キャスター津田より

6月18日放送 「福島県 富岡町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県富岡町(とみおかまち)です。富岡町は人口が約1万4千、福島第1原発から5km~14kmの範囲にあります。津波と原発事故の2つの被害を受けました。全町民が避難を強いられましたが、今年4月1日に、一部の帰還困難区域を除いて避難指示が解除され、住むことができるようになりました。戻ってきた住民は116人(6月1日現在)で、人口の1%に満たない状況です。

 

町では避難指示解除に合わせ、大型商業施設がオープンしました。大手スーパーや全国展開するドラッグストア、飲食店など6店舗が営業しています。

6月18日放送 「福島県 富岡町」

これまでの町は、放置されたままの家や帰還困難区域を示す鉄のバリケードの印象しかありませんでしたが、この大型商業施設の賑わいは驚くほどでした。町に戻った人や作業員の人、同じく避難指示が解除された近隣の町の人などで、とても混雑していました。特に、弁当店は大変な売れ行きです。従業員の70代の女性は、いわき市から1時間かけて通っていると言いました。同居する娘や孫の生活を考えて帰還はあきらめ、いわき市に家を新築したそうです。

「カレーでも何でも、プロの味ではないんです。自分たちが作っている味なので、ふるさとの味かなと思ってやっています。もう店を辞めようかなと思うことは常にありますが、通うのはしょうがないので…。私も元気だけがとりえで、"顔を見ているだけでいいな"と言われるので、顔を見ていただいて、元気を分けてあげられればいいのかなと思います」

そして、この大型商業施設の隣には、災害公営住宅も完成しました。全50戸のうち約6割が入居していて、すぐ横には新設された診療所もあります。ここに住む60代の男性は、避難先のいわき市から家族で帰還しました。自宅は帰還困難区域にあるため戻れず、災害公営住宅への入居を決めたそうです。

「自分は生まれも育ちも富岡町なんです。どうしても帰りたい、そういう意思が強かった…。富岡に移っただけで心が安らぐし、ほっとしていますよ。買い物も隣に歩いて行っていますから、便利ですよ。私たちが第一陣として生活して、安全に生活できる、そういうところを見せてあげたいですね。解除から1か月足らずで、これからです。本当に安心して暮らせる町になってほしい、これは私の願いです」

さらに、町内の田んぼでは、草刈りをしている60代の農家の男性と出会いました。原発事故前は、コメ作りを行う兼業農家だったそうです。3年前、農家有志で生産組合を作り、放射能の影響を調べる試験栽培を行いました。現在、耕作する田んぼを4haあまりに広げ、本格的な再開の計画を立てています。

6月18日放送 「福島県 富岡町」

男性は原発が爆発する映像を見た時、帰還をあきらめたそうです。現在は、息子や孫など、家族5人で仙台市に暮らし、片道1時間半かけて農作業に通っています。

「震災後、この一帯は柳が大きくなっちゃって、もう山でしたから…。水田に復活して、気持ちが違いますよ。ここで生まれ育って、昔からおいしい農産物が豊富だったので、かつての誇りが心の底にあると思います。体が続くうちは、故郷の土地は守ろうということですよ。富岡に戻る、戻らないではなく、仲間と同じく故郷を守っていく…戻る人も戻らない人もいるから、それはお互いに共有しないと」

さらに、町内の沿道を車で走っていると、花を植える人たちと出会いました。

6月18日放送 「福島県 富岡町」

いわき市に避難した町民でつくる交流グループで、この日は町に戻って活動していました。メンバーの一人で、婦人会の会長も務める70代の女性は、元の場所に家を建て、いずれは帰還するつもりだそうです。

「徐々に帰るような考えでおります。すぐに、ってことにはいかないけどね。商業施設、銀行、医者、準備万端のところに帰って来られるんだから、良かったと思いますよ」

一方、もう1人の70代の女性は、悩んだ末に町への帰還をあきらめたそうです。

「自分の土地、山、それから田んぼや畑も富岡にございますので、帰りたい気持ちは山ほどありますけれど、いざここで生活できるかといえば…。農業はできませんし、70過ぎてますしね…。前の場所に新しい家を建てても、子供たちは戻りませんのでね、意味がないですね。一人一人生活が違いますから。原発事故で思ってもみないことになってしまいましたので、本当に…」

