キャスター津田より

5月25日放送「福島県 飯舘村」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県飯舘村(いいたてむら)です。人口は5600ほどで、原発事故で全村避難を余儀なくされましたが、2017年3月に避難指示は解除されました(帰還困難区域の長泥<ながどろ>地区を除く)。

5月25日放送「福島県 飯舘村」

 仮設住宅の提供は3月末で終了し(帰還困難区域の人は来年3月まで)、村営住宅も完成しました。村内で再開した小中学校には60人ほどの子どもが通っていて、唯一のクリニックもあります。おととし道の駅も新設され、隣には、花を栽培するハウスや太陽光発電施設もあります。去年は、陸上競技のトラックなどがあるスポーツ公園もオープンしました。

 一方、村民のうち、実際に村に住んでいるのは2割あまりに過ぎず、スーパーなど暮らしを支える環境は不十分で、介護施設の職員不足も深刻です。

 

 はじめに、佐須(さす)地区に行き、 今月再開した農家レストランを訪ねました。

5月25日放送「福島県 飯舘村」

8年ぶりの営業で、原発事故後、村で飲食店がオープンするのは4軒目です。山菜などを使った郷土料理のほか、自家製の“どぶろく”が人気で、避難先から多くの村民も訪れています。

5月25日放送「福島県 飯舘村」

店主の70代の女性は、避難した福島市に自宅を新築し、車で通っています。15年前、ともに店を始めた夫は、再開を見ることなく避難先で亡くなりました。玄関にケヤキを飾り、照明に馬の鞍(くら)を使うなど、内装は亡き夫のこだわりです。

 「再開したのは、やっぱり避難していて寂しかったから。村に帰ってきた人もいるし、いない人もいるから、やっぱりみんな寂しいというか、心のよりどころって大変だと思うんだよ。店はいろいろな思い出、お父さんの思い出がある所だから、つらく思ったのではマイナスになるでしょう。やっぱりプラスに考えていかなくちゃ。避難して人生を諦めたんですけど、もう一度頑張って、生きてみようかなと思ってね。73才からの人生再出発です。第1は昭和に生まれて農業をやって、第2は平成でお店を開いて、避難して諦めたのを、また出発し始めたので、今は第3の人生です」

 次に、佐須地区の小学校の旧校舎で、創作太鼓『虎捕(とらとり)太鼓』の練習におじゃましました。

5月25日放送「福島県 飯舘村」

名前の由来は地区の神社の伝説だそうです。メンバーが各地に避難して活動を休止しましたが、4月から再び練習を始めました。皆さんは練習中、“しゃべって運動して、笑うのが楽しい”とか、“仲間がいるって一番いい”などと笑顔で言いました。メンバーの多くは、すでに福島市などの避難先に自宅を構え、この日集まったのも半数ほどでした。40代の女性はこう言いました。

 「村に住むとなると微妙だけど、帰ってくれば来たで、安心するんだよね。便利な所に避難したからあっちの方がいいけど、こっちに来たら、誰が誰に話しかけても、どこに寄っても、“どうも~”みたいな感じで気軽にしゃべれるし…。将来のことは考えられないよね。お墓がここにあるから、最終的には戻って来るのかな…分からない。とにかく今を楽しく生きる、先のことは分からないです」

年とともに、スタッフが村で見かける人の数も増えている印象です。道の駅には村でとれた野菜も並び、お客さんも見かけます。ハウスで作業する人、草刈りをする人にスタッフが声をかけたり、村に人がいるのは自然になっています。それでも、村に住んでいる村民は全体の2割程度で、実際見かける人の多くは避難先にすでに家を構え、村まで通っている人です。避難が長引くほど、人々には生活の安定が不可欠になります。そのため必要に迫られて避難先に家を構えるのですが、暮らしてみると、買い物や医療環境は村よりはるかに便利で、その安心感が膨らんでいきます。
一方で、村の空気や自然に癒され、村の知り合いと過ごす時間が何よりの支え、ストレス解消になるのも、皆が経験することです。結果、都市部で生活の安心を得て、心の充実は村に通って得るという生活が、多くの村民の現状になりました。自然と言えば、自然な話です。

