キャスター津田より

12月22日放送「首都圏編」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県から首都圏に避難した方々の声です。

12月22日放送「首都圏編」

 現在、福島から避難して首都圏に住む人は、1万人以上にのぼります。首都圏で就職し、家庭を築いた息子や娘を頼って避難するケース、首都圏の親戚や友人・知人を頼って避難するケースなど様々です。また埼玉県などは、震災直後に知事自らが先頭に立って避難者の受け入れに動き、県内各地の自治体や企業が、公営住宅や社宅を提供しました。こうした経緯もあり、今なお福島ではなく、首都圏に残って暮らす人がいます。

 

 はじめに、埼玉県内で取材しました。埼玉県には、今も約3200人が福島から避難しています。

 さいたま市にある県の施設では、月2回、避難者と首都圏の人の交流会が開かれます。

12月22日放送「首都圏編」

この会で、大熊町(おおくままち)出身の60代の女性から話を聞きました。原発事故後は長女の嫁ぎ先を頼り、義母や子ども達と5人で、東京都内に避難しました。大熊町にある自宅は福島第1原発の3km圏内で、敷地には、放射性物質を含んだ土などを県内各地から運びこむ施設が建ちます。帰還は不可能となり、5年前、埼玉県春日部(かすかべ)市に家を購入しました。自分の嫁ぎ先と実家、両方の墓も埼玉に移したそうです。埼玉ではなく、故郷の福島県内に新居を見つける道もありましたが、首都圏に身内が多いうえ、病院通いが便利で、新たな人間関係も良好なことから、埼玉を終の住みかにしました。

 「元に戻らないですからね…元に戻るならいいんですけど、戻りようがないですから。孫、ひ孫の代になって、燃料をかけてお墓参りに行くのは大変でしょ。お墓も、先のことを考えてあげないとね。一番悔しいのは、家の場所がなくなったことです。自宅を壊す時は、立ち会って見届けるだけの勇気はなかったので、業者に任せたままでした。家の周りから(山菜などを)採ってきて食卓に出す、あれが一番の幸せだったんでしょうね。今はタケノコ1本買うのにも、“高い”って、戸惑いますから…」

 次に、鴻巣(こうのす)市のパン店を訪ね、震災の年からここで働いている、大熊町出身の60代の男性にお会いしました。

12月22日放送「首都圏編」

以前はパンと洋菓子の店を経営し、駅前の店は多くの町民に愛されたそうです。妻の実家がある埼玉県行田(ぎょうだ)市に避難し、その後、自宅と店の場所は帰還困難区域になりました。もはや戻れないと判断して行田市に家を借り、夫婦で新たな生活を始めました。パン職人として40年以上働いてきた男性は、首都圏のパン店や洋菓子店を巡るのが、今の楽しみです。

 「早い段階では、田舎に帰ってやってみたい気持ちはあったんです。ただ行田って所は、落ち着いた風土というか、独特の風土があるんですよ。私はそれが好きでね…。今は安定して、好きなことをしながら生活させてもらっています。妻の実家の近くなので、ここにいるのが一番いいのかなあと…」

 その後、加須(かぞ)市に行き、双葉町(ふたばまち)出身の50代の女性から話を聞きました。加須市には一時、双葉町の仮役場も置かれ、今なお416人の町民が暮らしています。女性は中学2年の息子と2人暮らしで、自宅は帰還困難区域にあり、町に戻ることができません。震災直後は義父母、夫、息子とともに、多くの町民と同様、加須市に避難しました。アパートに入りましたが、義父母が相次いで亡くなり、去年、夫も54歳で亡くなりました。2年前、加須市に家を新築しましたが、福島県内ではなく加須市に家を建てたのは、息子のためです。小学1年から埼玉の学校に通い、友達も多いことから、転校によって負担をかけたくないという親の配慮からでした。女性も、市内で仕事を得ました。

 「周りはやっぱり、あれから7年も8年も経ったねって感じなんです。自分の中では、まだ昨日のような気持ちもあるんですが…。本当に多くのものを失ったんです。思い出だったり、代えられないものを失っているので、少しでも風化させたくないんです。これからの世代に、“こういうことがあった”って、継承していきたいんです。これから加須で生きていくわけですけど、生まれ育った双葉は忘れません。息子が、夫の遺骨を“僕が(双葉町に行って)納骨するよ”って言ってくれたんです。心の変化じゃないけど、息子にも双葉への気持ちが出てきたのかなって、感じているんですけど…」

