キャスター津田より

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

このたびの西日本豪雨で犠牲となられた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

風水害では、平成に入って最も多くの犠牲が出てしまいました。身内が亡くなった状況を切々と話す声、道路が復旧せず物資も水も届かないと訴える声…ニュースや記事でふれる被災した方々の話は、まさに、私たちが過去に経験したことのくり返しです。私自身も7年前に自分の目で見た故郷の惨状がよみがえり、なかなかニュース映像を直視することができません。でも、そんな話は恥ずかしい限りで、早速、現地でボランティアをしている東北の方もいます。被災された方々の1日も早い生活再建を心からお祈りしております。

 

さて今回は、宮城県の被災地で聞いた若い世代の声です。はじめに仙台市で取材しました。

仙台駅前や中心部の姿からは想像できませんが、市内でも若林区(わかばやしく)や宮城野区(みやぎのく)の海沿いでは、甚大な被害が出ました。市内で約900人が犠牲となり、建物の全壊だけでも30000棟以上です。ほとんどの建物が流された地区もあります。現在、沿岸部に広がる災害危険区域では住宅の新築が禁じられ、集団移転などで住民もいなくなり、いくつか学校もなくなりました。

 

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

まず、若林区井土(いど)地区で、被災した海岸公園が再開したと聞いて訪ねました。7年4か月ぶりに子どもの歓声が戻った公園には、たき火をしたり、土で遊べる広場もあります。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

2人の子どもを遊ばせていた20代の母親に聞くと、すぐ近所で育ったそうで、実家は大規模半壊して取り壊したといいます。

「ママが子供のころ来ていた所だよって、連れてきました。同じ所でこうして遊んでいると、"帰ってきたんだな"という感慨深い思いでいっぱいです。昔ここに遊びに来ていた私より下の子が、震災で亡くなったりしたので、母親になってさらに、未来ある命が失われるのは悲しいと強く思います。遊んでいた場所がなくなるって本当にショックだったので、もう同じ気持ちを子どもに味わわせたくないです」

公園では、再開を記念して式典も行われ、地元の六郷(ろくごう)小学校の子どもたちが、"黒潮(くろしお)太鼓"の演奏で盛り上げました。この六郷小学校には、去年4月に東六郷小学校が統合されています。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

東六郷小から転入した6年生は男の子1人だけで、彼も太鼓のメンバーです。東六郷小の学区は被害が甚大で、彼の自宅も流されました。多くの人が避難して児童数が8人にまで減ったため、統合に至りました。20年以上続く東六郷小の創作太鼓は、彼をリーダーにして六郷小に引き継がれました。

「東六郷小から来たのは、学年で1人しかいなかったし、太鼓をできる人も来た時にはいなかったので、今こうして、みんなでできることがうれしいです。受け継いできた伝統の太鼓を、下の学年につなげられるように、常に集中して全力でやっています。僕たちが持っているすべてを教えてあげたいです」

 

次に、同じ若林区の荒浜(あらはま)地区に行きました。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

この地区は災害危険区域に指定され、津波が2階まで押し寄せた荒浜小学校の校舎だけが残されています。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

校舎は震災遺構となっていて、被災したままの姿を公開し、以前の地区の様子も映像で伝えています。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

スタッフが取材した日も、被災地見学の団体などが訪れていました。案内を担当する職員は、地元出身の30代の男性で、小学校の近くにあった自宅は全壊したそうです。男性は毎年3月11日、ここで風船を上げたり、コンサートも開いています。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

「当たり前に人がいたし、家があったし、お祭りがあったのが、あの日以降、当たり前が全部なくなってしまったので、今まではそうしたことを誰かがやってくれていたんだと気づきました。今度はそれを、自分がやっていくつもりです。最初は涙を流していた人がだんだん笑顔に変わったり、ここに帰ってくる方々が、来てよかったとか、もう一度この場所に来ようとか、遠くからでもこの町を見続けようとか、何かしら、その人に帰結していくことが大切なんじゃないかと思います」

 

さらに荒浜小学校の近くに、1軒だけ建つ小屋を見つけました。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

行ってみるとスケートボードの練習場で、30代の男性が、流された自宅の跡地に作ったそうです。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

