戦後70年特集 第3回 空襲 終戦直前の昭和20(1945)年7月。日本の地方都市はマリアナ諸島などから飛び立ったB29などの米軍機により、激しい空襲を受けていました。

戦後70年特集

第3回 空襲 終戦直前の昭和20(1945)年7月。日本の地方都市はマリアナ諸島などから飛び立ったB29などの米軍機により、激しい空襲を受けていました。空襲はどのようにして人々の生活を奪っていったのでしょうか。終戦直前の7月に空襲を受けた青森市と大分県保戸島の空襲体験者の証言を掲載します。

  • 昭和20年(1945年)7月14日、米空母艦載機100機が陸奥湾に姿を現し、青函連絡船12隻全てが撃沈されました。市内各所も機銃掃射などを受け、400人以上の命が失われました。石炭輸送の妨害が目的だったのです。この空襲で、青森市民の多くが避難を始めました。これに対して、県や市は空襲の際、街を守るべき市民がいなくなることへ危機感を抱き、「7月28日までに、自宅に帰らなければ、物資の配給を停止する」と呼びかけました。
    その7月28日夜、62機のB29が青森市上空に姿を現し、焼い弾を投下、1018人が犠牲になったのです。

  • 終戦の3週間前の昭和20年(1945年)7月25日、米軍の空母艦載機3機が保戸島を襲いました。 米軍資料によれば、目標はレーダー基地。しかし、米軍機が爆弾を投下したのは、500人の子どもが通う「保戸島国民学校」の校舎でした。投下された爆弾は1年生と5年生の校舎を一瞬にして崩壊させ、たくさんの子どもたちが下敷きになりました。さらに、米軍機は、逃げ惑う子どもたちに機銃掃射を浴びせかけました。この攻撃で児童125人、教員2人が犠牲になりました。

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