キャスター津田より

5月18日放送「宮城県 石巻市」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、人口14万あまりの、宮城県石巻(いしのまき)市です。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

震災の犠牲者は4千人近くに上り、被災地の中で最多です。今年3月には、4400戸あまりに上る災害公営住宅が全て完成し、住まいに関わる復興事業は大きな区切り迎えました。郊外の集団移転先には新築の家が建ち並び、大きな市街地が形成されています。現在は、道路をはじめインフラ関連の復興事業が進められています。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

 

 はじめに、市の中心部にある大橋(おおはし)仮設団地に行きました。石巻には、震災で最大規模といわれる仮設団地も作られ、ピーク時には1万6千人以上が仮設住宅での暮らしを強いられました。それが今は、自宅の新築工事の完了を待つ人など、24戸46人にまで減っています。

 ここでは、新居への引っ越しを待ち望む、80代の女性と出会いました。郊外にある集団移転先に建築中の家は、平屋の3LDKで、次男が建ててくれたそうです。完成は8月で、次男と2人で暮らす予定です。工事の様子を見たくて、毎日足を運んでいるそうです。

 「8年は長かったような、短かったような…でも集会所でカラオケやったり、ボランティアさんが来てくれたりしたから、何とかね…。この年になって家を建ててもらえるとは思わなかったから、うれしいです。まだまだ元気でいたいと思います。引っ越す日が来るのを一日でも早く、早くと思っています」

 次に、海に近い渡波(わたのは)地区で、市内を中心に5店舗を展開するスーパーを訪ねました。20年間店長を務めている50代の男性によれば、津波で店は2メートル近く浸水し、冷蔵庫などの設備を全て失ったそうです。地元の漁師さんや企業を応援しようと、石巻産の魚や加工品を多く扱っていて、安さが自慢の“250円弁当”は人気商品です。焼サバの半身が丸ごと入っていたり、ボリューム満点の弁当が250円とあって、多い時は1日500個も売れるそうです。

 「被災して5か月後に再オープンしたんですけど、掃除とか後片づけをしている間も、お客さんから“必ず立て直してね”と応援していただいて、その御礼も兼ねて、安く販売しようと8年間続けております。また、他県から応援で多数来ている工事関係の方々に助けてもらっていますし、“250円弁当”で少しでも役立ちたいと販売しています。本当に、スーパーが続けてこられて感謝の気持ちです。被災してまだまだ大変な方もいますから、できるだけ安さを心がけて、頑張っていこうと思います」

 その後、太平洋に突き出た牡鹿(おしか)半島を目指しました。点在する集落は、津波でどこも壊滅的な被害を受けました。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

60世帯が暮らす寄磯(よりいそ)地区では、30年間ホヤの養殖を続けてきた50代の男性が、話を聞かせてくれました。震災後、養殖を行う漁師は3分の2に減少し、廃業して市の中心部に引っ越す人も出ました。男性は津波で自宅を失い、5隻の船と養殖いかだ、ホヤの加工場も全て流されました。震災翌年から徐々に養殖を再開し、現在、8割がた水揚げが回復したそうです。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

5月18日放送「宮城県 石巻市」

宮城県は国内のホヤ生産量の6割を占め、中でも牡鹿半島は養殖が盛んです。宮城県の養殖ホヤは、震災前、約7割が韓国に輸出されていました。しかし、韓国は原発事故を理由に日本の水産物の輸入を禁止し、日本は世界貿易機関(WTO)に提訴しました。その後も数千トンのホヤを焼却処分にするなど、浜の人たちは屈辱を味わいましたが、結局この4月に日本の敗訴が決まり、漁師さんの生活も瀬戸際です。

 「提訴して日本が勝てば、輸出できるのかなって思ったけど、負けたからできなくなったでしょう。 国外に出なくて日本だけの需要になっちゃうから、だぶついて売れない…それが一番大変で、悩みどころだね。どうしたらいいんだか…。でも震災後、もう養殖できないと思っていたのに、ボランティアさんや国、皆さんの力を借りて、ここまで大きく成長するホヤを作ることができました。将来的には、日本全国にホヤの消費を伸ばして、広く食べてもらえるよう頑張ります」

5月18日放送「宮城県 石巻市」

 さらに、市の中心部から車で50分離れた、雄勝(おがつ)地区にも行きました。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

“平成の大合併”の前は、単独の町だったところです。ここは市内でも特に被害が大きく、大半の家屋が流されました。そのため住民の流出が止まらず、人口は7割減少しました。取材した日はちょうど、地元の葉山(はやま)神社で、12年ごとにご神体が公開される特別な日でした。

