」~1945年(昭和20年)6月下旬~

6月初旬から中旬にかけて、もはや負傷兵の看護は不可能になり、軍から女子学徒隊に対して、解散して、壕を脱出するように命令が出ました。しかし、本島南部は、アメリカ軍に完全に取り囲まれ、安全な脱出路は残っていません。なんとか馬乗り攻撃を生き抜いた学徒たちは、小さなグループに分かれて、壕を出て北部をめざしました。

ところがアメリカ軍の砲撃や銃撃に会い、命を失いました。また、捕虜になって辱めを受けると教えられていたために、集団自決する生徒もいました。動員された女子学徒のうち、犠牲者の多くは、この時に出たのです。

当時の話を聞いてみましょう

積徳高女の仲里ハルさんは、隊長から「決して死なないように」と訓示を受けて、同級生と一緒に壕を出ました。その時、何が起きたのでしょうか。


仲里ハルさん
積徳学徒隊

仲里ハルさん 積徳学徒隊

糸満市にある「白梅の塔」に、中山さんに案内してもらいました。この場所で、 大勢の同級生が亡くなったそうです。


中山きくさん
白梅学徒隊

中山きくさん 白梅学徒隊

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エピソード8

「収容所生活、戦後の復興」~1945年(昭和20年)6月から1946年(昭和21年)〜

動員された生徒の半数の人々は帰ってきませんでした。中には、どこでどのようにして亡くなったのかわからない生徒もおおぜいいます。
生き残った生徒たちは、住む家も学校も消えさり、茫然として収容所での生活を送ることになりました。家族を失った生徒もたくさんいました。

しかし、人々は復興に立ち上がりました。収容所にいるうちから勉強を再開して、多くの女生徒たちは、その後先生となり、子どもたちを教えるようになりました。沖縄の復興を支えたのです。また、その苛酷な戦場体験を踏まえて、平和の大切さを訴える活動も、今に至るまで続けています。

当時の話を聞いてみましょう

数多くの生徒や先生を失って、アメリカ軍の捕虜になった津波古さんは、収容所で何を思ったのでしょうか。


津波古ヒサさん
ひめゆり学徒隊

津波古ヒサさん ひめゆり学徒隊

戦後、中山さんはどんな気持ちで沖縄戦の体験を伝えようとしたのでしょうか。そして、いまその体験をどのように若者に引き継いでもらおうと考えているのでしょうか。


中山きくさん
白梅学徒隊

中山きくさん 白梅学徒隊

最後に 女子学徒のみなさんの沖縄戦体験をうかがって

私と同じ年頃の女学生が、たくさん命をなくされていて、この女の子たちもきっと、たくさんの夢や希望があったと思うんですけど、戦争の最中だったので、夢や希望を叶えることはできなくて。また、戦争中は自分の好きなこともできなくて、看護婦さんになって、けがした兵隊さんたちを治療したり、今の私たちからは想像もつかない、考えられないことが昔はあって、こういった戦争中の学生さんたちは、こういった経験をして、そして生き残ってきた方たちも、そういった昔の思いとか、心の傷とかもまだ残ってると思うんですけど、私たちがそういうのを聞いて、これからの平和のためにも学んでいかないといけないなって思いました。

自分は小さいころから芸能を、大好きでやっているので、こういう沖縄のすばらしい芸能をこれからも続けて学んでいきたいと思いますし、戦争で亡くなった方たちの無念の思いも肝に銘じながら、これからも自分の好きな芸能をしっかり学び続けたいと思います。

戦争を体験して、生き残っている方の中にも、芸能が好きな方たちも多くいらっしゃると思います。当時は、私たちみたいな年頃のときは戦争中で、こういうことはできなかったと思うんですけど、私たちがこうやって、学校とかクラブとか部活動で、こういった活動をしていく中で、また舞台などで披露することで、そういった方たちにも喜んでもらえるといいなって思います。

編集後記

戦争体験を記録して公開、そして、未来につないでいく、それが、私たちの「戦争証言プロジェクト」の大きな目標です。ですから、若い世代とともに戦争体験を記録することも大切だと考え、今回は高校生の宮崎花澄さんに加わっていただきました。沖縄の伝統芸能をしっかり受け継ごうと頑張っている宮崎さんは、今回の取り組みを通じて、戦争体験も伝統芸能と同様に引き継いでいこうと思ってくれたようです。ぜひ、今回の特集、また、この戦争証言アーカイブスも、若い世代の方々に利用していただきたいと思っています。

最後に、今回の特集を制作するにあたってご協力いただいた、中山きくさんをはじめ「青春を語る会」の元女子学徒のみなさん、元ひめゆり学徒の方々を中心とする「ひめゆり平和祈念財団」のみなさん、「ひめゆり平和祈念資料館」のみなさん、南風原高校郷土芸能部の部員と先生のみなさんに、感謝を申しあげます。ありがとうございました。

NHK戦争証言プロジェクト 宮本聖二