キャスター津田より

9月29日放送「岩手県 釜石市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、岩手県釜石(かまいし)市です。人口は約3万4千で、震災では1000人以上が犠牲になりました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

今も約800人がプレハブの仮設住宅で暮らすものの、今年度中には全ての災害公営住宅が完成する予定です。来年にはラグビーのワールドカップが釜石で開催され、新しいスタジアムも完成しました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

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はじめに、釜石で30年続く水産加工会社を訪ねました。津波で工場は5m近く浸水し、2億8千万円をかけて隣町に新設した工場も、完成して2週間で全壊しました。社長の60代の男性は、“借金しか残らなかった”と話しました。工場は約3か月で一部が復旧し、その後は通販部門を徐々に拡大させ、今では売り上げが震災前の倍になりました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

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再建の原動力は、消費者からの励ましの手紙だったそうです。

「今でも思い出すと涙が出るんですけど、“2月の商品がたった一袋、冷蔵庫に入っています。でも今はもったいなくて、それを食べられません。復活したその時に、安心して食べさせてもらいます”って書いてありました。これには涙が出ましたね。なんとか1日も早く、お客様に商品をお届けしようという思いで、ずっとやってきました。魚の町・釜石を復興し、日本全国に、そして将来的には、何とかアジアに広げていくことを実現したいと考えています」

この会社は何とか業績を確保していますが、水産加工業者の大半は、業績確保にすら困っているのが現実です。復旧中に得意先を奪われ、サンマやイカなど原料の漁獲が減少して値上がりし、人材不足は深刻で、震災前後の二重債務が重くのしかかります。水産庁の調査では、岩手をはじめ5つの県で被災した水産加工業者のうち、売上が8割以上戻ったのは半数を下回っています。状況は楽観できません。

次に、中心部から車で10分の平田(へいた)漁港に行きました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

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ここで出会った70代の漁師の男性は、15年以上ホタテ養殖を営んでいます。船と養殖いかだを全て流されましたが、補助金などを使って、震災の翌年には再開しました。“海はいいんだよ。何でもかんでも、我々に与えてくれるんだもん”としみじみ語る表情に、漁業への思いが込められていました。最近放送した陸前高田(りくぜんたかた)市の漁師さんの声にあったように、釜石でも、養殖の規模が元通りになった矢先、去年からホタテの貝毒が発生しています。貝毒は特定のプランクトンが原因で、ホタテのワタなどに蓄積します。前例のない大規模な出荷制限が続き、男性は今、漁業保険(平年の水揚げ額の8割を補償)だけが頼りです。

「今年まだ1回も出荷できていない…1回も無し。まだ貝毒の数値が高いからね。ホタテを売らねば、飯を食えないもん。ホタテさえ売れれば、命がつながっていくんだから。原因のプランクトンが少なくなって、水が良くなれば…。貝毒がなくなればいいなと思っている、早く…」

その後、漁港から市の中心部に行きました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

公園で出会った60代の男性に聞くと、以前ここには仮設商店街があり、男性はラーメン店を営んでいたそうです。昭和から続く、釜石名物の“呑ん兵衛(のんべえ)横丁”も入った大きな仮設商店街でしたが、今年3月に退去期限を迎え、閉鎖されました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

「仮設営業はたった6年だったけど、さびしいですね。再建場所がすぐにでも見つかれば、取りかかりたい…若くないですから。あと10年やれるか、やれないかなので、お金かける以上はちゃんとした場所を…となると、しっかり探さなきゃと慎重になりますね。“再開しないのか?”と問い合わせも来ますし、この間は駅前の派出所にお客さんが訪ねて来たみたいで、“同じことが何件かあるんですよ”とお巡りさんから直接電話がありました。絶対、どこかに再開しますので、その時はよろしくお願いします」

岩手県内の仮設商店街は、おおむね退去期限を迎えています。“呑ん兵衛横丁”も一時は商業ビルを建てて再開する話が出ましたが、市有地の提供を断られて立ち消えました。仮設商店街の店には、震災前は賃貸物件のテナントとして営業していた店も多く、男性のラーメン店もそうでした。自前の店を持っていた事業者のように手厚い補助金が受けられず、市ではテナント事業者のため、独自の補助金も作りました。ただそれでも、相当数の廃業は起きています。震災後も残った物件は賃料が上がり、内装などの工事には借金も必要です。復興需要と人口の減少、後継者不在、高齢など、廃業の理由は様々です。市街地の復興に必要な店舗が廃業していくという現実は、釜石だけでなく、被災地全体で起きています。

