キャスター津田より

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 番組を始めて9年目、今年度から新たに、過去に出演した方を改めて取材させていただく特集を、年に数回お伝えします。今回はその1回目、宮城県仙台市と岩沼市(いわぬまし)を取り上げます。

 まず、仙台市です。震災では、市内で約900人が犠牲になり、建物の全壊だけで3万棟を超えました。一時は3千人以上がプレハブの仮設住宅で暮らしましたが、その仮設住宅が市内から完全に姿を消して、丸2年になります。集団移転事業も完了から丸2年たち、造成した住宅地には、真新しい家が並んでいます。また、今から3年前には災害公営住宅が全て完成し、それぞれ町内会も組織されました。さらに、市東部の被災した農地(=1900ha)を復旧させ、田畑を大区画化する事業もまもなく完了します。

 

 はじめに、震災から4か月後の仙台市若林区(わかばやしく)で会った、仮設住宅に住む若い男性を再び訪ねました。当時は沿岸部にがれきが残るものの、避難所は閉鎖され、仮設での暮らしが始まった頃でした。

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

男性の自宅も全壊しましたが、当時、こう言いました。

「地元で大工をやっているんですけど、地域のため、いち早く家を直してあげたいです。早く家に戻って住みたいという人がいっぱいいるので、地震が来ても壊れない、しっかりした家を造りたいです」

 あれから8年…。男性は震災の翌年に仮設住宅を退去して、修繕した自宅に戻っていました。工務店の3代目で、今年ちょうど30歳になります。父親とともに被災住宅の修繕に奔走しましたが、父親が一時体調を崩したため、男性の責任も増しています。3年前に結婚し、去年、長女も誕生しました。

「自分も被災して、精神面で不安定な時期もありましたけど、住む所がなくなった人たちの家を直すうちに、“やっと直った”とか、“やっと住める”とか、元気になってくれたので、そういうのを糧にして乗り越えられたと思いますね。震災も人生経験なのかなと、おさめていますね。前向きに、目標を持って一生懸命生きていけば、つらいことも忘れられるということです」

 次に、5mほどの津波に襲われた若林区藤塚(ふじづか)地区に行きました。ここでは、震災の3年後に会った農家の夫婦を訪ねました。震災の年には農地の塩分を取り除いて農業を再開し、仮設住宅から畑に通っていました。当時、雪菜の収穫が最盛期を迎える中、こう言っていました。

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

「今まで農家だった人が、仮設に何もしないでいるのさ。ここに帰って来ないね、おそらく…。年もとっているし、本当にどうなるんだろうね。みんな気持ちが暗くなっているからさ、少しでも明るくなるように、毎日元気で、一日一日精いっぱいやるだけだね」

 あれから5年…。夫婦はともに69才となり、同じ場所で農業を続けていました。地区の農地はほとんど復旧しているものの、農家の数は以前の1割に減りました。

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

現在、個人で農業を営むのはこの夫婦だけで、地区内の他の農地は、委託を受けた農業法人などが耕作しており、離農した方も多いそうです。

「経営的には昔に戻ったけど、人がいなくてね…何だか夕方になると寂しくてさ。やっぱり辺りを見回すと、亡くなった人の顔が浮かんできてね。あの時、“早く逃げろ”って声をかければ助かったんだと思ってさ、本当に涙が出てくるな。その人たちの思いも背負って頑張らなきゃいけない…自分に喝だね」

 5年たってもなお、“自分に喝”と言われると、本当に被災者に安堵は訪れるのかと考えさせられます。
 さらに、震災の3年後、若林区七郷(しちごう)地区の仮設住宅で会った男性を再び訪ねました。自宅を流され、集団移転を希望していて、当時はこう言いました。

「“住めば都”と言えども、本当に仮設は大変です。(同居している)おふくろも今は元気ですけど、90歳近くになるものですから、気にしているんですよね。狭くて物を置くところがないし、寝るのが精いっぱいで、冬は結露になるしね。夏は上から照らされて、すごく暑いし…」