今後、町は災害公営住宅をさらに100戸以上を完成させる予定です。ただ、そもそも3割もの町民の家が帰還困難区域にあり、元の場所に帰れる見通しは立ちません。放射線の不安や生活の安定を求めて他市町村に家を新築した家族も多く、子どもの転校も進みました。震災前、富岡町立の小中学校には約1400人が在籍していましたが、いま三春町(みはるまち)の仮設校舎に通うのは30人です。しかし、仙台から通って農地を守る男性や、いわき市から通って弁当店で働く女性のように、暮らしは町外に移っても、富岡町の役に立ちたいという人はいます。帰還する人だけでなく、帰還しない人も協力して町を建て直すのが、残された大きな活路かもしれません。

 

さて、今回も、以前取材した人を再び訪ねました。

6月18日放送 「福島県 富岡町」

震災から10か月後、郡山市内の仮設住宅では、富岡町から避難中の、当時70代の夫婦と出会いました。ご主人は、町では腕利きの大工さんでした。

「いつ帰れるか分かれば、目的も達成できるけど、どこから手をかけていいか、分からないよ。第1原発の事故で一番日本で恐ろしい所になってしまって、私たちの小さい時の面影は無くなっちゃうよ」

あれから5年…。ご主人は、富岡町でイノシシ駆除や山の手入れなどの仕事をしていました。一昨年、県が建設した郡山市内の災害公営住宅に、夫婦で入居したそうです。奥様の生活の利便性を考え、帰還はしませんでした。震災の時は二度と帰れないと思ったそうで、"今は夢みたいなもんだ"と笑顔で言いました。当初、避難所では、働くこともできず、朝昼晩とひたすら食料の配給に並ぶ毎日が、本当に悔しかったそうです。生きる目的も立てられず、体調を崩し、不整脈の発作も出たそうです。

「今はどこも何ともないね、自分の好きなことやってるから。自分のふるさとの山、川を愛しているから、何とか生きていけるなと思ってます。日本全国を出稼ぎして歩いたけど、富岡みたいに住み良い所はないな。山、川、魚とり、ドジョウとりとか、うんと思い出があり過ぎるから…。郡山とか東京さ行ったって、思い出が何にも無いだろ。だから富岡は、俺にしてみれば一番いい極楽だと思ってる」

これほどまで語る人が、結局は、郡山に住まいを決めたのです。原発事故が人に押し付けた重荷が、十分に伝わってきます。

また、震災から1か月後、大玉村(おおたまむら)の避難所では、原発事故と津波の被害に遭った富岡町の夫婦に出会いました。2人が住む毛萱(けがや)集落の住民は、散り散りに避難していました。

「毛萱のみなさん、元気でいますか。俺ら、大玉村に元気でいます。頑張りましょう。一瞬で津波にのまれちゃって、あれを思い出すと眠れなくなるような感じです。あんなのは初めてで…」

あれから6年…。ご夫婦は、いわき市に新居を建てていました。いわき市内にも毛萱集落の人が多く住んでいて、年1回、泊まりがけで集まったり、野菜のやり取りをしているそうです。いわき市に家を建てたのは、奥様が避難先で体調を崩したのが原因です。ご主人は奥様の様子を、こう振り返りました。

「"何でこうなっちゃった"って、毎日そう言ってるの。"みんな同じなんだ"って、いくら言い聞かせたって、"何でこうなった"って、ますます内にこもっちゃって、他の言葉を聞かなくなる…。夜は1時、2時まで起きてるんだよ。寝ろって言ったって…。夜は寝ないんだもの、具合悪くなるわ」

ご主人は、自分の心労も限界だったと言いました。これではいけない、何とか故郷に近い所に戻ろうと、必死でいわき市に通って土地を探したそうです。そして、いわき市で暮らしてから、2人には共通の趣味ができました。週に3日行う"グラウンドゴルフ"で、市内のクラブにも入りました。ご主人は、

「前進のみ…楽しく二人で生きるしかないから。くよくよしても仕方ない、前を見て生きるしかない」

と言いました。グラウンドゴルフの話をする2人は満面の笑顔で、私も安心しました。しかし肝心なのは、この笑顔の後ろにあるこれまでのご苦労を、みんなが覚えておくことだと思います。

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