夜になり、鵜住居町(うのすまいちょう)の公民館では、伝統芸能“虎舞(とらまい)”の練習が行われていました。

9月29日放送「岩手県 釜石市」

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演じるのは、小学生を含む約50人のメンバーで、秋祭りで漁師の無事を祈って奉納されます。子ども達を指導するのは20代の男性で、祭りの総代も務めた父親の影響もあり、小さい頃から虎舞に参加してきました(その父親も震災で亡くなりました)。虎舞は、震災の年には再開したそうです。

「当時は道具も全部流されて、これからどうする?って話になったんですけど、OBの人が“これ使え”って、虎舞で使う頭(かしら)とかを寄付してくれたり、よくしてもらって…。被災して流された人たちの分も頑張らなきゃいけないと思っていて、被災して何もなくなっても、昔から続いている芸能をなくしちゃいけない、これからもやってやろうと思います。祭りは、自分の生きがいです。子ども達にも、参加して楽しいって思ってもらえれば、いいですね」

 

さて今回も、以前取材した方を再び訪ね、今の様子をうかがってきました。震災から2年後、市の北部では、80代の男性に出会いました。一人で浸水した土地を起こし、新たに田んぼを作っていました。

「5~6年後にガレキがなくなるって言っても、俺は83歳だからさ。5年たったら何歳になる?間もなく90歳だべ。90歳になって田んぼを復興してもらったって、どうにもならない。ここは津波をかぶって米はとれないと言うけど、この現状で、俺は米を作ってみせっから。豊作にできるように努力するさ」

あれから5年…。男性は今も、元気に農業を続けていました。以前取材した田んぼは、3年前、国道の整備によって残念ながら埋められたそうです。男性は“強制執行のようだったな”と寂しそうに言いました。震災前は1ヘクタールあった田んぼも、現在復旧しているのは自宅脇の田んぼだけで、ここも、津波をかぶった土地を自分がツルハシを振って田んぼにしたと言いました。男性は、米寿を迎えた今年から、さらに新しい田んぼの造成を始めています。来年には、田植えを再開できる見込みです。

「本当に昔のような田んぼにするには、ここだって3年もかかるの。トラクターで起こしていくと、石がバンバン出るから、拾って投げねばだダメなの。いま7年たって、やっと水路を作ったり、田んぼ作ったりしている…やっと始まったんだよ、やっとなのさ」

また震災から2年後、市内の仮設住宅では、パンの移動販売が行われている場面に出くわしました。当時50代の男性店主によると、以前から移動販売が主な営業形態で、津波で工場が流されたものの、震災から半年後には再開したそうです。

「半年間、何もしないで休んでいることは、苦痛で大変で…。仕事ができるということは、本当に幸せで、ありがたいことだなと思いました。明日に向けて、みんな優しい心で付き合っていきましょう。僕も、あと10年くらいは動きたいと思っています」

あれから5年…。還暦を過ぎた男性は、去年、工場を再建しました。工場の横に自宅を新築し、家族5人で暮らしています。毎朝3時に起きて1人でパンを作るそうで、機械や道具は中古品でそろえました。市民の生活再建が進むにつれ、移動販売の場所は、仮設住宅から災害公営住宅に移りました。しかし仮設住宅の高齢者のために始めたサービスは今も続けていて、出発前には野菜の産直市場に立ち寄ります。

「野菜は外に出て歩けないお客さんのために、仕入れるやつ。よろず屋さんですよ、コンビニ状態です。小さいけれど、ようやく自分の工場ができて、何とか頑張っています。工場ができても家のローンを払わなきゃいけないから、生涯現役になるかもしれないけど、元気にやっていければなと思います」

自ら被災しながら、他の被災した人を自分のできることで支えるという場面は、この7年半、実にいろんな所で見てきました。普段のニュースや記事では表に出ない、被災地を支える大きな力です。

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