キャスター津田より

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、岩手県陸前高田市(りくぜんたかたし)です。人口は約1万9千で、震災では1700人以上が犠牲になりました。中心部の高田地区だけでも、180haを超える土地を10m以上かさ上げし、現在は大型商業施設を核に、真新しい店も営業を始めています(陸前高田市のかさ上げは、"被災地最大の復興事業"と言われました)。高台では住まいの再建も進み、今年は7年ぶりに海水浴場もオープンしました。

 

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

はじめに長部(おさべ)漁港に行くと、地元・広田湾(ひろたわん)の特産、"イシカゲ貝"の出荷が行われていました。

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

甘みとコリコリした食感が人気で、日本で唯一、事業化に成功しています。湾内で養殖を行う漁業者は15軒で、6月末~10月がシーズンです。箱に入った貝は、淡いオレンジ色の身を貝殻の隙間から勢いよく出していました。

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

震災の半年後、補助金を受けて養殖を再開し、現在の水揚げは震災前の倍になりました。生産組合の会長を務める60代の男性は、この貝を復興の柱にしたいそうです。

「試行錯誤の連続でしたね。やっと事業化できるかなって時に震災にあいまして、船も資材も全部流されて、途方に暮れましたけどね。今後100トン生産できれば、他の方々も参入してくる可能性があるので、それを期待しています。課題は残っていますけど、なんとか、この"オンリーワン"の生産量を増やして全国の皆様に食べてもらって、陸前高田のブランドになるようやっていきたいです」

いま、三陸の漁業はまさに正念場です。船や港が整っても、去年はサンマが歴史的な不漁で、今年は養殖のホタテが前例がないほどの不漁です。今年7月末までの岩手県内のホタテの水揚げは、不漁だった去年の同じ時期の、3割しかありません。岩手の主力魚種"秋サケ"も、今年回帰するサケは震災前の半分程度と、不漁の予測です。こうした状況だからこそ、"イシカゲ貝"への期待も膨らみます。

 

その後、実際に"イシカゲ貝"を提供する店を訪ねました。市中心部に再建した寿司店で、取材日がちょうどオープン初日でした。

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

実は店主の60代の男性は、4年前にも会った方です。自宅と店を流されましたが、震災の9か月後には営業を再開し、前回会った時は、内陸部の仮設商店街で営業中でした。

「お客さんに何か用事を頼まれたら、"ハイよ"という代わりに"アイ(愛)よ"と言います。陸前高田がまだまだどうなるか分からないので、寄ってくれる人がいなかったら、商売も街も成り立たないと思って…まだまだつながりを大切にしたいから、陸前高田に来てくれればいいと思っています」

あれから4年。新しい店は、"イシカゲ貝"の評判も上々で、初日から大盛況でした。

「"うったづぞ"…これ気仙弁なんですけど、立ち上がるぞとか、さあ始めるぞって意味で、ずっと言わせてもらっています。本当にみんな声をかけてくれて、忘れられていなかったんだと思って…。みんなにお祝いしてもらったんで、これからも元気出していくぞ、"うったづぞ"って気持ちは湧いています」

 

そして、明治元年から150年続く畳店にも行きました。5代目となる50代の男性店主は、津波で自宅と店を失いましたが、震災の半年後に仮設店舗で営業を再開し、2年前には高台に新たな店を再建しました。震災後に2人の孫が誕生し、その成長がなによりの楽しみだと言います。

「家は建っているんですけど、和室の数が激減しているんですね。和室は障子やふすまが付随しますよね。その分、コストが高くなっちゃうんです。これからちょっとずつ仕事で不安な面があるし、でも不安もありながら、体が続く限りこの仕事で役に立っていければなと思います。孫が地元を出て帰って来ないような、"こんな町、嫌だ"っていうふうにならないように、頑張らないとね。このまま衰退させたくないですよね、ここに住んでいるわけですから。ここで暮らして、ここで仕事できれば一番だよね」

店を再建した人たちは、仮設より経費がかかる上に借金返済もあるため、売り上げを増やさないと利益は下がります。公的な融資を受けた人も多いですが、特例だった返済の猶予期間も、去年あたりから徐々に終わっています。さらに元々テナントで営業していた飲食店などは、グループ補助金という公的支援が使えません。資金の壁は高く、仮設商店街の建物を無償で譲渡してもらい、店を続けようという動きもあります。ただ被災した方々は、裏では事情を抱えていても、人前では明るく、決して愚痴を言いません。そこが、私がつくづくすごいと感じる点です。

 

