キャスター津田より

10月20日放送「福島県 広野町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、福島県広野町(ひろのまち)です。人口は約4800で、福島第1原発から20km圏外にあります。

10月20日放送「福島県・広野町」

国からの避難指示はなかったものの、町独自の判断で全町民を避難させ、1年で避難は解除しました。その後は、スーパーが入る商業施設が役場前にオープンし、広野駅東側の再開発では、6階建ての新築ビルに20近いテナントが入り、多くの人が勤めています。仮設住宅の提供は、1年半あまり前に終わりました。こうしたことから、すでに8割以上の町民が帰還しています。

10月20日放送「福島県・広野町」

 

  

はじめに、帰還した家族を訪ねました。30代の夫婦で、12歳、8歳、1歳の息子がいます。原発事故後、奥様の実家がある千葉県のアパートに避難し、ご主人は勤め先の再開とともに福島に戻り、週末だけ千葉にいる家族の元に通いました。毎週、千葉を離れる際は、子ども達に“行かないで”と泣かれたそうです。震災から1年半後、長男の小学校入学を機に帰還を決意しました。夫婦はこう言いました。

「子どもが少ないですよね。1学年30人いかなかったりするので…。子どもらにとっても、小学校から中学校、同じ人員でクラス替えもなくて、できるはずの部活ができなかったり、選択肢がないというのが課題ですね。子ども達がたくさん戻って来て、子どもの声が聞こえる町になってほしいです。でも半面、私たちが全然知らないところで、子どもが高校生の子と仲良くなっているんですよ。“何とか君だ!”とか言って…。顔が見えるコミュニティーという面では、安心して、期待しているんですけどね」

小中学生の数は、原発事故前の4割です。放射線への懸念、避難先での就学を続けたいなど、町を離れた理由は様々です。でも夫婦には、子どもの数が少ないなりに子育てしていく覚悟もあるようでした。

続いて、災害公営住宅に行きました。町内に2つある災害公営住宅では、町の社会福祉協議会が高齢者を訪問する活動を行っています。訪問活動に同行すると、ある職員は、こんなことを言いました。

「孤立されている方は孤立されていて、特に男性は出たがらない…。孤立しちゃうと、病気や認知症も進んだりするので、心配ですよね。出てこられない方たちは、訪問も増やしているのですが…」

その後、訪問対象になっている独り暮らしの70代の女性と、隣人で、同じく独り暮らしの70代の女性から話を聞くことができました。2人とも避難生活の間に夫を亡くし、同じ境遇だったことから仲良くなったと言います。部屋で倒れていたところを助けたり、助けられたり、支えあって生きていました。

「もう、どこに行くのも一緒なんです。いつも2人で仲良くできれば、これからの人生も、それでいいです。姉妹みたいな感じ…姉妹でも、こんなに仲がいいのはないね」

高齢者の数は、町民のほぼ3人に1人、この公営住宅に限れば、ほぼ2人に1人となります。車の運転ができなければ通院や買い物は不便で、孤独の心配もあります。大手コンビニ会社も、広野町での買い物支援として、公営住宅などで本格的な移動販売を始めました。また見守り活動にも協力しています。

さて、いち早く全町避難を終え、国の避難指示も出なかった広野町は、廃炉や除染、復旧工事などの一大拠点となり、今も帰還した町民4100人に対し、作業員など2600人が町内で暮らしています。

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住民登録せずに町で暮らす人も含めると、実際の居住者は人口の1.4倍となり、作業員向けの寮や宿泊施設、アパートが町の中で急増しました。作業員向けの宿泊施設に限ると、部屋数は1000を超えるといいます。

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そこで、4年前に取材した、当時40代の男性を再び訪ねました。飲食業から事業を拡大し、宿泊施設を始めた矢先に被災した男性です。当時は家族を避難先に残し、1人で宿泊施設を再開していました。

「私たちも避難を余儀なくされ、壊れた旅館をそのままにして避難したんです。復旧作業のために泊まる宿がないという、一本の電話から、原発事故の1か月後には、部屋を使えるようにしたんです」

あれから4年…。50代になった男性は、作業員向けの宿泊施設を10か所に増やしていました。従業員は70人、売り上げは震災前の約30倍ですが、銀行からの借り入れは20億円を超えたそうです。

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「必要とされるものを、どうしても提供したい気持ちが先に立って…。被災地のために一生懸命汗を流している方たちに対して、できることは何だ?というのが基本で、月に1、2回は、トンカツやステーキの食べ放題とか、イベント食もしています。今でも、防護服で帰って来られた作業員の人たちの顔は忘れられなくて、国難がこの人たちの手によって助けられているという思いが強くて、今後まだまだ続く廃炉作業などに我々も一緒に携わって、支えるつもりです。原動力は、福島が好きだからでしょうね」

