キャスター津田より

3月7日放送「福島県 若者・子ども編」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県内の若い世代の声です。いずれも原発事故や津波で故郷が大きな被害を受け、その運命を受け入れて未来を切り開こうとしている若者たちです。

 

 まず、福島市に行き、浪江町(なみえまち)出身の18才の男子高校生を訪ねました。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

原発事故の時は小学3年生で、両親は4年前に福島市内に家を構え、家族5人で暮らしています。浪江町では町民の8割が住んでいた地域で避難指示が解除されましたが、解除まで6年もかかったため、もはや多くの町民は避難先に家を構えています。高校で放送部に入り、2年前、アメリカから来た英語教員が福島の現状を理解していくドキュメンタリーを制作しました。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

4月からは神奈川の大学で、映画制作を学ぶそうです。

 「浪江町は自然豊かで、海に釣りに行ったり、海水浴に行ったり…。町に戻れなくて、友達と全然会えなくて、全然知らない所で学校生活を送るのは、やっぱりつらかった…。番組作りは難しいこともあったけど、浪江町をもっと伝えていきたくて、自分がやらなきゃいけないという思いがありましたね。これから映画を学んで、浪江町をもっと世界の人に知ってもらえるような作品を作っていきたいです。伝えていく側になる世代は僕たちの世代しかいないので、生まれてくる子ども達にも語り継いでいかなければと思いますし、風化させてはいけないというのが一番強いかな」

 現在、浪江町には国内大手のスーパーや新工場が進出し、小中学校が再開して、コメや新しい作物が出荷され、港からは漁船も出ています。JR常磐線も再開して仙台までつながっていますが、実際町に住むのは人口の7%に過ぎません。こうした両面ある被災地の正確な姿は、“復興五輪”という一過性のお祭りでは伝わりません。被災地の今を世界に伝え続けるという彼の志こそ、大きな宝です。

 次に、福島第一原発のある大熊町(おおくままち)に行きました。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

去年4月、ごく一部の地区で避難指示が解除されましたが、今は役場のほか、周辺に災害公営住宅と仮設店舗が3つあるだけです。住んでいるのは人口のわずか1.5%(約150人)で、ほとんどの町民の家は帰還困難区域の中にあり、すでに全国各地で新たな人生を始めています。県内の除染で出た廃棄物の貯蔵施設が稼働する一方で、福祉施設は建設中で、診療所、学校、スーパーなどもこれからです。そんな中、役場には東京からUターンして働く職員がいました。27歳の男性で、高校卒業の直後に原発事故が起き、東京の大学へ進んで都内で就職しました。しかし2年前に故郷に戻り、現在は近くの職員アパートで一人暮らしだそうです。

 「東京で暮らしながら、小学校とか中学校とか、通学で歩いていた道を思い出したりしていました。そういった所を、いずれ避難指示が解除されて自由に人々が行き交う場所にしていくために何かできないか、そう思った時に大熊町役場で働くという道を選びました。住んでいらっしゃる方と話をする中で、“この地域はこうあるべきだ”という話になって、ちょっと熱が入るシーンがあったり、やっぱりそういった思いや熱を、しっかりと町づくりにつなげていかなければと思います」

 他とは比較にならないほど課題を抱えた町だからこそ、諦めずに町に尽くす人材は何よりの希望です。

 そして、川内村(かわうちむら)に行き、去年春に開店したパン店を訪ねました。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

週末には売り切れ必至だそうで、50代の夫と30代の妻が経営し、奥様が川内村の出身です。神奈川県に避難してパン店で働き、神奈川出身のご主人と結婚しました。2年前に村に戻り、実家の旅館で働きながら開店資金を貯めました。川内村は東側半分に避難指示が出され、村長は独自に全村避難を決断しました。ただ、1年後には避難指示が出なかった人から帰村しはじめ、2014年、16年と比較的早く全ての避難指示が解除されました。今では農産物直売所やコンビニもあり、郵便局、信用金庫、診療所、老人ホームも再開し、保育園児から中学生までが通う一貫校が再来年度に始まります。すでに人口の約8割は村に戻りましたが、そのうち40代以下は1割で、村は子育て世代の移住に力を入れています。2人はこう言いました。

 「小学生のころ、隣町のピアノ教室の帰りに、スーパーの中のパン屋さんに母と寄るのが楽しみで、将来パン屋さんをやりたいなと…。川内村が無くなってほしくないという思いと、自分の好きな故郷に人が多く集まってほしいという思いがあったので、村に住もうと決めました。仕事中にケンカもしょっちゅうしますが、お客さんが来れば笑顔で“いらっしゃいませ”って…。お客さん同士がここで出会って、いろんな笑顔とか笑い話でいっぱいになって、元気になってもらえばいいなと思います」

