戦後70年特集 第4回 昭和20年8月15日正午、天皇がポツダム宣言の受諾を国民に伝える「玉音放送」が放送されました。3年9か月に及ぶ太平洋戦争の幕が閉じたのです。人々はどのように終戦を受けとめたのでしょうか。

「それぞれの終戦」

昭和20年8月15日正午、天皇がポツダム宣言の受諾を国民に伝える「玉音放送」が放送されました。3年9か月に及ぶ太平洋戦争の幕が閉じたのです。人々はどのように終戦を受けとめたのでしょうか。

軍国主義の除去、戦争犯罪人の処罰、植民地・占領地の放棄、日本軍の無条件降伏などを求めたポツダム宣言。それを受諾するか否かで、政府や軍部には激しい対立がありました。 原爆投下とソ連参戦の後、天皇制の維持さえ認められれば受諾は仕方ないとの意見が強まりますが、徹底抗戦を唱える声も根強く存在しました。そのため御前会議が開かれ、天皇自らが受諾の「聖断」を下し、昭和20年8月15日正午、ラジオを通し、天皇自らの声で日本の降伏が国民に告げられました。 人々は終戦を、どのような気持ちで受けとめ、その時どのような体験をしていたのでしょうか。さまざまな立場の人々の証言で振り返ります。

  • 1、国内にいた人々は終戦をどう受けとめたのか
  • 2、旧満州や朝鮮半島にいた人たちはどのような体験をしたのか
  • 3、南方で戦っていた兵士たちはどう終戦を迎えたのか
  • 4、偽の命令で玉音放送を阻止しようとした兵士たち

国内にいた人々は終戦をどう受けとめたのか

国内にいて戦争を支えた、いわゆる「銃後」の人々。8月15日をそれぞれの立場、思いで迎えました。終戦の前日に空襲を受け、仲間を失った大阪砲兵工廠に動員されていた方。学童疎開先の宮城県で「玉音放送」を聞いた方。朝鮮半島から徴用され筑豊の炭鉱で働かされていた朝鮮人。連合軍の捕虜を収容していた山口県宇部の捕虜収容所に勤めていた元兵士の証言をお聞き下さい。


大阪砲兵工廠

旧満州や朝鮮半島にいた人たちはどのような体験をしたのか

ドイツ降伏後の対日参戦を英米と密約していたソ連は、8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、150万を超す大兵力で満州(現中国東北部)、や朝鮮北部などに相次いで侵攻しました。日本の傀儡(かいらい)国家・満州国には、農村から送られた開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍など多くの国策移民が入植していました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された日本人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。 終戦前後の混乱の中で満州や朝鮮半島にいた人々はどんな経験をしたのでしょうか。


満州からの引き揚げ者

南方で戦っていた兵士たちはどう終戦を迎えたのか

南方の戦地では、主戦場が移動する中、島などに取り残されて、ジャングルの中で壮絶な飢えと渇き、病に苦しみながら現地住民のゲリラなどとの戦いを余儀なくされていた将兵たちが多くいました。
終戦間際まで苦難の戦いを強いられていた兵士たちに終戦の知らせはどのように伝わったのでしょうか。


レイテ島に上陸する日本兵

偽の命令で玉音放送を阻止しようとした兵士たち

昭和20年8月14日。御前会議でポツダム宣言の受諾が決まると、一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が、終戦に反対し、徹底抗戦を叫びクーデターを起こそうとしました。彼らは、近衛師団を動かそうとしますが、森赳(たけし)近衛師団長は、蜂起に加わるよう説得に来た将校たちに対してこれを強く拒否。彼らは森師団長を殺害した上で、偽造の命令によって近衛師団の部隊を動かし皇居を占拠、外部と遮断しました。さらに、天皇が終戦の詔勅を読み上げた「玉音放送」の録音盤を奪おうとしたうえ、当時内幸町にあった日本放送協会も襲撃したのです。しかし、録音盤を見つけられないまま、このクーデターは東部軍管区によって鎮圧されました。
翌日の正午、「玉音放送」が行われ、終戦の事実は広く伝えられました。ニセの命令とは分からないまま、反乱に参加させられた元兵士たちの証言をお聞き下さい。

皇居前を行進する「近衛兵」