こうした話が聞けるのも、広野町の最大の特徴と言えるでしょう。

 

  

さらに、最も津波の被害が大きかった地区にも行きました。

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行政区長の70代の男性は、自宅が全壊し、いわき市のアパートで避難生活を送った後、地元に戻って長男の家で暮らしています。男性は今年、地区の鹿嶋(かしま)神社の祭り“たんたんぺろぺろ”を8年ぶりに復活させました。

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一説には、太鼓や笛の“どんどん”“ひょろひょろ”という音が転じて名前がついたそうです。震災で住民が半減し、みこしの担ぎ手が不足したため、地元の高校や企業の力を借りて復活にこぎ着けました。この地区は作業員向けのアパートが林立し、今では新しい住民のほうがはるかに多い状態です。

「“死ぬ前に、またお祭りを見られて良かった”と涙を流した人もいましたよ。元からの住民には、“知らない人たちがいっぱいいる”、“不安だ”という要素もあるわけだから、復興作業に従事する方々に、町の催しにいっぱい参加していただきたいし、この祭りもきっかけになるのかな、と思っています」

元からの住民と、作業員などの新しい住民の共存のあり方は、この町特有の課題です。男性は、交流イベントに取り組むNPO活動も行っています。町づくりには、相互理解が不可欠です。

10月20日放送「福島県・広野町」

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その後、“たんたんぺろぺろ”を手伝った高校生に会いに行きました。町内にある“ふたば未来学園”の3年生の男子生徒で、福島第1原発がある大熊町(おおくままち)出身です。震災当時は小学4年生で、中学まで会津若松(あいづわかまつ)市の仮設住宅で暮らし、高校では寮生活です。祭りでは、みこしが巡回するルートについて、町が指定した津波の避難経路を練り歩こうと提案しました。

「僕自身は震災の時、避難経路を完璧に覚えていなくて、少し迷って避難するのが遅れた反省があって…。何より、他の人たちにも避難経路を知ってほしいと思いました。大熊の家はもう戻れないです。高校生になってから1回行ったけど、ちょっとやばかったですね…家の中に入った瞬間、涙が出そうになったんで、つらい思いしかない…。将来は高校の体育教師を目指していて、東日本大震災を分からない、若い世代に教えていくために教師になりたいです。夢を実現したいです」

さらに、町の特産にしようと新たな作物の栽培が始まったと聞き、その施設を訪ねました。

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先月、バナナの苗木150本の植え付けが行われ、来年6月に出荷するそうです。

10月20日放送「福島県・広野町」

生産目標は3年間で15万本。寒さに強いバナナを選ぶため、種を氷点下60度で凍結し、その中で生き残ったものを育てます。国産は珍しく、岡山県産のバナナはかなり高額で取引されているそうです。施設の管理人は50代の男性で、以前は町で材木業を営んでいました。原発事故で取引を停止され、3代続いた店をやむなく閉じたそうです。

「このバナナも、マイナス60度で凍結して、そこから生き残ってきたわけです。我々も7年前に、東日本大震災と原発事故の影響で1回だめになった…でも、そこから立ち上がってくる、まさにバナナと同じような、復興という意味合いがあるわけです」

実は6年前、私たちは避難先のいわき市で、この男性を取材していました。広野町民が暮らす仮設住宅の管理人をしていて、当時はこう言っていました。

「他の人は年が変わって、どんどんカレンダーが動いているけど、俺は2011年3月11日で止まってる…。前に戻るのは、もう無理なんですよ。新しいものに向かったほうが復興が早いんじゃないかな…」

あれから時が過ぎ、男性は去年、仮設住宅の終了とともに管理人を辞めました。3か月前に町の振興公社に就職し、バナナ栽培の新規事業を任されたそうです。

「今はとにかく、このバナナをきちんとしたものにしたいです。駅の東側には、立派なホテルとかビルが建っていますけど、一番大事なのは、一人一人の心の復興なんですよ。仮設にいた人と時々会うと、“仮設は良かった”という声を、まだ聞くんですよ。町に戻ったんだから、仮設は仮設で楽しかったけど、こっちもいいなって思ってくれるのが、一番の心の復興、完璧な復興と言えると思います」

他の原発被災地に比べ、常に復興を指摘される広野町。しかし、この男性の言葉も耳に残ります。

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