キャスター津田より

1月28日放送 「宮城県 東松島市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、宮城県東松島市(ひがしまつしまし)です。津波で市街地の65%が浸水し、1000人以上が犠牲になりました。すでに集団移転の宅地整備は完了し、災害公営住宅も計画の9割は完成しました。一方、防潮堤などの復興工事は今も続いています。

特に今回は、沿岸部の宮戸(みやと)地区で取材しました。

1月28日放送「宮城県 東松島市」

宮戸地区は、漁業はもちろん、観光面では東松島市を代表する地区です。大高森(おおたかもり)は、日本三景の松島湾、特に景勝地の"奥松島"を一望できる名所です。海水浴や潮干狩り、釣りなどのレジャーも盛んで、私も地元の石巻から遠足で行きました。この宮戸地区では、主に観光に関わる方々から話を聞くことができました。

 

はじめに、大高森の目の前にある、創業50年の旅館を訪ねました。建物の前には仮の船着き場があり、ここから復興工事の資材が運ばれています。旅館は津波を免れたものの、壁が剥がれるなどの被害を受けました。ただ、震災の翌年には営業を再開したそうです。

1月28日放送「宮城県 東松島市」

80代の経営者の男性は、こう言いました。

「売り上げは落ち込んでいるままですね。電話で、"やってるんですか"なんて問い合わせが今でもあるんだから。目の前で工事していたり、建設機械が置いてあれば、"宿泊はお断りします"と言っているようなものでしょ。これがある限りは、いつまでも復興が目に見えるとは言えないですね」

しかし男性は、時間はかかっても地域の安全のためには工事が必要だと訴えました。

「コンクリートの護岸なんか、自然とは異質かもしれないけど、新しい奥松島の魅力も出てくるんじゃないかと…気仙沼でも(本土と島をつなぐ)大島架橋ができたでしょ。あの橋を何百、何千と車が往来したら、いずれセールスポイントになるんじゃない?時間とともに自然と融合するんじゃないですか」

 

次に、宮戸地区で去年6月にオープンした野外活動施設に行きました。

1月28日放送「宮城県 東松島市」

地元の自然をいかし、野外炊飯やシーカヤックなどの体験ができます。前は別の地区にありましたが、被災後、宮戸地区に移って再建されました。中学校の体育教諭をしていた50代の男性が、施設の運営に携わっています。

「子供たちにこの施設を使ってもらいながら、震災後の海の様子も見てもらいたいと思うんですけど、どうしても"怖い"とか、そう思っている子たちもいるので…。その辺は複雑な思いも正直ありますけど、やはり前に進まないことには新しいことは始められませんのでね。これから新しいお客様に利用していただきたいし、昔の利用者さんがまた戻ってきて、またここを使ってもらうというのが、私たちの願いでもあります。そういう方がどんどん増えて、地区自体に活気が出ればいいのかなと…」

 

一方、地区の宿泊施設は、震災後、大幅に減りました。地区に40軒あった民宿は9軒に減少し、特に月浜(つきはま)集落では、30軒あった民宿の多くが被災した結果、残るのは5軒です。4年前に高台で自宅再建した70代の漁師の男性も、35年間営んだ民宿を廃業しました。新築した家の玄関には、今も"浜の家"という民宿の屋号が書かれた看板を飾っています。

「建物だけでは民宿はできないんです。高台では車をとめる駐車場の場所がとれないから、狭すぎるんです。しかも、私たちで新しくつくったとしても、後継者が続かないんでは、かえって大変だから」

民宿は廃業したものの、男性は、観光の仕事から完全に手を引いたわけではありません。宮戸地区では今、漁業体験など地元の暮らしを味わう観光、いわゆるグリーンツーリズムに力を入れ、男性はその責任者を務めています。自分をはじめ、多くの漁師がインストラクターとなり、事業を展開しています。

「慣れた漁業でお客さんに楽しんでもらえば、私たちもうれしいので、できるうちは続けていきたいですね。やはりお客さんがいっぱい来て、ワーワー人の声がするとね、ここで暮らしていても生きがいが出ますね。また、お客さんがいっぱい来て賑やかな月浜になってくれればいいなと思っています」

宮戸地区も本質的には、震災前から過疎と高齢化に悩む地域です。観光客という、外からの刺激があるからこそ、そこに住む充実感がありました。観光業の復活は、地元の生きがいを取り戻す作業です。

