キャスター津田より

3月2日放送「若者子ども編 福島県」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 今年も3月になりました。震災当時のことを思い出して気が重くなったり、すっかり様変わりした町の様子を見て、感慨深く復興を感じてみたり、毎年のことながら、3月は何とも複雑な気持ちです。

 

 今回は、福島県の若い世代の声をお送りします。はじめに、いわき市です。人口は県内最多の約34万で、原発事故による避難指示を受けた方々も、避難や移住で、いわき市にたくさん住んでいます。

3月2日放送「若者子ども編 福島県」

 いわき市内には、福島第1原発が立地する双葉町(ふたばまち)の小中学校があります。全住民の避難が続いており、町内の小中学校は仮校舎で授業を続けています。小学校の児童数は、震災前の約340人から31人にまで減り、ほとんどは避難先の小学校に転校しました。6年生は男の子一人だけで、震災当時は3歳でした。家族7人で双葉町から避難し、仮設住宅を経て、去年、いわき市に自宅を新築したそうです。現在の児童は双葉町をほとんど知らないため、総合的な学習では、ふるさとについて学んでいます。広島や神戸なども訪れ、復興について考えました。6年生の男の子が書いた感想文には、

 “双葉のために頑張ってくれる人への感謝を忘れずに、今を笑顔で元気にしっかり生きる。僕たちのふるさとは双葉だと、胸を張って言える大人になることを目標にして、これからも頑張っていこう”

 とありました。双葉町には江戸時代から伝わる“ダルマ市”という1月の行事がありますが、避難先のいわき市に会場を移した後も、彼は毎年参加してきました。

「ここはここで楽しいけど、双葉町をほとんど知らないので、一回、双葉に帰ってみたいです。僕のおじいちゃんは、いつか除染が終わったら帰るって言っています。ダルマ市も、また双葉でやってほしいです。写真で見た時にそっちの方が迫力があって、すごいなって思ったので、生で見てみたいです。帰って来た時にみんなが笑顔になれる、建物が建つとかじゃなくて、みんなが笑顔になれれば、それはもう復興だと思っています」

 避難指示が出た自治体の学校に今なお通う子どもは、本当に稀です。すでに避難指示が解除され、今年度から地元で授業を再開した小中学校もありますが、そこでも児童数は震災前の3~4%です。中には、地元で再開後、わずか1年で休校となりそうな学校もあります。こうした中、ふるさとの学校に通う子どもに、全くなじみのないふるさとへの愛着を育んでもらうという、前例のない挑戦が続いています。 次に、市内の公民館で練習を行う、湯本(ゆもと)高校フラダンス部(部員24人)を訪ねました。

3月2日放送「若者子ども編 福島県」

いわき市は“フラのまち”をPRしており、フラダンスが盛んです。去年8月、湯本高校は高校生のフラダンス全国大会で初優勝しました(出場は24校)。部員の一人、避難指示が出た楢葉町(ならはまち)出身の女子生徒に聞くと、震災後の1年間は、母親と離れて埼玉で暮らしたそうです。母親は福島で仕事をしており、毎週末に訪ねてくる母親と離れるのが悲しくて、日曜日になると泣いていたと言います。その後、一家はいわき市に移住し、現在は両親と3人で暮らしています。

「今のフラをやる上で、助けてもらった人たちのために、笑顔で踊ることが良いことなのかなって…。自分が踊ることで、私のおじいちゃんとかおばあちゃん世代の方に、元気を与えられるのかなって思います。自分のおじいちゃん、おばあちゃんに見せた時は、泣いていました。もっと自分ががんばって、元気になってくれる人が増えたらなって思いました」

 フラダンス部にはもう一人、避難指示が出た浪江町(なみえまち)出身の子がいます。彼女も、山形など避難先を転々とし、いわき市に居を移してからフラダンスと出会いました。他の部員たちは、今回の取材で改めて2人の思いに触れたことで、フラダンスに取り組む気持ちを新たにしたそうです。

 さらに、郊外で行われた、市民が主催する桜の植樹会にもおじゃましました。震災の年、津波で傷ついたいわき市に魅力的な場所を作ろうと始まったもので、これまで4千本の桜が植えられました。当初からボランティアとして参加する男性は、40歳になったばかりで、妻と2人の子どもがいるそうです。

