キャスター津田より

11月10日放送「宮城県 石巻市」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、宮城県石巻市(いしのまきし)です。震災では最多の犠牲者を出した自治体で(死者・行方不明者3700人)、それだけ広域な自治体です。人口は約14万4千で、平成17年に旧石巻市と周辺の6つの町が合併しました。合併前は単独の町だった、北上(きたかみ)地区、雄勝(おがつ)地区、河北(かほく)地区、牡鹿(おしか)地区の沿岸部では、集団移転事業で、高台に合計65の新しい団地が作られました。今年3月、最後の造成工事が終わり、災害公営住宅も全て入居可能となっています。

 

 はじめに、北上川の左岸にある北上地区に行きました。

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北上川は河口から12km上流まで被害が及び、北上地区では1000軒以上の家屋が被災しました。

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集団移転で2年前に入居が始まった団地(24世帯)を訪ねると、住民たちが、避難訓練や炊き出し訓練を行っていました。この団地に移った世帯は、元の集落の4割未満です。自治会長の60代の男性は、妻と小学生の2人の孫を津波で亡くしていました。

 「今は毎日お墓に行って、いろんな出来事をとにかく報告します。自分一人で買い物かごを持って買い物することぐらい、つらいことはないですね。ばあさんと二人で買い物するのが、震災前の日常でしたから。一人で買い物に行くのが、一番つらいです。これからは、ここに残った方々で助け合い、頑張っていかなきゃだめだと常に話し合っています。だから懇親を図る意味もあって、炊き出しもやりました。私自身、生かされたということで、あまり後ろを振り向かず、とにかく前へ前へとやっています」

 住民に占める津波犠牲者の割合でいえば、合併前に単独の町だった地区の方が、旧石巻市のエリアよりはるかに多く、男性は住民を見つめながら、“みんな同じ悲しみを抱えている”としみじみ語りました。

 この北上地区を代表する風景といえば、北上川の“葦(よし)原”です。葦はかやぶき屋根の材料になり、風に鳴る葦は“日本の音風景100選”にも選ばれました。

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葦原の面積は津波や地盤沈下で半減しましたが、今は6割程度まで回復しています。

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川沿いにある小屋では、この葦を材料に紙づくりが行われていました。地元では以前、葦でつくった紙を名産品にしようと取り組みましたが、震災で途絶えたそうです。

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紙づくりを始めた一人、地区で生まれ育った60代の男性は、

「当時は、あんどんも作ってみようということで、商品化したんですけど、あんどんを作って販売している観光協会の女の子が震災で亡くなって、それでもう、断ち切れてしまったんです」

と言いました。その後、紙づくりは長野県出身の女性が復活させました。復興支援をきっかけに移住し、現在は農園や交流施設で働いています。災害公営住宅などで“紙すき体験教室”も開いてきました。

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「もともと紙すき自体はすごく楽しめる活動だと思っていたので、この地区に葦をすき込んだ紙があるのを知った時、ぜひ作りたいと…。自分で買い物に行くとか、外に出るチャンスがなかなか得られない方々の所に、こちらから出向いていって体験の材料を提供して、しかも北上川の葦が入っていると言うと、皆さん珍しがりますね。今までのつながりを大事にして、もっと広げていきたいと思います」

 震災で地区の住民が3割以上も減る中、今では家族全員でこの女性を手助けする人も現れています。

 さらに、そこから車で5分ほど上流に行くと川沿いに農家がありました。この農家は津波で1m以上浸水していて、私たちは震災の数日後、この家の60代の女性と避難所で会っていました。当時は、

 「床上は、腰くらいまで水が来ているんです。それで泥が下に10cmくらい溜まって、今は上の方は引いているんですけど、家に行くと泥だらけになってしまいます。まあ、命を守っただけでも…」

と言っていました。この取材後、女性は敷地をかさ上げし、震災の3年後に自宅を新築しました。今は子どもや孫など7人で暮らしています。農機具を失って農業は一度諦めましたが、三男が仙台からUターンした3年前から、本格的に再開しています。作業小屋には、収穫したネギが山積みでした。

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「3番目の息子が、“俺、やるから”って帰ってきたの。“じゃあ、みんなで手伝うから”って、それで今、やっているんです。7年経って、それこそ何事もなかったかのような感じで暮らしているけど、やっぱりみんな、あの時の思いは忘れられないね。あまり振り返らず、前へ前へって、元気なうちは体を動かして、頑張って働きたいね。当たり前の幸福と、あの頃にお世話になった方々へ感謝を忘れません」

