キャスター津田より

12月15日放送「福島県 双葉町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、福島県双葉町(ふたばまち)です。この双葉町と大熊町(おおくままち)は、事故を起こした福島第1原発があります。今も全住民が避難を強いられ、自由に出入りできないのはこれらの町だけで、仮設住宅の期限が決まっていないのも、双葉町と大熊町だけです。特に双葉町は、面積の96%は放射線量が高い“帰還困難区域”です。県内各地で出た、放射性物質を含む土や廃棄物を貯蔵する施設もつくられ、すでに稼動しています。約6000人の町民は、県内を中心に全国各地に避難し、特にいわき市には、37%にあたる2200人ほどが避難しています。今回はそのいわき市で、双葉町の方々に話を聞きました。
はじめに、勿来(なこそ)地区に行き、今年2月に入居が始まった災害公営住宅を訪ねました。

12月15日放送「福島県 双葉町」

住民の7割は双葉町民で、町はここを町外の拠点に位置づけ、町民の交流や介護予防の活動などを行う施設、診療所、食堂などもあります。

12月15日放送「福島県 双葉町」

ここでは、80代の、いとこ同士の女性2人と出会いました。これまで一緒に、千葉県にある社員寮(=みなし仮設住宅)で暮していましたが、5月にこの災害公営住宅に引っ越して来ました。2人とも、月に1度は息子が訪ねてくるそうです。女性のうち1人は、こう言いました。

「いわきは、住むにはいい所です。一生、私はここにいると思います。住所もいわきに移したの。だからもう、いわきの人です」

もう一人の女性は、こう言いました。

「福島で生まれて、福島が“自分の国”と思っているから、ここに来てほっとしているところですね。お墓参りに行くから、1年に3回ぐらいは子どもらと双葉に行くんです。でも、もう草だらけで、悲しくて大変だけど、皆さん同じだから仕方ないと思ってね。まずは自分が元気で、そして自分ばかり元気でも面白くないから、友達や隣近所の皆さんも元気でね。まあ、助けられたり、助けたりだわな」

また、災害公営住宅から車で20分ほどの住宅街には、双葉町出身の80代の男性が暮していました。6年前に家を新築しましたが、同居する予定だった娘一家が、仕事の都合で隣町に住むことになってしまい、去年、妻も病気で亡くなったため、現在は一人暮らしです。この時期は、双葉町の初発(しょはつ)神社に奉納するしめ縄作りが楽しみだそうで、原発事故で中断したあと、5年前に再開しました。

 

「震災の翌年には、もう双葉には戻れない、いつまでも家族バラバラなのはまずいと思って、家族全員で住もうって、ここに建てたんですがね…。しめ縄は作ることも楽しみだけど、避難してなかなか会えない人に会えるのも、ひとつの楽しみですね。結局、私もそういう所に出て、みんなから力をもらうような形ですね。人に会うってことは大事だと思いますよ。家内を亡くしてから、どうしても引っ込み思案になっちゃうんですよね。だから前向きっていうか、自分なりに動きたいんです」

さらに、いわき市で双葉町の農家が花を栽培していると聞き、訪ねました。

12月15日放送「福島県 双葉町」

農家の6代目だという60代の男性で、14棟のハウスで花を育てています。

12月15日放送「福島県 双葉町」

いわき市に避難後、補助金や借金をもとに、市内の農家仲間のつてで土地を借り、親株も譲り受けたそうです。原発事故の翌年には栽培と出荷を再開し、現在は自ら農地も所有して、栽培面積は事故前の8割まで回復しました。

「仲間から助けてもらって始まったから、自分としてはラッキーだったね。双葉の場合は、ちょっとねえ…町に戻って農業っていうわけにはいかないし、仮に戻っても“自分が戻った”っていうだけで、周りは何もないから。当然ここで、あと何年か分からないけど、体が許す限りやっていこうと思っています。何十年も双葉で花づくりをやっていたので、できなくなった途端、元気がなくなったんですよ。避難して半年はがっくりしていました。再開して、今は体の調子はいいし、元気でやっています」

冒頭に書いたような特殊事情を抱える町だけに、“早い段階から、新天地での第2の人生を覚悟した”と語る町民は、実のところ相当な数に上ります。町民を対象にした、ここ数年の復興庁の住民意向調査を見ても、“戻りたい”と答えたのは約1割です。すでに2年前の調査で、“町外に家を新築、ないし購入して居住中”という回答が半数を超えていました。他県に家を買ったという話も、しばしば聞きます。
その一方、去年9月には、JR双葉駅に近い帰還困難区域の一部(555ha)について、国が除染やインフラ整備を行い、人が住む場所を整備するという計画が、国に認定されました。2022年春までの避難指示解除が目標です。除染や建物の解体工事も進められていて、公営住宅の建設や宅地造成が行われ、商店街や農業の再開も計画しています。さらに、双葉駅にごく近い場所は、来年度末にJR常磐線が全線再開するタイミングで、先行して避難指示を解除する計画です。帰還困難区域を外れたごく一部分も、来年度末には避難指示を解除する計画で、産業拠点の整備が進み、すでに2件の企業立地が決まりました。

