キャスター津田より

7月9日放送「福島県 川内村」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県川内村(かわうちむら)です。人口が約2700の、緑豊かな、とてものどかな山里です。

原発事故の4日後、村は全住民に避難するよう指示を出しました。その後は国の方針で、福島第一原発から20km圏内にある村の東部は立入禁止、20km~30km圏内にある村の西部も、"できれば自主的な避難が望ましい"という区域になりました。しかし20km~30km圏内では、国の方針が変わったため、事故の約1年後、村は住民の帰還を始めました。20km圏内の東部では国の避難指示が続きましたが、2014年10月、そして去年6月と、段階的に避難指示が解除され、帰還できるようになりました。

7月9日放送「福島県 川内村」

現在、村全体でみると、80%以上の村民が帰還しています。ただ、9才以下だと58%、10代なら45%です。放射線への不安などから、若い世代や子どもの帰還率が落ちるのはどこも同じですが、川内村の数字は、全住民が避難した自治体としてはかなり高いほうです。

 

はじめに、原発事故の翌年には帰還が始まった、村の西部で聞きました。ある民家で出会った30代の男性は、小学校の先生で、妻や3人の子どもと暮らしていました。地震の翌日、生後8か月の長男を連れて避難し、いわき市などを転々とした後、4年前に帰還しました。下の子が通う村の保育園では、園児の数が震災前の4割ですが、少しずつ増えているそうです。男性は、保護者会の会長でもあります。

「原発事故の後、自分のことだけやっている訳にはいかないという意識がすごく強くなって、保護者会の会長になりました。うちの息子もぼんくら息子ですけど、それでも村を担っていく未来の人材の一人だと思うと、息子としても大事ですけど、村の子どもとしても大事かなって…」

次に会ったのは、原発事故の翌年には帰還したという27歳の女性でした。両親や祖母、弟と暮らしていましたが、原発事故後は仕事の都合で家族と離れ、隣の田村市(たむらし)に一人で避難したそうです。帰還後は村の信用金庫で働き、去年、役場の男性と結婚しました。年内には、ママになる予定です。

「一緒に暮らしていた家族と離れ離れになって、避難した日とかは、すごい心が乱れて泣いちゃったりしました。避難先は、スーパーは23時とかまでやっているし、病院もコンビニもあるし便利なんですけどね。でも川内に戻ってくると、星空もきれいだし、空気も澄んでいるし、カエルの鳴き声とか、音でも光景でもすごいホッとするんですね。子どもには、村を散歩してどんぐりを見つけるとか、いろんなことをさせたいですね。子どもには、"川内だからできない"って思わせたくない…。これからの人生、楽しんで生きたもん勝ち、って感じで…。ずっと川内に、おばあちゃんになってもいたいなって…」

7月9日放送「福島県 川内村」

そして夜、村の草野球チームが練習しているグラウンドを訪ねると、キャプテンの24歳の男性が話をしてくれました。チームは20代から40代の約20人で、多くは村内に帰還しています。事故当時、高校2年生だった男性は、祖父母や両親と避難し、郡山市(こおりやまし)や田村市などを転々とした後、4年前に帰還しました。今は家業のガソリンスタンドで働いています。川内村には、夜通しで行う"24時間野球"という行事があり、この夏、7年ぶりに復活します。男性は、復活のために尽力してきました。

「川内を無くしちゃいけないと思ったんでしょうね。人も環境も、すべてひっくるめて、やっぱ好きなんだろうなって…。好きじゃなかったら、こんな村、不便でいられないと思いますよ(笑)。子ども達には、こうやって活動している大人を見て、"ああいう人になりたいな"って思ってもらいたい…。私たちが立ち上がって、"元気だぞ!"ってアピールして、支援の恩返しの意味を込めてやろうかなって…」

村では、買い物をする施設が完成し、介護施設も完成し、村を巡回する無料のバスも始まり、工業団地も造成中です。これから子を生み、育てる20代は、村の未来を担う大きな期待を背負っています。

 

さて次は、これまで紹介した方々から遅れて、今から3年前の2014年、そして2016年に帰還が可能となった、村の東部(原発から20km圏内)の方々の声です。

3年前に避難指示が解除された毛戸(もうど)地区では、避難指示の解除後、首都圏からすぐに帰還したという60代と50代のご夫婦に出会いました。"民泊"を始め、学生のゼミや会社の仲間同士など、遠くは大阪や九州からも、田舎料理を目当てに毎週お客さんが来るそうです。