 さらに、沿岸南部のいわき市にも行きました。いわき市は避難指示から外れましたが、津波で460人以上が亡くなり、6万3千棟もの住宅が被害を受けました。久ノ浜(ひさのはま)地区では、小学校の敷地に仮設商店街がつくられ、それを引き継いだ商業施設が3年前に完成しました。施設の一角にあるカフェは30代の女性が営んでいて、彼女の自宅は津波で全壊しました。東京で働いていましたが、商業施設のオープンを機にUターンしました。店ではヨガ教室を開いたり、手作り品も販売しています。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

 「東京で一人暮らしする中で、このまま東京で暮らすのかな?と考えてしまって、自分の身近にいた人たちが見える場所にいたい、見守っていきたいって思って帰ってきました。店を始めたら、地元の方だけじゃなく他県の方も結構いらっしゃって、いろんな刺激をくれて面白いです。子どもを連れて気軽に行ける場所が地元にないとやっぱり大変で、ママ友同士で遊びに来たり、気軽に集まれる場所をつくろうと始めた店なので、初心は忘れずに、ベース基地みたいに使っていただけたらうれしいです」

 

 さて、今回の取材では、県外から福島にやってきた若者たちにも会うことができました。3年前、一部を除いて避難指示が解除された富岡町(とみおかまち)では、JR常磐線の富岡駅周辺に災害公営住宅が整備され、大型スーパーやホームセンター、診療所、近隣の町までカバーする2次救急病院もあります。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

小中学校、図書館も再開しましたが、住んでいるのはまだ町民の1割です。災害公営住宅の集会所では、月に一度住民交流会が開かれ、東北大学のボランティアが手作りの食事をふるまい、高齢者と一緒にレクリエーションを楽しみます。学生の一人、鳥取県出身の24歳の男性は、77年前の鳥取地震で曽祖母が犠牲になった話を聞かされて育ったそうで、東北に強い思いを寄せてきました。

 「最初の年に会った人が富岡町に帰れると信じていて、でも町がどんどん変わっていく姿や、なかなか町に人が戻らない姿を見て、絶望というか、そう感じていたのが僕にとっては衝撃で…。人とつながっている感覚は、すごく大事だと思うんですよ。被災者とか学生とか全然関係なく、つながっていたら楽しさを倍にできたり、悲しいことも分かち合えるじゃないですか。距離もあるし、お金の問題もあるけど、社会人になってからも、細くてもいいからつながりがあるといいと思います」

 人間は何であれ、自分のことを見ている人や、気にかけてくれる人がいると思うだけで、大きな心の支えになります。普段は遠くにいたとしても、つながることだけで立派な支援になります。

 そして、内陸部の田村(たむら)市にも行きました。市の東部・都路(みやこじ)地区に避難指示が出て、市は地区の全世帯を避難させました。6年前には国の避難指示も解除され、8割以上の住民は地区に戻っています。市内にある公民館で行われていたソバ打ち講習会を訪ねると、栃木県出身の23歳の大学生が参加していました。地元名産のソバをもっと知ろうと思ったそうで、福島大学に入り、授業で田村市を訪れたのが縁で、去年移住しました。まだ学生ですが、都路地区にある地ビール会社を手伝っていて、地元のソバ粉を使ったワッフルも商品化しました。卒業後は全国でワッフルを販売する計画です。

3月7日放送「福島県若者・子ども編」

 「震災後、避難指示が出た町の雰囲気や住民にネガティブなイメージを持っていた部分もあったんですけど、実際来てみるとそんなことはなくて、自分たちのやりたいことを楽しんでいる大人がたくさんいて、すてきな所だなあと…。阿武隈地域の“人”と“食”の魅力を発信したいです。僕自身が人に魅力を感じているし、自分もそういう人になりたいと思うので、田村市のソバ粉でワッフルを作り、地ビールをキッチンカーに乗せて全国を回って発信して、“食”を入り口に、どんな地域なんだろう、どんな人がいるんだろうって、お客さんが阿武隈地域の魅力にどんどん興味を持ってくれることが理想ですね」

 地元の人にすれば、震災で傷つき、未来の展望もなかなか描けない土地をわざわざ選んで住んでくれる人は、気持ちを明るくしてくれる存在です。移住者というのは、存在するだけで、すでに十分な支援になっているのかもしれません。

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