5月18日放送「宮城県 石巻市」

神社は津波で全壊し、3年前に高台に再建されたそうです。境内の舞台では、地元に600年前から伝わる“雄勝法印(ほういん)神楽”(=国指定・重要無形民俗文化財)も奉納されました。衣装や道具は全て流されましたが、全国の支援などで、震災から半年後に復活したそうです。去年から神楽の習得に励んでいるという20代の男性に聞くと、元は自衛隊員で、震災を機に退職し、家族のもとで暮らそうと故郷に戻って来たそうです。

「生まれも育ちもここで、物心つく前から神楽に触れてきたので、地域に貢献といいますか、そういう思いもありますし…。神楽はこの地域の誰もが誇りに思っているものなので、神楽を受け継いで守ってくことが、地域を守っていくことにもなると思うので、頑張りたいです。皆さんに安心を与えて、今後も神楽に寄り添ってもらえるような、伝統をつくっていきたいです」

 実はこの男性のほかに、もう一人、地元の20代の若者が修行中です。震災後の人口減少で、伝統芸能の継承も被災地では大変な問題です。2人の後継者に、保存会の皆さんも目を細めています。

 

 そして今回も、以前取材した方を再び訪ねました。震災から3か月後、石巻漁港の周辺で取材中、水産加工会社の従業員たちが、流されずに残った缶詰を洗っている光景に出くわしました。義援金の御礼として東京のボランティアなどに送るためだと言います。当時、50代の社長の男性はこう言いました。

 「従業員にはなんとか通える方に集まっていただいて、頑張ってやっています。缶詰のおかげでボランティアの皆さんと繫がりができて、従業員もなんとか結束できていますので、缶詰に感謝です」

 あれから8年…。男性は、同じ場所で工場を再建していました。震災の2年後、十数億円もの借金と国の補助金を利用して再建し、現在の業績は震災前を超えたそうです。従業員も100人を超え、還暦を過ぎた男性は現場の一線から退きました。会社の再建を支えてきたのは、地元でとれたサバを使った缶詰と、クジラの缶詰です。実はこの会社、クジラの缶詰とそっくりの塗装をした大きなタンクが流され、それが道路に転がっている映像で全国から注目されました。結果、商品も広まり、業績が伸びました。

 「とにかく毎日どうしたらいいとか、いろいろ話し合って進んでいるうちに、あっという間にここまで来ちゃった感じです。タンクの映像は今も思い出すと 涙が出ると言いますか、ジーンときます。何とかこうやって商売できていることが不思議です。やろうという気持ちはあったけど、まさかここまでとは思っていませんでした。もう、震災でいろんな思いをしたので、後はのんびりしたいですね」

 がれきの中で偶然出会った被災企業が、8年経って業績が非常に好調なのは、間違いなく稀なケースでしょう。今も原発事故の風評などが響き、多くの水産加工業者が、震災で失った販路を回復できていません。被災企業の借金返済が猶予される措置もおおむね終わり、漁獲量が減って原料価格も上がっています。補助金を活用して整えた設備が過大になっているケースもあり、石巻では、補助金を受けながら億単位の負債を抱え、事業継続を断念した業者も出ています。水産加工業の厳しさは続いています。

 また、震災から2年後、牡鹿半島の付け根にある折浜(おりのはま)地区では、高台にある仮設住宅で、当時50代の女性と出会いました。全国のボランティアや自衛隊に、深く感謝していました。

 「避難所で“お菓子が食べたい”って言ってしまったんですけど、こんな大変な時に何を言っているんだって思うじゃないですか。だけど自衛隊の人は、にっこり笑って受け止めてくれて、次の日にお菓子を持って来てくれたんです。本当にありがたかったです。忘れません」

 あれから6年…。還暦を過ぎた女性は、仮設住宅の場所の近くに造成された集団移転先で、自宅を新築していました。夫婦2人で新居に入り、もう3年になります。折浜の高台は、鮮やかな木々の緑に囲まれ、眼下にはどこまでも広がる太平洋が見えます。女性はすっかり、落ち着いて暮らしていました。

 「家の住み心地は、仮設とはまるで違いますね。いいです、最高です。波の音が聞こえて、朝みんなが船を動かしている音も聞こえてくるので、住めば都ですね。ここの景色で、私は救われます。この景色があるから、ここにいられるんです。自然はどんな災害があっても、元に戻ったら穏やかに癒してくれる…この緑もすばらしいでしょう。人間って、自然と共にあるべきだなって実感しています」

心あらわれる景色も自然の一部なら、津波も自然の一部です。それでも、やはり人間は自然とともにあるべきだという言葉に、考えさせられました。

▲ ページの先頭へ