キャスター津田より

6月11日放送 「宮城県 名取市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、宮城県名取市(なとりし)です。仙台市の南にあり、人口は7万8千ほどです。6年前の津波では、市の面積の3割が浸水し、とりわけ海沿いに民家が密集していた閖上(ゆりあげ)地区で甚大な被害が出ました。閖上地区では、人口の1割を超える約800人が亡くなっています。

現在、閖上地区ではかさ上げを伴う土地区画整理事業が進み、災害公営住宅も完成しています。

6月11日放送 「宮城県 名取市」」

地区で最も早く入居が始まった閖上西第一団地を訪ねると、3人の小さい子供を持つ20代の母親と出会いました。閖上にあった自宅は全壊し、去年11月、市外の借り上げ住宅から引っ越してきました。お母さんと上の子2人は、津波に半ば流されましたが、間一髪で助かったそうです。お母さんは、当時3歳と生後6か月の子どもを抱え、流れてきた缶詰を食べながら、防水タンクの上で一晩過ごしたそうです。

「いつ人は死ぬか分からないので、時間は大切に過ごしましょうということで…もう子どもには伝えています。"いつ死ぬか分からないんだよ"って。だから、やりたいことはやりなさいって教えています。いまはとにかく、長い時間、家族一緒にいることが夢かな…」

また取材期間中、閖上地区に完成した新しい災害公営住宅では、鍵の引き渡し式が行われました。入居者代表としてあいさつした70代の男性は、閖上出身で、海のそばの自宅を流されたそうです。震災前に妻に先立たれ、6年間、仮設で独り暮らしを続けてきました。鍵を開け、新居に初めて入ったとたん、"立派ですね…6年3か月、ホントに長かったねえ"とつぶやきました。男性は仮設で自治会長を務め、ライブや灯ろう作りなど多くのイベントを開き、住民のつながりを作ろうと努力してきたそうです。

「結局、80~90歳近くのお年寄りが公営住宅に入るでしょう。買い物にも行けないし、どこにも行けないから、外に出てこないで、下手したら孤独死が増えるのかな…。やっぱり、またここで新たにコミュニケーションを作って、やっていきたいと思います。閖上の人って歌が好きなんだよね。だからまず、公営住宅で民謡ショーでもやろうかなと考えているんですけどね」

名取市で新たに災害公営住宅に入る方の"やっとだ!"という思いは、別格のはずです。というのも、宮城県の沿岸では、すでに10以上の自治体で災害公営住宅が100%完成していますが、名取市の完成率は、今なお5割です。閖上地区の街を現地再建するという市の方針をめぐって紛糾したため、区画整理事業の工事開始は、震災から3年も経った秋でした。十数人に一人の割合で住民が亡くなった地区ゆえ、安全を求めて現地再建に反対する声も強くありました。実際今も、津波の体験が元で、少しでも閖上から離れたいという人が多くいます。閖上の復興には、複雑な経緯と複雑な住民の思いがあります。

 

続いて、建設中の災害公営住宅の近くにある消防署で、閖上地区の2人の消防団員と出会いました。地区から住民が避難し、人もいない、建物すら無いという中では、正直なところ活動の意味も薄いでしょうが、2人は活動を続けてきました。年4回の訓練や親睦会、そして会議も続けてきました。2人とも50代の男性で、1人は地元・閖上で自宅を再建し、来年、土地が引き渡される予定だそうです。

「閖上の先のほうが見えなかったので、どうなるんだろうって…。不安だらけでしたけど、最近だんだん街もできてきたので、明るい気持ちになってきましたね。できるだけ地域のために、皆さんの閖上を守っていきたいです。閖上が好きなんですね。いま話していて、自分で自覚しました」

もう1人の男性は、閖上を離れ、3年前に市内の内陸部に自宅を再建しました。それでも、消防団員として閖上に通っています。

「家は閖上から離れているけど、気持ちは閖上にあるというか…。閖上が立ち上がって、普通に機能するまでは、頑張ってみようかなって思っているんですけど。まあ、新しい街ができるというゴールがあるから、やれるんでしょうね。今から閖上は復興していきますので、やっぱり"チームワーク"がないとできないこともある…それを重点的にやっていこうかと思います」