 北上地区では今年に入り、観光物産交流センターや環境省の交流施設がオープンし、地元の白浜(しらはま)海水浴場も本格的に再開しました。地区最大の集団移転先の周辺には、市の総合支所、公民館、警察や消防、小学校の新校舎なども整備中で、完成は2年後の予定です。人口流出が激しいとはいえ、その土地で生きようとする人もいるし、生活環境の整備も少しずつ進んでいます。

 

 その後、北上地区の対岸にある、河北地区の長面(ながつら)という集落に行きました。昔からカキ養殖が盛んで、津波で養殖いかだの7割が流されましたが、生産量は震災前と同程度に回復しました。

11月10日放送「宮城県 石巻市」

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ここには200世帯が生活していましたが、災害危険区域に指定され、今は住めません。カキ養殖を営む40代の男性に聞くと、津波で家や船を全て失い、今は車で20分以上離れた災害公営住宅から、毎日通っているそうです。震災前は工場勤務でしたが、父の病気を機に、5年前にカキ養殖を継ぎました。

 「ここのカキはリピーターも多いし、“おいしい”って食べてくれる人の声を聞くと、やっぱりうれしいよね。漁師は震災前が15軒、今は10軒くらいかな。漁師がいなくなって、人が通わなくなったら、ここには年に1回、お墓に来るだけになっちゃうよね。家がだめになって仮設に行って、仮設から公営住宅に行って、仕事も変わって、でも生きているし、あんまり30年後のこととか考えても気が遠くなっちゃうんで、5年頑張って、5年後生きていたら、また5年後…そんな感じですよ」

 さらに、5年前に取材した、カキ養殖を営む30代の男性を再び訪ねてみました。船も自宅も流されたこの男性は、仲間とともに材木を組み、養殖のいかだ作りをしていました。当時は、こう言いました。

「今は電気、水道がないっていうのが1番のネックです。力を合わせ、一歩一歩着実に前進しながら、この長面浦の復興を目指していきたいです。長面のカキを、日本全国、世界各地に広められたら…」

 あれから5年…。男性は集団移転先に家を新築し、車で20分以上かけて毎日通い、養殖を続けていました。いかだは以前のように復旧し、生産は震災前の水準まで戻ったそうです。男性は、故郷を守り、交流人口を増やす活動を進めようとNPOも設立し、長面にカフェもつくりました。

 「電気がきたっていうのが、次へのステップとして一番大きかったね。冷蔵庫が使えるし、処理場のポンプも回せるし、1年ぐらいで一気に漁業のやりやすさも変わったね。何もかも奪うものも自然だけど、今こうして漁業が生業として成立するのも自然の力。長面浦の自然へ感謝しています。もう一つは、人への感謝だね。いかだを作るのも、海の掃除も、日本全国いろんな人の協力があって今に至ります。人も住んでいない所でやるのは、ものすごい寂しさもあるんですよね。でもやっぱり、古くからこの長面浦でカキが養殖されてきたんで、これは頑張って、ずっと継続していきたいなと思っています」

 その後、すぐ近くの作業小屋に行くと、カキ養殖を営む70代の夫婦が、仙台雑煮のだしに使われる“焼きハゼ”の加工を行っていました。

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毎年、市場や乾物店に卸してきましたが、今年はハゼが不漁で、お得意さんに分ける数しかないそうです。去年、復興工事で作業小屋が取り壊されるのに伴い、一度は廃業を決めました。しかし工事が延びたため、今年も細々と作っています。自宅がある場所から毎日通っていますが、作業小屋は今年度中に取り壊される予定で、いよいよこれが最後だと言いました。

「焼きハゼは本当に最後。もともと今年はできないはずだったからね。カキは足腰が動くうちはやれると思うけど、あと何年頑張れるか…2人で元気でいるうちだね。どちらか体が弱くなれば、もうカキ養殖はできないです。1人ではできないし、2人合わせて一人前だから。あと2年か3年、頑張れるかな」

 長面は、震災の地盤沈下で広大な地面が水の下に沈みました。そこを埋め立てて整備する復興事業がずっと続いていますが、取材のたびに通るのは砂利道で、重機がいつも動いています。

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7年前までは、長面にも豊かなコミュニティーがあり、祭りや伝統芸能も残っていました。今のように、人も住まない災害危険区域ではなく、住民が誇りを持ち、暮らしや絆を積み重ねてきた場所です。今後は居住が許されない以上、そこで仕事をする住民がいなくなったら、地域は消滅します。車で20分、30分と通ってでも漁業を続けている方々、特に30代、40代の漁師の存在は、極めて重要な意味を持ちます。

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