キャスター津田より

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

 今回、番組の放送がちょうど400回を迎えます。震災のわずか9日後から、ほぼ9年間、全く同じスタイルで放送を続けて400回となりました。その400回目は、津波で被災し、地元を離れて他の町に移り住んだ方々の声をお伝えします。

 震災直後、被災地は衣食住が壊滅したため、赤ちゃんや小さい子どものいる家庭、持病のある高齢者がいる家庭などは、過酷な避難所暮らしや仮設暮らしを断念し、被害がなかった別の町に住む親せき、県外に住む息子や娘などを頼って避難しました。また、震災で仕事を失い、新たな仕事を求めて地元を離れた人、復興事業が予定通り進まず、地元での自宅再建を諦めた人もいます。今回は岩手県の沿岸部で被災し、県の内陸にある町に移り住んだ方々から話を聞きました。

 

 まず、滝沢(たきざわ)市に行きました。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

沿岸部から来た191人が暮らしています。ここでは、山田町(やまだまち)から移り住んだ、70代の夫婦に話を聞きました。自宅は津波で流され、震災で失業した長男が滝沢市で再就職したのを機に、家族で引っ越したそうです。滝沢市の社会福祉協議会は、避難者の生活支援を続けていて、この夫婦も50代の女性の生活相談員から支援を受けてきました。生活相談員は、夫婦が孤立しないよう、避難者が交流する会に誘ったりしたそうです。2人はこう言いました。

 「本当にお世話になったんですよ。助かります。我々は本当に、どこに行っていいかすら分からない知らない土地に来て、知っている人は誰もいない、兄弟も親せきもいないんだもん。お茶っこの会(=交流会)には同じように高齢の人がいっぱい来ているから、好きな話をして、それだけで癒やされるんだもの。こっちに来てからの8年は、もう十何年も経っているような感じ。これから本当に残り少ない人生だなと思うと、やっぱり悔いのない生活になればなあと思います」

 次に、盛岡市のベットタウン・矢巾町(やはばちょう)に行きました。釜石(かまいし)市で被災し、矢巾町に移り住んだ60代の男性は、父親の代から60年続くホルモンと中国料理の店を営んでいましたが、店も自宅も津波で全壊しました。震災の2か月後、矢巾町にある仕入れ先の空き店舗で営業を始め、その半年後には今の場所を見つけ、持ち帰り専門の煮込みホルモンの店を開業しました。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

専業主婦だった妻や、東京で働いていた娘がUターンして店を手伝っています。先月、新居が完成し、住んでいたアパートを出ました。月に2回は釜石市へ行き、かつてのお客さんにも配達しているそうです。

 「早い段階で移って来たけど、仕事とか生活とかいろんな面で考えれば、正解だったかなと思っています。元気でやっているのがみんなに対するお返しだと思って、いま過ごしている感じかな。ホルモンも釜石だけで終わらなくて、内陸に来ていろんな人がこの味を広めてくれて、食べてくれてよかったと思うし…。釜石への思いはありますよ。生まれ育っているし、無いわけがないよね。釜石のお客さんには、車の運転ができなくなるまで配達するよと言っています。大変な時もつらい時も悲しい時も、みんなが助けてくれたので、みんなに感謝して、それを糧に頑張っていこうと決めました」

 そして、一時1500人以上が避難していた盛岡市に行きました。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

沿岸部出身の被災者と盛岡市民が交流する会では、釜石市出身の70代の女性が話を聞かせてくれました。津波で自宅を流された後、夫の故郷であり、長男も暮らしている盛岡に、93歳の母親を連れて避難したそうです。母親は震災翌年に他界し、現在は夫と2人でアパート暮らしです。去年、釜石市にある先祖代々の墓も、盛岡市に移しました。

 「母はベッドの上で、「(故郷に)行きたいなぁ、行きたいなぁ」と言いながら亡くなりました。その声が耳に入ってくると、自然と涙が出て…。お墓も移して、もう釜石に帰らないとなると、皆さん、そういう意味では取らないだろうけど、“釜石を捨ててしまったんじゃないか”って思うんです。海で生活してきたご先祖さんが、3代も4代もいるわけですよ。そういうご先祖さんを内陸に連れて来てしまったっていう、やっぱりその重みは肩にありますね。交流会は救いになります。1時間か2時間ですけど 、くだらない話をして、その場所があるだけで助かりましたね」

 

 その後、奥州(おうしゅう)市に行き、陸前高田(りくぜんたかた)市出身の60代の女性を訪ねました。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

