キャスター津田より

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

新年度となり、番組も8年目に入りました。すでに330回以上放送し、のべ4000人近くの声をお伝えしています。震災から2年ぐらいまでは、本来ならテレビを通して他人に見せたり話をするのは躊躇するような、ありのままの苦しい生活や不安の声が前面に出ていました。そして時が経ち、今も課題を訴える声がある一方で、生活再建を遂げた喜びの声、今後の夢を語る声などもずいぶん増えました。第1回から見ていると、本当に変化を感じます。これからも被災地の今を、お伝えしていきたいと思います。

 

今回は、宮城県塩釜市(しおがまし)の浦戸(うらと)諸島です。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

本土から2時間おきにフェリーが出ていて、生活には欠かせない交通手段となっています。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

震災の津波で被害を受けた4つの島では、防潮堤の建設が進み、一部はすでに完成しています。

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一方、漁業などの生業が衰退し、商店や宿泊施設の廃業も相次いでいます。島を離れる人も後を絶たず、人口は震災前の半分、330人まで減少しました。

 

本土からフェリーで30分ほど行くと、野々島(ののしま)に着きました。

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住民は約60人ですが、震災後は4割ほど減っています。

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この島では、浦戸の島々をつなぐ渡船(とせん)の船長に出会いました。

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以前は漁師の船を整備する仕事をしていましたが、震災後は廃業する漁師が後を絶たず、仕事が激減しました。今の収入は、以前の半分もいかないそうです。この島では、7年以上たった今も、地盤沈下したままの光景がいくつも見られます。

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男性はこう言いました。

「みんなにビックリされるんだ。ここ、定期船が着く所で、真っ正面に開発センターもあるのにね。島の顔となる所でしょ。それが全然手つかずなんだから、みんなビックリするさ。もっと早く進むのかなあと思ったら、やっぱり我々の思いとは裏腹に、こんな状況です。」

男性は、かさ上げ工事に伴って自宅を解体し、再び同じ場所に家を新築するそうです。

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「自然災害だし、しょうがないんだな。家族を亡くした人の思いを考えれば、恵まれているなって。これからもずっと、この島で生きて、島の観光を頑張ります。やっぱり、ここじゃないと生きていけないですね。やっぱりこの島が好きですね」

 

次に、男性の船に乗って、対岸の桂島(かつらしま)へ行きました。高台にあるお寺では、連なった数珠を島の人々で100周回すという行事が、ちょうど行われていました。

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人々に聞くと、震災後、島の住民は様々な理由でバラバラになったと言います。ある高齢の女性は、こう言いました。

「震災前は、カキ養殖の人が6軒くらいあったの。今は1軒残っているだけ。家がダメになって、本土の復興住宅に入った人もいるし、本土に家を買って、移った人もいるね。数珠って輪になっているので、みんなの心も輪になるような感じがします。やっぱり、こういう風に人が集まるのは良いことだね」

 

またこの島では、浦戸諸島で唯一の郵便配達員の男性にも出会いました。

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生まれ育った桂島を拠点に、4つの島に配達しています。この日は、奥様が車椅子で生活している老夫婦の家にも、小包の集荷に向かいました。男性は人口が減少した今だからこそ、郵便配達で人々の気持ちをつなげたいと言います。

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「震災で人口が半分になりましたから。減少スピードが一挙に来たもので…。どこを向いても殺風景だし、子どもの声もないし、いるのは老人と野良猫くらいなんで…。でも、ずっと島で生活していきたいです。震災があったから、思いがより強くなったのかもしれませんが。1通1通、大事に配達して、お互いの気持ちをとどけられたらな、という思いでやっています」

 

さらに桂島には、1軒だけ開いている店がありました。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

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老夫婦が経営していて、食料品や雑貨を扱っています。実は2人には、5年前にも話を聞いていて、当時はこう言っていました。

「年齢を考えれば、店の再開は半信半疑の状態です。お客さんが途絶えてしまうと、店の運営は難しいし、ダメだなと思ったら店は閉めます」

あれから5年…。島民だけでは商売が持たず、夫婦は時折来る観光客を頼りに、店を続けていました。島への愛着は強く、奥様は故郷を思う自作の歌も作るようになったそうです。