7月9日放送「福島県 川内村」

奥様は、"緑も、朝の空気も、避難先とは全然違う"と言いました。長男一家は神奈川県に住んでいますが、この春、原発事故後はじめて帰省したそうです。2人の孫が来た時のことを、奥様は大粒の涙を流しながら、こう言いました。

「うれしかったです。本当にうれしかったです。朝の4時だか5時ごろ、LINEに"5月の連休に帰ります"と入っていて…。目が覚めたら入っていたから、うれしくて、すぐに寝ているお父さんを起こしてね。孫が来ない間は、川内村は孫が来られないような土地になったとか、そう思っていたから…。ずっと震災を引きずっている感じだったから、孫が来て、震災のわだかまりが吹っ切れたみたいな…」

ご主人のほうは、"孫が来て、復興のスタートラインに立てた"と言いました。息子さんも、当然、我が子に故郷を見せたかったはずです。悩み続け、ようやく帰ったのでしょう。"孫が来るだけで涙を流す"……罪のない人に、どれほどの重荷を理不尽に背負わせたのか、原発事故の正体を知る出会いでした。

 

次に、おととし村内に完成した災害公営住宅に行きました。ここには、避難指示が続いた20km圏内に自宅があり、元の場所での再建は断念したという人も暮らしています。住民の60代の女性もその1人で、郡山市に家を買おうと考えましたが、おととし帰還し、夫と長男と共に入居しました。

「やっぱり川内ですよね。郡山に家を求めるとか選択肢はあったけど、生まれ育って、嫁に行っても川内、やっぱり川内ですね。昔は近所なんて、何ていうのかな、今ほど親しくなかったけど、今は同じく被災して、絆ができたかな。前は"お金持ちですごい"とか、あるじゃないですか。それがみんな同じく感じますね。(帰還して新居もあるし)今はもう被災者じゃないかな。でも、ここの住所を書くにも、災害公営住宅って書かなくちゃいけない…それは被災者ってことだよね。複雑ですね」

帰還の開始が遅かった、原発から20km圏内の方々に限れば、村への帰還率は28%です。原発事故の被害者としての感覚は、村民の間でも違いがあります。

 

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。原発事故から1年後の川内村では、避難指示が出ている住民向けの説明会で、当時60代のご夫婦と出会いました。奥様はこう言っていました。

「ある日、突然"出て行け"と言われて、そして突然また"明日から帰りなさい"なんて、何も変わってないのに私は納得いかないです。子どもも孫も、もう絶対、我が家には来ないと言っているので…」

あれから5年…。夫婦は元の自宅で暮らしていました。事故から3年後、避難指示が解除されるや否や、避難先の郡山市から帰還しました。5年前に述べた怒りについて、奥様に尋ねると、こう言いました。

「年とともに、そんなことは忘れなきゃ…この地域で暮らしていかなければならないのでね。避難先のアパートから外の景色を見ても、ここは私の住む所かしらって、自分が落ち着ける場所ではないような気はずっとしていましたけど、我が家に来たら、もう大声で話もできるし、それが一番かな」

村内で近所に住んでいた長男一家は、原発事故の年に、家を建てる予定でした。今も千葉県に避難したままで、役場職員の長男は平日を実家で過ごし、週末だけ千葉に帰ります。千葉にいる小学生の孫2人は、事故後、1度しか泊まりに来ていません。以前は5月の連休になると、3人の息子やその孫、さらに息子の友達やその子どもまで、大勢が泊まりに来ました。それが年に一度の楽しみだったそうです。

「お布団いっぱい敷いて、子どもが走り回って、魚を釣ったり、囲炉裏で魚を焼いたり、餅をついたりして、とても楽しかったんですよ。それが無くなったのは、本当に一番寂しいことかな。これからは夢を持って、こっちに花を植えよう、こっちに木を植えよう、そんな風に前向きに進んでいきたいです」

帰還の喜びをそのまま形にしたようなきれいな庭、そして笑顔…でも、どこか寂しさを感じる目元が印象的でした。

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