その後、中心部のグラウンドで、野球の練習をしている子ども達を見かけました。

9月1日放送「岩手県 陸前高田市」

高田野球スポーツ少年団というチームで、震災の3か月後に活動を再開しました。チームを率いる40代の監督は、震災後、運転手の仕事とかけもちで、野球の指導を続けています。

「野球をしたい気持ちと、野球ができるといううれしさ…どんな場所で練習しても、子ども達が笑顔でいてくれるんで、それに対して一生懸命野球を教えなければという気持ちで、震災後からずっと指導してきました。震災以降、この子たちのために、家族のために、仲間のために、今後のために、"負けない、必ず勝つ"ということを自分に言いきかせているつもりですね」

かさ上げして新たにできた土地に響く、子ども達の大きく元気な声は、未来を明るく照らしています。

 

さて、今回も以前取材した方を再び訪ねました。震災から9か月後の陸前高田市では、内陸にプレハブの仮設店舗を建てて営業していた、陶器や雑貨を扱う店を訪ねました。自宅と店舗を流された当時50代の店主夫妻は、公的支援が十分に行き届かない中、震災の2か月後には営業を再開しました。

「最初は、仮設住宅で市役所も目いっぱい。仮設住宅の用地を確保するので目いっぱいだったんですよね。でも、商売やっているところが頑張らないと、街にならないじゃないですか?」

あれから7年…。夫婦は去年10月、中心部の商業エリアに店舗を再建しました。その2か月後には、災害公営住宅に引っ越して新たな生活も始めたそうです。ご主人は、商売仲間5人と計画して金策に走り、行政とも交渉しながら、5つの店が入る現在の共同店舗を作りました。

「ああでもない、こうでもないって、しんどかったけど、楽しくやれたと思っています。何にもない荒涼とした所に、なんかやっと街ができていくのかな…って感じで、心が温まるような気がしました。今は街ができている最中だけど、ゴールはないような気がして…。働き続けることが私たちには喜びなので、何百年もかかって先輩たちがこの土の下の街を作ったように、私たちも礎になればいいかなと…」

店の隣には、大型商業施設と市立図書館があり、週末は市外や県外からも人が押し寄せます。去年できた市立図書館には1年で15万人以上が入館し、店への客の流れも当面は順調でしょう。ただ、高田地区など中心部のかさ上げ地では、市の調査で、利用予定のない面積が6割に上ることが判明しました。かさ上げ地で最初に宅地が引き渡されたのは今年1月で、それまでに高台で自宅再建した人も少なくありません。空き地の解消は未知数ですが、新しい街を作るという夫婦の決意には、力強さがありました。

 

また、震災の翌月に訪れた陸前高田市では、早くも商店が営業を始めていた高台で、軽トラックで店を出している、種苗販売店の60代の男性と出会いました。自宅と店を流されたそうです。

「こんな時に心に希望がないと、やっていけないでしょう。また元に戻りたいと思うでしょ。だから、心に希望の種をまいて復活ですよ。気を遣って"頑張るな"って言う人がいますけど、何が何でも頑張らないとやっていけねえですよ。みんなで思いやりを持って協力して、やっていくしかないんですよ」

あれから7年…。男性は津波が来た場所を避け、2年前、高台に自宅と店を再建していました。前回会った後に仮設店舗を建て、井戸を掘って水を確保し、そこで5年間も商売を続けたそうです。

「今の生活にだんだん慣れてきて、被災直後の生活は忘れて、実感もなくなっているね。とにかく今は、普通の生活に戻ったからね。当時の思いを忘れちゃダメだと思って、記録を残したりしているんだ」

男性は自らの被災体験を、ボランティアの力も借りながら、英語で書いて出版しました。題名は、"心に希望の種を"。世界中から注文がきているそうです。さらに男性はこれまで、国内外で被災体験を伝えてきました。取材した日も、東京・墨田区のグループが店で話を聞いていました。男性が、"津波で死んだ人のことを思えば何でもないと思って、『心に希望のタネを』ってトラックになぐり書きして、行商を始めました"と語ると、皆は真剣に耳を傾けていました。男性は最後、私たちにこう言いました。

「新しい家、新しい店ができたので、幸せの種を、皆さんとともに撒きたいと思います。種を買う人は、半分位は世間話をしていく…ふれあいを楽しんでいるんです。人の幸せってというのは、気にされ、気にすることから生まれるんだと思う。今、つつがなく暮らしているという状況はありがたいね」

男性の言葉の力は、以前にも増して、強くなっていました。

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