 あれから5年…。男性は希望通り、内陸部にある集団移転団地で自宅を再建していました。70代になり、母親は94才になりましたが、ともに元気に暮らしています。母親から自分の孫まで、4世代の大家族で暮らしているそうです。さらに男性は、仮設を出た後の孤独を訴える声を耳にして、“仮設同窓会”を立ち上げました。仮設にいた時の仲間と月に2回くらい顔を合わせ、お茶を飲んで語らうそうです。

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

「なかなか近所の人と付き合うのが難しいようですから…。結局、今までの仲間の絆をバラバラにしたくないという気持ちですよね。みんな今のところ健康な毎日を過ごしていますので、この日が長く続くように、家族を大事にし、おふくろを大事にしながら、長生きできたらいいなと思います」

 同じ苦しみを味わった者同士が肩を寄せ合う経験は、人によっては、かけがえのない支えでした。仙台のように仮設を出て3年、4年とたっても、新しく住む土地での絆づくりは大変です。男性も今、団地の自治会長としてコミュニティー形成に尽力していますが、仮設同窓会の意義も強く感じています。

 

 その後、岩沼市に行きました。震災の翌年には、内陸の広大な水田を埋め立てて集団移転団地を造成する工事が始まり、沿岸部の6つの集落、約1000人が移住しました。新天地の“まち開き”は、今から4年も前に行われています。プレハブの仮設住宅から全員が退去したのは3年前で、県内の沿岸自治体では最も早く、“復興のトップランナー”と言われてきました。集団移転の跡地では、ヒツジの飼育やソバの栽培も始まり、観光に一役買っています。
 まず、寺島(てらしま)地区に行きました。住民は集団移転で去ったものの、農地は復旧され、人々は通いながら農業を続けています。

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

ここでは震災から3年後に取材した、農事組合法人の男性を再び訪ねました。当時は法人を設立したばかりで、震災で離農した人などから委託を受け、174戸分の田畑を耕作する計画でした。男性は、こう言っていました。

「お話する機会とか、集まる場所が今までなかったものだから、地域ぐるみでニコニコと集まる場所としても、この組合を大事にしたいね。とにかく皆さんで話し合って進もう、それしかないと思います」

 あれから5年…。70代になった男性は、現在も農事組合法人に所属し、地区の田畑を耕していました。15人いたメンバーは、亡くなるなどして、現在9人です。

「とにかく震災後、自分の住まいから何から、あまりにも問題がありすぎて…今ようやく、生活も落ち着いています。今後は道路沿いの畑を全部、菜の花で埋めるとか、直売所をやったりとか、とにかく人が気軽に来るような場所にしたいと、組合のメンバーも全員思っています。時間はかかりますけど、それをしないと、何のためにいろいろ支援してもらったのか、分からなくなるので…」

 以前会った時は組合の設立、今回会ったら集団移転跡地の活性化と、男性は常に先を見ていました。
 さらに寺島地区で、震災から3年後に会った方を再び訪ねました。蒲崎(かばさき)という集落で、自宅を修繕して住んでいた、当時40代の男性です。この集落は「災害危険区域」に指定され、住宅の新築は禁止されていますが、修繕して住むのは可能です。約130世帯のほとんどが集団移転に参加し、集落に残ったのはわずか9世帯でした。男性は地元で400年以上続く旧家の長男で、どうしても土地への愛着が捨てきれず残ったそうです。当時はこう言いました。

「やっと3年が過ぎて、畑で野菜を作ったり、神社とかも修繕していこうと思います。コミュニティーが今後どうなっていくか、ちょっと不安なので、みんながまた集れるようにしたいと思いますけど…」

 あれから5年…。50代になった男性は、今も自宅で暮らしていました。地区の住民が去った寂しさに耐えながら、同じ9世帯が残っているそうです。

「生活としては落ち着きを取り戻して、心の余裕というか、楽しみを見つけるというか、そういう感じですね。震災後、池も水がなくて壊れていたんですけど、少しずつ修理をして、やっと水を張って鯉を泳がせた時には、“ようやくここまできたのかな”と癒やされました。これからイベントや企画を考えながら、残った世帯でコミュニティー活動を一緒に楽しんでいければと考えています」

4月20日放送「宮城県 仙台市・岩沼市」

 多くの住民が去った中、残った者がどうやってコミュニティーを保つのか、答えは見えていません。それでも男性は、前を向いていました。

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