キャスター津田より

1月5日放送「宮城県 山元町」

 あけましておめでとうございます。

今年も東北の皆様にとって良い年になるよう、スタッフ一同、お祈り申し上げます。私たちは新しい年もまた、一人一人にしっかり耳を傾ける、変わらない取材を続けたいと思います。

 

 さて、新年最初の回は、若者や子どもたちの声を特集してお送りします。取材したのは、宮城県山元町(やまもとちょう)で、福島県と接する沿岸の町です。震災では600人を超える方が犠牲になりました。震災後は何と言っても、人口流出が大きな課題となっています。

1月5日放送「宮城県 山元町」

 

はじめに、10代の声を聞きました。最初に訪ねた山下(やました)中学校では、毎年1月、生徒たちが震災を経て感じたことを黄色いハンカチに書き、200枚以上のハンカチを校内に掲げます。

1月5日放送「宮城県 山元町」

生徒会の2年生の男子生徒は、震災で支えてくれた人たちに皆で恩返していこうと、“感謝・協力・前進・全力”と書きました。生徒会長の2年生の女子生徒も、“永遠なる感謝”と、受けた支援への思いを書きました。2人とも震災時は7才で、自宅は大きく浸水し、修繕して暮らしています。生徒会長はこう言いました。

「中学生になってから悩んでいた時もあったんですけど、私の父が言ってくれたのが、“失った生命の分を私たちは生きる”ということなんです。それを聞いて、やっぱりあきらめないで、しっかり生きないといけないんだと思って…。この言葉が、私の一番のモットーですね。何不自由なく、とは言いませんけど、みんなが笑顔で暮らしていけるような山元町になっていれば、それで充分だと思います」

 さらに、山下中学校では、ある3年生の女子生徒からも話を聞きました。現在、町の沿岸部は災害危険区域のため、家の新築はできず、多くの人が移転しています。彼女の自宅も津波で流され、約2年の仮設暮らしを経て、内陸に自宅を再建しました。現在は、祖母と両親、弟と妹の6人暮らしです。ご両親は、被災後の生活不安の中でも、とにかく子どもたちの気持ちを最優先にしたいと考えました。当時7歳の彼女が、“学校を変わりたくない”と泣きながら言った一言を聞き、町を離れずに生活再建する決意を固めたそうです。お母さんは過労もあって、一時、体調を崩しました。彼女と弟は、2人でこう言いました。

「お母さんがすごく具合を悪くした時は、もう大変そうで…。お母さんが必死に子どもを心配させないようにしていたのは分かるけど、やっぱり前とは結構変わった…ちょっと暗かったです。お母さんは隠していたんだろうけど。でも今は、はつらつとしています。頑張っている親を見ていたら、“家族がいるから、自分はここにいていいんだな”みたいに感じられました。家族がいれば、そこが居場所です」

さらに、集団移転によって新しくできた市街地に行き、防災・交流センターを訪ねました。

1月5日放送「宮城県 山元町」

ここでは成人式のリハーサルが行われていて、親などに感謝の気持ちを伝えようと、新成人が式の一部を企画しています。リハーサルを仕切っていたのは19才の新成人の男性で、高校卒業後、役場職員として働いているそうです。人口が減少する町の姿に心を痛め、町の活性化に取り組んでいて、これまで音楽祭や、町内外の様々な店を集めたマルシェ(市場)の開催など、多くのイベントに関わってきました。

「自分たちで成人式を企画するのは、楽しいですよ。学校に通っている時と違って、宿題をやれと言われてやる、整列をしろと言われてする、という感じじゃなくて、今回は自分たちで全て決めていくところが楽しいです。町に人を呼び込めるような、いいイベントをつくりたいなと思っています。イベントをつくることによって、町を出て行った人たちが戻って来て、町の良さを再認識して、他の町に負けないような、町としての力を持てるようになれば本当にうれしいです」

山元町は震災後、人口のほぼ4分の1が流出しました。集団移転によって新しくできた大規模な住宅地(町内に3か所)のうち、1つは高齢化率が4割を超えていて、若い世代の減少は顕著です。山元町は、仙台へ電車で約40分の通勤圏なので、以前から職場が町外にある若者も多かった所です。被災して新居が必要なら、これを機会にいっそ職場の近くへと、仙台などに流れたとみられます。そうした中で、自ら町の活性化に取り組む10代の存在は、非常に貴重な存在です。

