キャスター津田より

10月19日放送「岩手県 釜石市」

 このたびの台風19号では、番組スタッフ一同、亡くなられた方々にお悔やみ申し上げますとともに、被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

 今回は、ラグビーワールドカップの開催で注目を集める、岩手県釜石(かまいし)市を取材しましたが、取材を終えた直後に台風19号が来襲し、釜石市内でも浸水がありました。復興工事中の道路の土が流れたり、舗装が剥がれた所もあったようです。ラグビーワールドカップの試合も中止になりました。
 台風19号の被災地については、現在この番組でも取材していて、来週と再来週にお伝えする予定です。
 今回は、台風が来る直前に取材した、釜石市の声をお伝えします。

 

 釜石市は、人口およそ3万3千、震災前と比べて2割弱も減っています。1980年代、ラグビーの社会人チーム『新日鉄釜石』が日本選手権で7連覇したことが有名で、製鉄やラグビーの町として知られてきました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

震災では、中心部をはじめ甚大な被害を受けましたが、昨年末に市内全ての災害公営住宅の整備を終え、災害危険区域を除く宅地整備も完了しました。

 

 いま、釜石市内はラグビーワールドカップの横断幕や大会グッズであふれ、活気に満ちています。最初に誘致の話題が出たのは、震災からまだ1年も経っていない頃でした。まともに住む家もない、がれきも片付いていない時だったので、“何をそんな夢物語を…”、“お金をかけてスタジアムを作るなんて…”等々、地元では、何より復興事業を優先しろという声も相当上がりました。そこから徐々に、行政も含めて釜石がまとまり、震災から4年後の2015年、大会誘致に成功しました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

高校・大学時代はラガーマンで、市民団体を立ち上げ、大会の誘致に奔走してきた50代の男性は、こう言いました。

 「震災があって、当然生活が優先でしたが、釜石の10年後、15年後を考えた時に、ラグビーワールドカップが来て地域の子ども達が関わることで、未来に明るい希望を持てると想像できたので、誘致する活動をしました。町の再建とともに少しずつ応援してくれる人は増えましたし、この熱をこれからつなげていきたいです。ラグビーとか、スポーツを通じて視野が広がったり、挑戦する子どもが増えて、その子たちが釜石を支援したり、好きになってくれることで、新しい釜石ができ上がると思っています」

 次に、中心部のコミュニティセンターに行き、町を盛り上げようと発足した“ほ~でなす釜石”という団体のメンバーと会いました。30代の女性と40代の男性で、男性は震災ボランティアが縁で東京から移住し、釜石を自転車でめぐるツアーガイドとして働いています。いま団体が力を入れているのは、オリジナルの“すごろく”で、それぞれのマスで止まるごとに、釜石の特産品や歴史を学べるようになっています。

10月19日放送「岩手県釜石市」

中には、釜石市の防災市民憲章『戻らない 一度逃げたら戻らない 戻らせない その決断が命をつなぐ』という一文を声に出して唱和するというマスもありました。2人はこう言いました。

「釜石も広くて、それぞれに良さがあるので、これを回れば釜石の全エリアを制覇したような感じで…。近場の、住んでいる周りのことは分かっているんですけど ちょっと離れると意外と釜石も広いので、知らない場所とか知らない歴史があったりして、すごろくを作ってすごく勉強になりましたね。釜石にいると、“釜石は何もないよね”とか思いがちなんですけど、ちょっと目を向けてみると、歴史だとか自然だとか、楽しいことっていっぱいあるので それを遊びながら知ってほしいという希望ですね」

 市の中心部には大手資本の商業施設が進出し、市民ホールの再建なども行われました。ラグビーワールドカップの新スタジアムがある鵜住居(うのすまい)地区では、約50haを平均1.7mかさ上げし、三陸鉄道の駅前エリアが整備され、先月にはスーパーを核とした商業施設もオープンしました。ただ、復興事業で土地をかさ上げして整備しても、住民は戻らず、空き地も点在しています。資金面で住宅再建を諦めて災害公営住宅に入る人や、宅地整備の完了を待てずに地元を離れた人も少なくありません。町を歩く住民が減り、復興工事の関係者も減った今、釜石をどう盛り上げるかは今後も続く課題です。

 その後、中心部から車で10分の平田(へいた)地区に行きました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

3年前に建てられた高齢者向けのデイサービス施設を訪ねると、所長を務める60代の男性が話をしてくれました。家の2階にいた時に津波で家ごと流され、幸いにも高架橋に引っかかって止まり、窓から脱出したそうです。趣味は女形の日本舞踊で、震災後、県内外の被災地で踊りを披露し、今も月に数回は慰問を続けています。