この日も、震災前この地区に住んでいた彼の同級生が、息子を連れて練習に来ていました。男性は、趣味を通して人の集まる場を作ろうと、自力でガレキを撤去し、2年近くかけて完成させました。残った家の基礎部分もうまく利用し、滑るコースが作られています。男性は、"基礎が残っていると、家を建てた親が喜ぶから"と、少し笑って言いました。

「ここができた最初のころ、来る人って、みんな泣いて帰るんですよね。津波で亡くなった方も多いので、海を見に行って泣いて帰るじゃないですか…。でもやっぱり僕からしたら、あったことも忘れず、楽しい場所にしようよって思うんですね。じゃないと、この地域がなくなっちゃうと思うので…。どうやっても、震災前には絶対戻らないじゃないですか。でも、僕らが小さい時に楽しかった荒浜には、これからでもできると思うんですよ。悲しい場所で終わらせるのだけは、嫌なので…」

いま仙台市では、災害危険区域に指定された集団移転跡地の活用を進めています。約43haを民間の事業者に貸し出し、例えば若林区荒浜地区では、野球場やサッカー場、観光果樹園などがつくられる予定です。震災前まで沿岸部は、大都市・仙台で唯一、"田舎の良さ"が残る土地だと言われてきました。江戸時代から農業や漁業が営まれ、歴史を持つ集落の姿は、跡地利用という形で変えられていきます。そうした現状やローカル色の強い土地柄ゆえ、自分がそこで育った痕跡や、そこで暮らした生活感を大事にしたいという思いは、比較的若い世代でも強いのです。皆さんの姿は、その表れだと思いました。

 

そのほか、県中部の東松島市野蒜(のびる)地区に行き、今年4月にオープンした防災学習施設を訪ねました。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

地区の建物は震災前の3分の1に減り、防災学習施設も、津波で廃校になった小学校を活用しています。ここではロープの結び方を学ぶコーナーや、手を使って高い所に登る遊具などが設置され、災害時に自力で避難する力や知識を教えています。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

施設内のレストランでアルバイトをしていた19歳の女性は、震災の年にこの小学校を卒業したそうで、今は仙台市内の大学に通っていると言いました。

「ここは私が小学生の時に過ごした場所なので、思い入れがあるんですね。山もあるし、海もあって、やっぱりここが好きですね。都会に行きたいっていう気持ちもありますけど、ここの方が安心します」

彼女は、高校時代から地元の語り部グループで活動し、津波に追われながら小学校に逃げ込んだ体験など、これまで30回以上も全国各地で伝えてきました。

「ここで起きたことを話せるのって、ごく限られた人しかいないと思い始めて、やるしかないと思いました。最初は泣いてしまったり、つらかったんですけど、今はむしろ発信していきたい気持ちが大きいです。私自身、車に乗っていて、"津波が来た"という声を聞いて急いで車から逃げたので、やはり津波の時は逃げろだとか、避難所で生活していた友人や自宅避難の私の経験から、どんな備えをしておいた方がいいのか学んだので、そういうことを他の人にも学んでほしいです」

 

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

さらに県南部の亘理町(わたりちょう)でも取材し、漁港の目の前にある産直施設で働く、30代の女性に話を聞きました。

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

7月14日放送「若者子ども編・宮城県」

震災前の建物は津波で全壊し、仮設店舗を経て、本格的に再開したそうです。女性は震災前からここで働き、勤務中に津波に襲われて2日ほど孤立した後、ヘリで救助されました。

「ヘリから見た時、もう荒浜に戻ってこないかもって思ったら、ショックで悲しくて、大泣きだったんですけど、施設が再開するって言われた時、やっぱりここで働きたいと思ったし、自分の中で荒浜に来て働くことが当たり前で、そういう日常がすごく好きなので…。荒浜に人が戻るには10年かかるって、皆さん言ってたんですね。でもそれより早く、足を運んでくださる方も増えてきているし、昔の荒浜の町並みとはちょっと違うと思うんですけど、もっと早く、前の町並みに近い形になるんじゃないかと思います。ここで毎日仕事できる幸せと、お客さんに来てもらえる幸せを大事にしたいなと思います」

2人の姿やその言葉にふれると、どんな被災地であっても、その土地を深く愛し、そこで生きていこうとする若い力は必ず芽吹くのだ、としみじみ思います。

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