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2人はこう言いました。

「今も半信半疑の状態ですけど、観光のお客さんの気持ちをくんで、なんとかやってみようかと思ったんですね。やめようかと思ったんだけど、とにかくうち1軒だけだからね、(被災した)店を直して頑張っているんです。この島が好きなんです。とにかく、この島を愛しているんです。観光客の気持ちを受け入れ、島内の活性化を頑張ります」

 

その後、桂島の対岸にある寒風沢島(さぶさわじま)に行きました。

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港の近くで会った老夫婦に声をかけると、これから田んぼに行くと言います。震災前は家族でノリ養殖もしていましたが、設備の復旧に1億円ぐらいかかるそうで、年齢からくる体力の不安や、息子に借金を残してしまうことも考えて、養殖はやめました。今は半ば自給自足のつもりで農業をしていて、収入はほぼゼロです。

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島の田畑も津波で塩害が発生し、農業をやめる家が相次ぎました。残る農家は数軒だそうで、2人はこう言いました。

「コメを作らないほうが利口なの。採算が合わないから。昔はこの辺、全部耕していたもんね。きれいな田園風景でした。
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田んぼを続けているのは、愛着があるから、野菜でもコメでも、自分でとったものを食べると、おいしく感じられるじゃない。本当は苦痛もあるから、やめたい気持ちもあるけど、やりたい気持ちもあるし…半分半分かな。生きていかなきゃならないからね。頑張ります」

 

さらに寒風沢島では、荒れた田んぼの脇で、一人で作業をする若い男性と出会いました。

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収穫したタマネギを干すため、貯蔵小屋を作っているのだそうです。

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父親の代までこの島に住んでいましたが、今は離れ、本土から通っています。耕作放棄地を活用して米に代わる特産品を作ろうと、タマネギの名産地・兵庫県淡路島から塩釜市役所に来た応援職員に教わり、田んぼでのタマネギ栽培に挑戦中です。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

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ただ、新規就農者向けの補助制度も、塩釜市は対象地区外なので使えません。島では本格的な農業経営の実績がなく、銀行から融資を受けるのも困難です。資金は、インターネットで集めたそうです。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

「この島でしか出来ないものって必ずあると思いますし、この島の良さを野菜で表現できれば、もうちょっと先は見えてくるかなあと思いますね。島で農業を成功させたいです。4、50年後の未来の島を想像した時に、このままでは本当に無人島になってしまうので、やっぱり、外から人を呼び込まないといけないかな…。自分を含め、新しい家庭をこの島で築いていく人たちが増えるのが一番理想的ですね」

 

最後に、島を離れざるをえなかった人にも話を聞きました。

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

塩釜市内の災害公営住宅に夫婦で住んでいる女性は、生まれも育ちも寒風沢島で、長年営んできた雑貨店と自宅を流されました。大切にしているのは、友人からもらった1枚の写真で、津波で流される前の店が写っていました。

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「私の店が、島にとっては一番の中心地みたいな…島にとったら寒風沢の銀座だって、島の人が冗談半分に言うくらい。昔は活気があって、とてもにぎやかだったんですけどね。
4月7日放送「宮城県 塩釜市」
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ふるさとの景色がすっかり変わってしまって、何もない…目の前がもう壁(防潮堤)になっている風景を見ると、ただ単につらくて…。海が見えてこそ、避難できるのにね」

4月7日放送「宮城県 塩釜市」

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女性は、島が変わる様を見れば見るほどつらくなるため、島を離れる道を選びました。話しながら、目にはうっすら涙が浮かんでいました。

「こういうこと考えてしまうと、悲しさばっかりですね。だんだん年月とともに、逆につらくなっていく…津波直後の何もかもなくなった姿を見ても、あんまり感じなかったのに、今ふるさとに戻った時の方がずっとつらいです。あの場所に戻れるなら戻りたい、とは思うんですけど、今はもう無理です」

 

この女性も含め、皆さんに共通しているのは、島への深い愛情です。津波の後は急激な人口減少に歯止めがかからず、合理的に考えれば、離島に住む利点も限りなく少ないでしょう。しかし、それを補って余りある郷土愛こそ、離島の特徴なのです。限られた狭い場所だけに、かけがえのない場所なのです。

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