 一方、避難指示が解除されても、埼玉に残らざるを得ない人もいます。白岡(しらおか)市では、富岡町(とみおかまち)出身の50代の女性とお会いしました。東京に住む義姉を頼って避難し、都内のアパートで暮らした後、白岡市に家を建てて長男一家と同居を始めました。もともと長男は埼玉で働いており、結婚相手は白岡市出身の女性でした。義父は原発事故の5日後にストレスがもとで亡くなり、義母も去年、避難先の埼玉で亡くなりました。夫は、震災前から腰の病気で車の運転もままならず、避難後は女性も体調を崩し、通院が欠かせません。夫婦だけでは富岡町に戻れないと考え、埼玉に残る決意をしたそうです。ただ一方、故郷への想いも断ち切れず、最近、富岡町の自宅をリフォームしました。

 「富岡の家は商店街から離れた区域ですから、車がないと生活できないんです。ここは駅だって歩いて10分ぐらいですし、スーパーも5分ぐらいですし、徒歩圏内なんです。でも主人は、富岡に住みたい気持ちが徐々に強くなってきているみたいで、私も友だちに聞くと、“帰って来ているよ”とか、“帰ってくれば”という話が出るんですよ。何年先か分からないですけど、早く帰りたいという思いです」

 避難指示の解除までには、6年もかかっています。その間、家庭の事情が変わるのは当然で、今となっては、利便性の高い埼玉の方が安心なのは確かです。ここまで出てきた方々を通して、原発事故が真面目に生きてきた人の人生をどれほど狂わせるのか、多くの人がその罪を知るべきでしょう。

 

 その後、埼玉を離れ、東京都で取材しました。都内には、今も約3800人の福島県民が避難しています。

12月22日放送「首都圏編」

 府中(ふちゅう)市では、双葉町出身の70代の男性にお会いしました。ここに住む娘を頼り、母親と妻を連れて避難しました。アパートなどで暮らすうち、避難の2年後に母親が亡くなり、自宅の場所は帰宅困難区域に指定されました。娘は、“高齢の親にはできるだけ目の届く所にいてほしい”と心配する気持ちが強く、その思いを汲んで、東京に残ることを決めました。息子や娘の気持ちを思って避難先に残ろうと決意する方々は、決して少なくありません。3年前、府中に家を新築し、町民の交流会も結成しました。40代~90代まで、首都圏に避難する双葉町民90人ほどが、食事会などを行っています。

 「双葉への思いは、完全には吹っ切れないね。時々、“双葉にいたら、今ごろ何やっていたかな”って、思い出しますから。妻とは“向こうにいた方がよかった?”って話もするけど、ここに来たんだから、ここの生活に慣れなくちゃいけないと思っています。知らない人ばかりで、住み方も環境も変わっちゃって孤立も心配だから、なんとか双葉町民が一堂に会して、話をしたいと思ったんです。最初に集まった時は、双葉の言葉で楽しく会話ができて、これが一番でしたね(笑)」

 また八王子(はちおうじ)市では、富岡町から避難した若い世代が、震災前の町の姿を伝承していく取り組みが行われていました。

12月22日放送「首都圏編」

 町出身の高齢者に聞き取りをして、冊子を発行します。参加者のうち大学4年の女性は、父親の単身赴任先だった神奈川県横浜市へ避難しました。都内の理工系の大学へ進み、民間企業に就職が決まっています。中学2年での突然の転校から今までを振り返り、こう言いました。

 「嫌な思いをしたことはたくさんあります。“放射能って、どのぐらい浴びたの?”とか、“がんになるんでしょ”とか、どうしても言われるんですよ。かといって、福島以外のどこの出身と言えばいいか考えた時、他がないんです。私の出身地は“原発の富岡”ではなくて、ごく普通に、福島県の富岡町なんです。それは恥じないで言おうと思います。被災した、しないに関係なく、それぞれに自分の故郷ってあると思うんです。それと同じように、自分も感じていたいと思います」

 そして、同じく大学4年の男性は、父方の親戚を頼って千葉県船橋(ふなばし)市に避難しました。男性は来春から、千葉県内の特別支援学校で教壇に立ちます。彼も、こんなことを言いました。

 「僕も一時、“千葉県出身”って言えばいいやって、思っていたこともあったので…。でも、相手がどう受け止めようと事実は変わらないし、逆に自信を持って“富岡出身だよ”って言えばいいって思っています。富岡町は、常に心にある、心の休憩所です」

 2人の思いが、多くの人に伝わることを願ってやみません。

 最後に補足ですが、今回の方々の多くは、一緒に避難した家族を亡くしています。加須市の女性は、3人も亡くしました。避難と死亡の因果関係が認められた震災関連死の方もいますが、関連死の認定はなくても、聞いた限りでは、避難のストレスが影響した可能性は十分想像できます。このことも、まぎれもない原発事故の現実です。

▲ ページの先頭へ