6月11日放送 「宮城県 名取市」

 

さて、この閖上地区には、"語り部"として震災を伝え、故郷に関わり続ける人もいます。
今回会った語り部の方は、大学3年生の男性でした。震災当時は閖上中学校の2年生で、現在は市内の内陸部に自宅を再建し、家族と暮らしています。閖上中学校では14人が亡くなり、男性も、揺れが来る前まで一緒にいた友達を亡くしました。遊びに誘ったものの、それを断った友達は、津波に襲われました。

「なんで自分が、あそこで強く引き止めなかったんだろうとか、その時の後悔が、いまだに残ってるんですよ。昔、閖上には津波が来て、書物にも石碑にも書いてあるんですけど、受け継がれなくて…。正しい事柄が伝えられていれば、みんな助かったはずなので、絶対に風化だけは避けたいと思っていて、ちゃんとしたことを伝えていこうと…。住まないからといって閖上を好きじゃなくなるわけでもないので、閖上のことを常に考えている大人になりたい…。語り部活動も続けていきたいと思っています」

 

そして今回も、以前取材した方を再び訪ねました。

6月11日放送 「宮城県 名取市」

津波の直後、避難所となった名取一中の体育館では、おじいちゃんが行方不明だという家族と出会いました。おばあちゃんは本当に憔悴しきった顔で、
「家族が名取一中で待ってます。早く帰ってきてください」
と言いました。マイクに向かって、"じいちゃーん"と叫んだのは、当時3才の男の子の孫でした。
あれから6年…。残念ながら、おじいちゃんは津波の犠牲になっていました。ご遺体は津波のひと月後、自衛隊によって発見されました。今年3月、閖上地区に墓を建て、震災から6年経った七回忌に、納骨を済ませたそうです。一家は地元の閖上を離れ、市内の内陸部に自宅を再建しました。当時12歳で、高校3年になった女の子の孫は、こう言いました。

「やっとこの閖上で、安心して眠ってくださいと…これからもずっと見守ってほしいと思いました。過去を何回も振り返ってウジウジするより、未来を見て、明るく生きていければいいかなと思って…。避難所でご飯が食べられなかったり、何日か前の、硬くなりかけた味のしないおにぎりを食べた経験をしたので、やっぱり食を通じて、多くの方を健康にできる管理栄養士の仕事に就きたいなと思います」

また、震災から8か月後の名取市では、浸水した田畑で、被災した農家ががれきを撤去していました。農家の1人で、コメやカリフラワーをつくる当時60代の男性は、自宅や農機具、そして15棟のハウスも全て流されたと言いました。

「私は今、65歳です。大体あと10年ぐらいの時間しかないです。とにかく仕事がしたいというのが一番、津波の前の仕事がしたい…。仕事してると楽しいんだ。今以上にファイトだ」

あれから6年…。男性は、体力の衰えからコメ作りは断念しましたが、カリフラワーなど野菜に絞って農業を再開していました。

6月11日放送 「宮城県 名取市」

2年前、畑から2km内陸の土地に自宅を再建し、現在は毎朝、畑に通っています。塩水をかぶった畑ではもはや作付けは無理だと、一時は農家を辞める決心をしたそうです。ハローワークにも通いましたが、結局、40年以上続けた農業への思いを断ち切ることはできず、貯金などを工面して、1000万円をかけて畑とハウスを復旧しました。現在、収穫高は7割まで回復しました。

「津波のことはもう頭にない…とにかく前しか向かないようにしたというか、夢中だったんだよね。仕事に余裕がないから、津波のことを考える余裕もないと…。だから逆に、仕事があるから幸せなのかなと…。生きている以上、復興のゴールなんてないよ」

塩害を心配されましたが、幸い、影響は無かったそうです。日に焼けた男性の笑顔は、とても穏やかな笑顔でした。

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