 

その後、20代、30代の方からも話を聞きました。町の北部にある笠野(かさの)海岸は、サーファーに人気の場所です。

1月5日放送「宮城県 山元町」

町内に3か所あったサーフィンのポイントのうち、震災後に復旧したのはここだけで、12月末の時点でも海に入っていました。津波の直後は波消しブロックや流木が散乱し、町はがれき撤去を始めるとともに、サーファーも清掃活動で協力しました。そして震災から1年あまりで町がサーフィン再開を宣言しました。今回ここで出会った30代の男性は、自らデザインしたウエットスーツが販売されるほど、地元の若手サーファーでは中心的存在です。彼はこう言いました。

「津波があって、本当に町が復興するのかな?とか、サーフィンさせてもらえるのかな?とか、“いつ”という期限も分からなかったので不安でした。でも、好きな海に対して何かしたいという気持ちで、一生懸命、清掃活動をやっていましたね。一緒にやっていた仲間と、また海に入れるのがうれしいですね。サーフィンをやれなかった時期が、余計にサーフィンを好きにさせてくれたし、サーフィンの楽しさや、山元町の海や他の自然環境もすごくいいので、それを全部、未来につなげていきたいです」

次に、沿岸部で被災し、内陸の中心市街地に再建したのり店を訪ねました。

1月5日放送「宮城県 山元町」

ここでは5年前、店を再建する直前に、当時50代の女性店主を取材していました。津波で夫を亡くした上に自宅も流され、仮設住宅で暮らしていました。その時は、こんなことを言っていました。

「夫はずっと行方不明で、震災翌年の2月11日に、がれき撤去作業の中から見つけていただきました。お葬式をしないのが罪のような感じで、でも姿も見てないのにお葬式をあげちゃうのも罪かなという感じで、そこが一番苦しかったです。お墓、店舗、住まいを、何とか今年中に形にしたいです」

今回、5年ぶりに訪ねると、店を手伝う30代の息子の姿がありました。大学卒業後、放送作家として東京に暮らしていますが、4年前からのりの勉強を本格的に始め、実家に通ながら商品開発を熱心に行っています。顧客の声を生かした味やパッケージを考案し、特に、収穫した生のりをそのまま乾燥させ、ナッツなどを加えて味付けしたおつまみ用ののりは、生産が追いつかないほどの人気です。

「母が、仕事の苦労も重なって病気になってしまった時期があって、母の力になれればと思って、手伝うようになりました。そのまま店を畳んでいたら、父や母の偉大さも分からないまま、自分の世界だけで終わっていたと思います。いまだに言葉に詰まってしまうけど…父が亡くなって、もっと大きなことに気づかせてくれたと捉えるようにしています。そうしないと、進んでいけないですし…。震災を機に話題になったものも多いけど、中には時間が経つにつれて消えたものもあるので、うちは持続性のあるもの、関わってくださった方とずっとお付き合いしていけるものを作るよう、心がけたいです」

さらに、のり店から車で5分の所には、復興支援を機に始まった学習塾がありました。

1月5日放送「宮城県 山元町」

NPOが県内4か所で運営していて、この教室の生徒は15人です。教えているのは山元町出身の20代の男性で、震災の年に大学を出て、東京の外食産業に就職しましたが、その後Uターンしました。塾の他にも、学校に出向いて学習支援活動をしたり、町の施設で中学生対象の勉強会を行っています。

「震災後、本当に狭い仮設住宅で、学習スペースがなかなか確保できない子供たちのために、塾の先生たちが集会所で授業を行う活動をしていたんですね。それを見た時は素晴らしいと思って、自分もそうした活動に参加したいと、山元町に戻って来ました。当時は子どもに、“仮設に帰ると本当に何もできないから嫌だ”とか、“もうちょっと長い時間、この教室やってよ”とか言われましたね。でも今は、家のこととか、心配ごとは少なくなってきたと思います。この町の人は自分のペースを持って、それぞれ地元のかけがえのない存在として仕事していて、人口が少ないからこその、良いところじゃないかなって思います。心のケアとか、勉強しやすい環境をこれからも作って、継続してやっていきたいです」

人口が減った、若者が少ないと言いながら、若者がみな、町の良さに気づいていないわけではありません。もう町を出てしまった若者も、町の良さは知っています。人口流出への対策は大変な困難を伴いますが、一筋の光明も見た思いでした。

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