キャスター津田より

12月9日放送 「福島県 いわき市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県いわき市です。原発事故で避難指示が出た方々の"避難先"として広く知られていますが(→市外から2万人以上が避難)、いわき市も津波被災地であり、当然ながら、元々いわき市に住んでいる皆さんも被災者です。津波で犠牲になった方は460人あまり、住宅の被害にいたっては、全壊と大規模半壊の合計が1万棟あまりと、福島県内でも群を抜いています。

 

今回は、沿岸部の豊間(とよま)地区に行きました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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津波で住宅の6割以上(約400戸)が、流失または大規模半壊しました。かさ上げなどの宅地造成が終わったところから順次引き渡され、造成工事は今年度中に全て終わります。ただ、被災した世帯のうち、地区で自宅を再建するのは2割にも達しません。4、5年前は約200軒が地区での自宅再建を希望していましたが、最近では50~60軒です。地区を離れた事情は様々で、乳幼児や要介護者がいる世帯は、6年半以上も造成を待つことができませんでした。高さ7mの防潮堤は完成しても、津波へのトラウマを拭いきれない人もいます。放射線の心配という事情もあるでしょう。こうした事情から、住民らでつくる復興協議会は、空いた宅地に子育て世代を誘致することにしました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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現地説明会も開き、区有地に限れば、80~100坪の10区画を、50年間、月1万円で貸し出します。すでに1区画は、0歳児を持つ20代の夫婦が借りました。元漁師で、災害公営住宅に住む70代の区長の男性は、こう言いました。

「昔だって、新しい人がここに住みついて、豊間の街ができたわけだから、また新しい人が来て、街の歴史をつくっていくと思います。子どもがいない地区に将来はない…限界集落になりかねないと思うので、子ども達の声がにぎやかに聞こえる、子ども達がめんこく育つ街をつくりたいと思っています」

豊間地区では、子育て世代のための支援体制も整えられました。中学校の1階にある学童保育施設は、震災後、地区の子どもが少なくって一時閉所しましたが、今年4月に再開しました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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放課後の居場所として、現在17人の子どもが利用しています。施設長は、中学3年の息子を持つ30代の女性です。自宅は津波で浸水したそうです。安心して子育てができる環境をつくりたいと、施設長を引き受けました。

「やっぱり学童保育って、あって欲しいなって…じゃないと、保護者が働けないんですよね。共働きの家庭が多いので、子ども達の安全な居場所を確保しないと、豊間地区に戻って来られないんです。毎日"ただいま"って帰って来られる場所があって、安心して宿題ができたり、おやつを食べたり…津波の後、それすらできない状況だったので、当たり前の毎日を送れることに、子どもも私たちも感謝して生きていきたいって思います」

 

その後、地区の災害公営住宅の集会所で開かれた、"まちづくり懇談会"におじゃましました。

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子育て世代など移住者を増やすために何ができるか、住民は何度も話し合い、自主的に街づくりに関わってきました。この日も、"田んぼの学校のような、農業体験ができる街にすればいいのでは?"など、様々な案が出ました。今年4月に発足した住民団体"とーちゃんの会"は、これまで地域の伝統を継承しようと、子ども達に獅子舞や篠笛を教えてきました。会長の60代の男性は、こう言いました。

「豊間の歴史を伝えるということに取り組んでいきたいと思っています。笛吹きの子ども達を10人ぐらい見事にそろえて、吹いている姿を想像しているんです。人が寄り添うのは、お祭りがあって、遠くに行った人も戻って来て、お祭りを見る、参加するというのが意味のあることだと思います。他の人達と協力して、みこしの担ぎ手を50人、なんとか集めて、新しい街を渡御して歩きたいと思っています」

 

さらに、2年前、豊間地区に建てられた県道沿いの仮設商店街「とよマルシェ」にも行きました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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3店舗が営業していますが、来年度中には解体される予定です。地区の婦人会が中心となって営業する"豊間屋"は、地元野菜や手芸品を販売するほか、住民の交流スペースにもなっています。店員70代の女性に話しかけると、自宅は全壊し、今は災害公営住宅に入居しているそうです。