 

さらにその後、去年5月にオープンした複合施設「あおみな」にも行きました。

1月28日放送「宮城県 東松島市」

地場産品の販売や軽食スペース、無料の足湯も楽しめます。移住を希望する人たちに向けて、長期滞在のための施設もつくられました。去年11月からこの滞在施設を利用している50代の男性は、仙台市出身で、東京の食品業界で働いていました。ネット上で、東松島市の"地域おこし協力隊"の募集を見つけて移住を決意し、会社を退職したそうです。いずれは東京で働く奥様を呼び寄せて、東松島市に定住したいと言います。

「サラリーマンじゃない生活をしてみたいと考えた時、地方で働くことを選択肢に入れて…どこかっていうので、生まれ育った宮城県内で探したということですね。こちらでいろんな人と一緒に仕事をしたり、話を聞いて、被災後の大変だった中で、人と人で手を取り合って頑張ってきたんだなっていうのが、よく実感できたっていうか…。私も、この地で多くの人と一緒に生きていきたいと感じています」

 

さて、今回も、以前取材した方を再び訪ね、今の様子をうかがってきました。震災から1年半後の東松島市では、防波堤と岸壁が壊れたままの漁港の近くで、60代の男性と出会いました。公務員を定年したあと家業のカキ養殖を継いだそうで、漁港近くにある自宅は、新築して1年半で被災しました。

「なんとか家が残りましたんで、直して住みたいと思っています。全国の津々浦々から、本当にご支援ありがとうございました。津波の直後は私自身、何をどうやっていくか、全く分かりませんでした。皆さんの応援があったんで、この地でもう1回、再興していこうかなという気持ちになれました」

あれから5年…。男性は結局、自宅を直して住むことを諦め、貯金や退職金をかき集めて、2年前に集団移転先の高台で家を新築しました。現在は妻と両親の4人で暮らしています。

「考えてみれば、こっちに建てたのは正解でしたよね。前の場所で3軒ほど、修理して住んでいる方がいますけど、いまだに工事が続いていて、外に洗濯物を干せないとか、やっぱり大変だと思いますね」

男性は、がれきの撤去や炊き出しなど、支援への感謝の思いは7年たっても変わらないと言いました。

「今現在、感謝の気持ちは前よりもっと強くなっていますね。あれほど支援を受けたことは、人生の中でありませんでしたので…。支援のおかげで湧いた力が、非常に、自分の想像以上に残っていますよね。それを地域のボランティアとかに使っていけば、結局、お返しになるんだろうなと思っていますね」

男性は今、集団移転先の地区で、区長を務めています。

 

さらに、震災から1年半後の東松島市野蒜(のびる)地区では、当時40代の男性と出会いました。集落には津波に耐えた家々が並んでいて、男性は、がれき撤去や片付けなどを行っていました。聞けば、塩釜市(しおがまし)在住で、この家は津波で亡くなった母親の家、自分の実家だと言います。

「何かこう、きれいにしたいんですよね。私の実家でもあるし、両親の家でもありましたので、それを全くゼロにしたくない、生活の証を残しておきたいという気持ちが強いです。ここを目印にして、そういえば、あっちにも家があって…とか、思い出せるというか…。この家まで無くなったら、ただの普通の平地っていうか、平原ですからね、見渡す限り…」

あれから5年…。以前見た家々は一つ残らず取り壊され、広大な更地の中で、男性の実家が1軒だけ残っていました。50代になった男性は、仕事が休みの日には、今も月数回、片付けに通っています。

「いいことばっかりですね、思い出すのは…。津波の時の悲惨なことは意外に思い出さないもので、それよりも前の、ここで生まれ育ったいろんなことを思い出しますけどね。ここに生きていた人たちのことを、私が生きている限り忘れたくないなという気持ちです。全部無くなっちゃいましたからね、家とか…。家も無くなり、人も亡くなれば、思い出すのは人の頭の中しかないわけですから…。過去を無かったことにはできませんから、供養ではないんですが、思い出してあげたいというのはありますね」

 

東松島市では、災害公営住宅の完成率は約90%で、一昨年11月には、集団移転で計画した宅地700区画あまりの整備が完了し、全て引き渡されています。こうした流れとともに家の取り壊しが進む中、男性の言葉は、聞く人の心に残ります。

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