自宅が津波で全壊し、ご主人も津波で亡くなりました。奥州市で暮らす娘夫婦を頼り、高齢の母親とともに避難したそうで、母親はその後、介護施設で亡くなりました。震災のひと月後に孫娘が生まれ、今は小学2年生です。震災翌年に娘の自宅の隣に家を新築し、共働きの娘夫婦に代わって夕飯を作り、孫の世話をしています。昔から趣味だった大正琴の練習のため、今も1時間ほどかけて陸前高田に車で通うそうで、運転ができなくなれば、自然と故郷も遠のいてしまうだろうと話しました。

 「孫が生まれるのを、主人も楽しみにしていたのでね…。主人が亡くなったのが3月11日で、孫は4月23日生まれだから、見せてやれなかったのが残念だけどね。これからは主人の分まで、孫と楽しい時間を過ごしたいと思います。主人に伝えるとしたら、私は元気でいるし、家族も元気でいるし、孫は来年の春には3年生になって、みんな元気でやっていますよ、っていうことですよね。それが一番です」

 さらに、宮城県と接する県南部の一関(いちのせき)市にも行きました。千厩(せんまや)地区では仮設住宅が取り壊し中で、仮設と同じ敷地に建てられた災害公営住宅では、先月から入居が始まっています。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

ここに住む60代の男性は、陸前高田市の自宅を流され、震災から3週間後、妻の実家がある一関市へ避難しました。当時、かなり高齢の父親と同居していて(その後に他界)、父親を連れて避難所で暮らすのは無理だったため、一刻も早く落ち着こうと、一関市の公営住宅に入居したそうです。男性は、月に数回は陸前高田の知人に会いに行くそうで、昨日も行って、ワカメをもらってきたと言いました。

 「ここの暮らしには満足していますね。ぜいたく言ったらキリがないからね。時々、流された家の夢を見るんですよ。いま住んでいる所の夢は見ないんですけど、必ず昔の高田の思い出とか、そういうのが夢に出てくるんですよね。無くなって分かる、故郷のありがたみなのかな。今ここから、新しい生活のスタートです。とにかく健康で、楽しく暮らそうと思います」

 最後に、一時1000人以上が避難した花巻(はなまき)市に行き、4年前に会った方を再び訪ねました。

1月25日放送「岩手県 内陸避難者」

沿岸部の宮古(みやこ)市で被災し、仮設住宅に住んでいた60代の夫婦で、当時は、“これからは住宅再建や生活再建に向けて、2人で健康で、病院にかからず生活できればいいかな”と言っていました。

  その後について改めて聞くと、2人は何とか宮古で自宅を再建したいと、仮設の入居者が減って自治会が解散するような状況でも、我慢して仮設に残ったそうです。しかし、土地の造成が進まぬうちに2人とも体を壊し、医療環境も考えて、いとこの住む花巻市に小さな平屋の家を建てました。盛岡市に住む長男がローンの支払いを申し出て、何とか新築できたそうです。2人はこう言いました。

 「こっちでは、いとこから畑を借りて野菜を作ったり、近くの病院は車で5分もかからないし、スーパーは15分ぐらいだし、便利さはありますね。宮古に対する郷愁が無いといえば嘘ですし、テレビや新聞で宮古って言えば気になるし、天気予報も気になって、宮古の天気とか温度も見ます。ここは宮古と全然違って、海産物がなかなか手に入らないし、雪が降ると家にこもってなきゃいけないし…。とにかく、今後の望みは平凡な毎日ですね。なるべく病気にならず、 長生きできればいいと思いますけどね。まあ総合的に見れば、こっちに来る決断をしたのは間違ってないかなって思います」

 先月中旬、岩手県の調査結果が公表され、地元を離れて他の町や県外に避難した1400世帯あまりのうち、避難先に自宅を構えたり、避難先で賃貸住宅や公営住宅に入るなど、今後の住まいを確定させた世帯は、6~7割に上りました。盛岡市、花巻市、北上市といった内陸部の町は、40年近く前に新幹線が開業しており、買い物や通院などの生活環境も、相対的に沿岸部より整っています。年を取って車の運転が不安になったり、持病が増えたりすれば、暮らしやすい場所や、近くに息子や娘がいる場所を選ばざるを得ません。また震災で失業したり自分の店を失った人は、生きていくため、仕事ができる場所に移らざるを得ません。親戚や知人が大勢津波で亡くなり、故郷に戻っても孤独で不安だという人もいます。岩手県も避難者を支援するため、内陸部に約300戸の災害公営住宅をつくりました。

 一方、故郷への思いは必ず残り、今回は故郷を捨てた“負い目”さえ感じる方もいました。岩手県は北海道の次に面積が広く、同じ県内でも“沿岸と内陸では別世界”と感じる方が少なくありません。内陸での生活に納得しながら、どこか納得できない部分も抱えた姿に、複雑な気持ちになりました。

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