「住んでいる人はほとんど、家も何もかも流されて、家が残った人は、"俺は家があったから、無い人に元気を与えよう"って、支え合っています。楽しいこともいっぱいあったし、活気があったふるさとなので、本当にもう一度、昔のように戻れたらなと…。今、若い人を呼び込んで街をつくろうとしているから、若い人に親しまれて、頼ってもらえるような、おばあちゃん、おじいちゃんになっていけたらと思っているんですね。子どもが困っている時は、手を差し伸べたりしたいと思います」

取材したどの声からも、住民が"子育て世代を受け入れる"という一つの目標を共有しているのが分かります。そもそも豊間地区は中心部に比べて地価がかなり安く、"豊間なら、年収の少ない世代でも家を建てやすい"というのも"売り"になっています。被災地には、岩手県大槌町(おおつちちょう)のように、6年越しで中心部の土地の造成が完了したものの、土地の利用者が計画の半分に減ってしまったという例もあります。豊間地区の取り組みが、他の被災地の参考になるのは間違いないでしょう。

 

さて、今回も以前取材した方を再び訪ねました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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津波と火災で500戸近い家屋が被害を受けた、いわき市久之浜(ひさのはま)地区では、震災の4か月後、時計と家電の店を営む60代の男性と出会いました。自宅を流された男性は、津波を免れた店の2階で暮らし、仮設の風呂場を自力で作っていました。

「いつまでも泣いていたって、仕方ないからね。あとは笑っているほかないでしょう。自分がやらなきゃ、誰もやってくれないからね。自分が何かしら、毎日やらないときれいに片付かないし、住みよい家にもならないし、もちろん、いい町にもならないしね」

あれから6年…。男性は、以前の場所から道路を挟んだ向かいに、自宅を再建していました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

間もなく借り上げ住宅から引っ越します。今年7月には、補助金なども利用して、時計と家電の店、そして駄菓子を扱う雑貨店を新居の隣に再建しました。雑貨店は、震災の年に亡くなった叔父さんの店です。

12月9日放送「福島県 いわき市」

12月9日放送「福島県 いわき市」

「おじさんの店は昔から街で知れ渡っていましたし、子ども達にも親しまれてきたんで、どうしても無くしたくなかったんです。やっぱり子どもが集まる場所をつくりたいしね。子どもの遊び場も兼ねて、芝生を張って、東屋(あずまや)みたいなものを作りたいんです。やっぱり活気のある街になってほしい…今のようながらんとした街じゃなくて、昔のように、軒を並べる街になってほしいですね」

 

また、震災から1年8か月後のいわき市四倉(よつくら)漁港では、海のがれき撤去を終えた漁師たちに話を聞きました。

12月9日放送「福島県 いわき市」

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当時は放射性物質の量を計る目的で、ごくわずかの漁獲しか許可されていませんでした。当然、出荷はしません。漁協の支所長も務める60代の漁師の男性は、こう言いました。

「いつになったら漁に出られるかも分からないし、先が見えないっていうのが一番大変だよ。早期に出漁はしたいけど、やっぱり自然に数値が下がってもらうのを待つしかないもんね。気持ちは確かに萎えてるよ。だけど、やっぱり海を捨てるわけにはいかないから。長期戦でいくしかない」

あれから5年…。

12月9日放送「福島県 いわき市」

男性は今も漁師を続けていました。福島では、通常操業は今も実現していません。4年以上、出漁する日や魚種を制限した試験操業が続いています。四倉漁港では、所属する全ての船が操業しており、男性も週に2、3回出漁します。対象魚種は、"常磐もの"で知られるブランド魚・ヒラメをはじめ、170種近くに増えました。魚は検査を経て流通しますが、市場価格は震災前に及びません。

「水揚げしたって、結局風評で、他県より値段が抑えられているしね。本格操業になれば賠償金も打ち切られるから、それまでに風評被害が払しょくされて、自力で、漁業で生計立てていけるっていう生活を確立しないと、なかなか本格操業には入っていきづらいんだよね。東電のトラブルが収まって、国で"完全に大丈夫ですよ"ということになれば、風評被害も自ずと消えていくとは思うけどね。希望の光をつかみたい…一歩一歩進んでいけば、光を取り戻せると思っています」

 

日数を限った漁では技術の継承に支障が出るし、"生きがいの回復"にもなりません。今後は、廃炉作業で出た汚染水を浄化した後、どうするのかも心配で、国は"絶対に海に放出しない"という確約を示していません。結論によっては、市場評価に甚大な影響が出ます。男性の言葉から、重みが伝わります。

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