 

こうした新たな動きは、一部の町民の意識には、少しずつ影響を与えているようです。いわき市の災害公営住宅の敷地で、4月に開店した食堂を訪ねると、双葉町出身の40代の男性店主が話をしてくれました。

12月15日放送「福島県 双葉町」

町で食堂を開店する直前に原発事故に遭い、妻と小学生の息子2人は、内陸の本宮市(もとみやし)に再建した自宅で暮らしています。将来は双葉町に店を出し、材料の生産も行うのが目標です。

「双葉町で、どう産業をつくるかということが、夢、目標なんですけど、1年後や2年後にできるかと言ったら、とてもできないから、このいわきで、ここから始めて店を拡大するっていうなら、できるんじゃないかと思うし…うちも半年たって、やっと店の形になってきたのでね。ここは復興の最初のポイントで、その先には双葉町を再生させなきゃだめだというのがありますから、時間的にも長い話になってきます。心を詰めてばかりでは悪い方にいきますし、心の負担を抜いたりしながらやらないと長く闘えないので、力を抜くということも大事なんじゃないか思います」

この食堂の目の前にある戸建て型の災害公営住宅にも、双葉町民が暮らしていました。30代の女性で、ご主人は、復興事業を機に県外から移住した方です。3か月前に次女が誕生し、家族4人になりました。 女性は高校卒業まで双葉町で過ごし、埼玉県で就職しました。震災前にUターンし、住民のつながりの強さを実感したと言います。女性は、“双葉町の家を絶やしたくない”ときっぱり言いました。

「双葉に戻ったのは、父が病気になって、帰らなきゃいけない状況だったからなんですけど、外に出て戻ってみると、温かい感じがすごくして、いい町だなと思いました。この家も新築できれいだし、 “隣に住んでいた”とか“隣の隣だったね”みたいな、知っている人が意外と近くにいて、住みやすいし、安心感があります。夫とは、ゆくゆくは双葉に帰ろうと話しています。ここで生活していれば、子どもも自然と双葉の人と関わって、双葉を好きになってくれるかなと思って、未来につながると思います」

女性は、いずれ双葉町で役立てようと、介護の勉強も考えているそうです。戻る時期は子どもの年齢も考えて決めるそうですが、いずれ双葉で過ごしたいという意思は固いようでした。
さらに近くの住宅街にも、双葉町に戻ろうと考える人がいました。原発事故の前から建設会社を経営する40代の男性で、家族とともに避難してすぐ、いわき市内で会社を再開しました。現在、家族は二本松市(にほんまつし)に建てた自宅で暮らし、男性はいわき市に単身赴任して、一人暮らしです。

「仕事は軌道に乗らないですよね。基盤がそもそも双葉なので、双葉でやっていて、いわきに来てやっても同じかって言うと、それはない。従業員は半分以下になったかな。遠くに避難しているからね」

男性は原発事故後、有志でグループを結成し、“双葉町ダルマ市”を避難先で続けてきました。町の恒例行事で(今年は1/12、13開催)、ダルマを買って、家内安全や商売繁盛の願をかける祭りです。原発事故後、あらゆる町の催しが中断した空虚感から、ダルマ市だけは復活させようと決意したそうです。

「ダルマって起き上がる部分もあるので、復興もダルマに助けてもらうというかね。もう、震災の2、3年は、絶対に双葉に帰れない、本当に帰れないと思いました。ところが今は、広報誌でも見たんだけど、帰還困難区域の一部を解除しますみたいな…。“ああ、やっぱりそうなるんだ”と思って、双葉に帰れないじゃなくて、双葉に帰れるかもしれない、帰れるんじゃないかという、本当の光ですよ。ダルマ市でもいい、頑張るものがあって、ちょっと光が見えればそれでいいのかなと…」

“原発事故のせいで町がなくなり、泣き寝入りするのだけは我慢ならない”という意地は、当然、町や町民の中にあります。しかし、前述したような居住可能な区域をつくる計画も、町の一部で、全部ではありません。原発事故、ないし東電が町に負わせた重荷は、あまりに大きいことが分かります。

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