 「津波の時、“もう死ぬんだな、死ぬってこういうもんかな”って、特に恐怖とかはなくて、仕方ないという心境でした。震災後、踊りの先生に励まされて、4月末に避難所の外でブルーシートを敷いて踊ったんですけど、みんながすごく喜んでくれて…。自分が誰かに何かしているというより、逆に力をもらっていて、踊りがあったから本当に支えられて、ここまで生きたって感じがあります。踊りで喜んでもらえれば、生きた証しができるかなと思います。震災は決していいことではなかったですけど、全国のたくさんの人と出会うことができて、たくさんの笑顔をもらって、ありがとうと伝えたいです」

 

 その後、今年4月に釜石港のそばにオープンした観光名所、“魚河岸テラス”に行きました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

飲食店など5店舗が軒を連ねる施設で、地中海料理のレストランでは、オーナーの50代の男性が話をしてくれました。以前営んでいた鮮魚店と和食店は全壊し、震災3か月後からキッチンカーで営業を始めたそうです。4年前には自宅も再建し、店の売り上げも順調に伸びています。

 「浸水した地域で働かなきゃいけない人は、食が大変だし、そこからキッチンカーで動きだしました。キッチンカーをやることで、震災前からのお客様をつないでおけたし、そこで新たにつながったお客様もたくさんいました。今は、これまでつながってきた方々がいろんな方々を連れて来てくれて、こうやってお店も持ててすごく充実しているので、これ以上望むというよりは、これをいかに長く続けるかということですね。本当の意味での恩返しというのは、自分が今どれだけ楽しんでいるのかをお伝えすることだと思っているので、それをこの店で表現していきたいと思っています」

 次に、市の中心商店街にある、創業80年の書店を訪ねました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

店主の60代の男性によれば、店は津波で全壊し、仮設商店街での営業を経て、2年前に今の場所に再建しました。本離れの影響で店頭販売はほとんどなく、売り上げは配達が中心ですが、震災前の顧客の8割は今も配達を依頼しています。

 「おじいさんの代から続けて注文してもらっているお客様もいますし、震災くらいでやめるのは惜しいというか、できないと思いましたけど、大変でしたね。配達は何百人というお客さんがいたんで、配達を再開しようと思ったんです。お客さんはみんな知っていたんで、その頃は車もないから自転車と歩きで確認して回ったら、ほとんどの方に続けてくれと言われて…。心底やめようと思ったことは一度もないし、とにかく“今をどうすればもっとよくなるか”と考えてやってきました。その一心だけはね」

 さらに、釜石大観音・仲見世通りでは、1年前に空き店舗を改装して宿を始めた、25歳の女性と出会いました。

10月19日放送「岩手県釜石市」

昔は20軒ほどあった店もほとんど閉店しましたが、現在は新たに3店が開店し、少しずつ活気が戻り始めています。通りで暮らす人たちは、店ができたことで若い人が出入りするようになり、雰囲気が明るくなったと喜んでいます。宿は素泊まりが基本で、食事は自炊、和室の他にカプセルホテル風の部屋もあります。宿泊客どうしの交流スペースもあり、1人旅で来ても誰かと話せるよう工夫されています。女性は隣の大槌町(おおつちちょう)出身で、高校2年の時に被災し、自宅は流されました。仙台の大学を卒業後、起業を支援する釜石市の事業に応募し、宿の開業にこぎつけたそうです。

 「震災当時、国内外からボランティアさんだったり、いろんな方が来て、その時のつながりや出会いに助けられたし、その後も助けられたので、今後は自分が人と人がつながる場をつくろうと思って…。この通りって、昔からあるおすそ分けの文化とか、住民どうしの支え合いがあって、自分が育った地域にすごく似ていたので、ひかれましたね。お客さんは、“地元の人と交流して、また会いに来たい人ができた”って言っていて、この場所が、出会ったことで次につながるきっかけになってほしいと思います」

 釜石市によると、今年度はじめの4月末時点で、市内で半壊以上の被害を受けた1000あまりの事業者のうち、6割以上が再建し、4割弱は休業または廃業しています。休業や廃業の原因は、高齢化や後継者問題、資金面の課題、さらにテナントとして営業していた人は、国の補助金から外れた点もありました。そんな中、紹介した3人の方は釜石で店を構え、少しずつでも町のにぎわいに貢献しています。

 なお台風19号では、ご紹介した方々のうち、書店の男性が被害を受けました。店は浸水しましたが、それほどの高さではなく、商品などはすべて無事だったそうです。

▲ ページの先頭へ