「僕自身も、原発事故のため家族を避難させて、自分だけいわき市にいたような状態で、“なんでこんなになっちゃったのかな”という思いが強くて、桜を植えて、それを振り払らおうと思って…。いま生きて、生活できている、家族がいて仕事ができて、この桜で楽しい時間を過ごせていることに、うれしさを感じています。息子だったり娘だったり、できれば孫とかひ孫とか、どんどん植樹をつないで、夢を持った生活を送ってもらいたいと思います」

 

 その後、郡山市(こおりやま)市に移って、若い世代の声を聞きました。

3月2日放送「若者子ども編 福島県」

人口が約33万で、福島県の中心地の一つです。市内で70年以上続く農場の直売所を訪ねると、4代目だという20代の男性が話をしてくれました。両親とともに年間300種類の野菜を栽培し、農協には出荷せず、すべて飲食店や消費者に直接販売しているそうです。家業を継ぐため、大学は東京にある農業大学を選びました。

「父が僕に、農業を辞めるかもしれないって言った時、すごくグサッとくるものがあって…。自分は農業を継げる立場なのに、継がないでどうするんだっていうような、初めて責任感が芽生えたんですね。以前、東京の販売会で、お会計も済ませて野菜も渡した後で、“どこ産ですか?”って聞かれたんですよ。“福島県の郡山産です”って話したら、“全部お金を返してくれ”って、その野菜をホイッと置いていかれたんですよね。その時、衝撃を受けまして…。これからは“応援したいから食べる”じゃなくて、“食べたいから食べる”って言ってもらえる野菜作りをしていかなければと思いました。包み隠さず、ありのままの生産の段階を見てもらい、知ってもらって、魅力ある野菜を作れればいいと思います」

 こうした農家の声に触れた上で、買う・買わないを選ぶのは、消費者の当然の権利です。農家にとってつらいのは、福島の農業を知ったり、農家の声に触れる前に、選択を決められてしまうことです。

 次に、2年前にオープンしたというエステサロンを訪ねました。店主は30代の女性で、実家は二本松(にほんまつ)市にあります。以前は香港の店で働いていましたが、震災翌年に帰国し、他店へ勤務した後、自らの店を持ちました。口コミで固定客も増え、今では県外から通う客もいるそうです。

「香港で一緒に働いていた子が宮城の子で、家族は大丈夫だけど、家が流されて…。いつ何が起きるか分からないと思った時、親のそばで働きたいと思ったのと、自分のスキルを福島の人のために使いたいと思って、福島で働きたいって帰ってきました。不安がすごくあったんですけど、8年でどんどん不安がなくなって、むしろすごく良いところを再発見して、ここにずっと住みたいと思えます。福島が大好きです。知らない人とも自然に会話が生まれたり、そういうところがすごく好きです」

 さらに、3年前にオープンした、若い母親向けの職業紹介施設にも行きました。復興関連の助成金などを元に、若い母親に求人の紹介を行っています。代表は京都出身の30代の男性で、震災前は東京で、若い母親に向けたイベントの企画や情報誌の制作を行っていました。震災当初、必要な物資が必要な所に届いていない中、全国の若いお母さんに呼びかけて、寄付してもらったものを直接届けていたそうです。仕分けや発送を手伝う関東圏の母親たちが、“こんなことぐらい、近所にお醤油を借りにいくようなもんだから”と、苦もなく語る姿に感銘を受け、自らも被災地支援に本腰を入れようと、震災翌年から今の事業を始めました。2年前には、郡山市に移住しました。

「暮らしや生活を考えた時に、仕事とか働くって、大事な要素の一つだと思うんですよ。復興とは自立、地域や家族や個人が自立をしっかり考えていくのは、大事な視点ではないかと思います。一人一人が自立していったその先に、お互いがお互いを支え合うような、よりよい地域、暮らしやすい社会につながっていくのではないかと思います。この地域に住んでいる人が、この地域で暮らして超ハッピーとか、ここで生まれて育っていく子供たちが、自分たちもここで子育てをしていきたい、ここで大人になって仕事をしたいと思える地域が理想だと思っています」

 先月末、13の企業が参加する求人説明会を開いたところ、100人以上のお母さんが参加したそうです。被災や避難が家計へ及ぼす影響もあるのか、被災地では若い母親の就労意識が高いと言います。被災地のニーズに応える、8年たってもなお支援を続ける方々がいることを、覚えておきたいと思います。

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