 

 続いて、村に帰還した方々に話を聞きました。村の北部・前田(まえだ)地区では、40代の専業農家の男性と出会いました。両親と帰村し、去年から稲作を再開しています。原発事故後、農家の多くはコメ作りをやめました。地区で再開したのは3軒だけで、協力しながら、自分以外の田んぼも耕しています。省力化するため、田植えをやめて、種もみを田んぼに直播きする栽培法に取り組んでいます。

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 「大変といえば大変ですけど、田んぼを放っておくわけにもいかないですしね。やらなきゃ何も始まらないし。農家の人が田んぼや畑をやっている、子どもの頃からずっとその環境だったので、(周囲に人がいない)この環境が寂しいなと…。できれば、皆さんに戻って来てほしいと思います。いま農家は、チャンスと言ったらチャンスなんです。土地は空いているので、いい場所だけ借りられますから。補助金とかも今は出ますしね。若い人たちが一緒にやってもらって、技術とかも引き継いでいってほしいです。私一人だと、このまま途絶えていくような感じになっちゃうので」

 また、役場から車で10分ほどの小宮(こみや)地区では、庭の手入れが行き届いた家を見つけて訪ねてみると、6年前、一時帰宅している際に出会った60代の男性の家でした。当時、経営していた縫製会社は廃業し、南相馬(みなみそうま)市に避難していました。趣味はガーデニングで、原発事故前は自宅の庭も開放していましたが、その庭も荒れたままでした。私たちには、こう言っていました。

 「都会から庭を見に来る人も結構いたので、その人たちとつながりを持って、お茶会とかいろいろやって楽しんでいたんですけど、残念ながらもうできなくなってしまって、寂しいですね」

 あれから6年…。男性は2年前に夫婦で帰村し、ガーデニングも再開しました。ふた月に1度は、孫が遊びに来るそうです。多くの人に村を訪れてもらい、花を通して交流しようと、一般開放している個人の庭(20数軒)のマップも作りました。地区の民生委員も務め、村のために活動しています。

5月25日放送「福島県 飯舘村」

 「自分が生きている限り、1人でも飯舘村に興味を持ってもらって、将来、飯舘村に来て生活をできるような環境をつくらなくちゃだめかなと、いつも思っています。花は人を喜ばせることができるものだと、いつも感じています。自分たちの力で家に戻ってきて、少しずつでも自分の庭をつくりながら花を楽しんで、“自分たちはこうやって頑張っているんだ”いうところを少しでも見せたいですね」

5月25日放送「福島県 飯舘村」

 さらに、中心部から少し離れた関沢(せきざわ)地区で、5年前に出会った夫婦を訪ねました。当時はともに50代で、夫は建設会社に勤めていました。南相馬市のアパートに避難中でしたが、1日おきに自宅を訪れ、残してきた愛犬に餌をやっていました。私たちに、こう言っていました。

 「最初から、息子2人は戻らないって考えだから、後腐れがないのは、ここを更地にしてしまうのが一番だよね。息子らだって、家をこのまま残されても、解体の出費が要るようになってしまうんじゃないかな。この場所をこれからどうしたらいいか、まだ分からないです。」

 あれから5年…。夫婦は自宅を解体し、新たに平屋の家を建て、帰村していました。2人とも還暦を過ぎましたが、ご主人は今も建設会社に勤めているそうです。奥様はこう言いました。

 「前の家をリフォームしたかったんですけど、家を建てるよりお金がかかると言われたので、解体しました。戻ってきたら、何でも自由にできて、ストレス発散もできるから、いいですね。ただ、家は建てたけど、年を取って運転できなくなったら、やっぱり息子のいる南相馬にいくしかないよね。今はいいけど…。お父さんと2人で、この先どうすんの?と、たまに言っています。希望を持っていいんだか、悪いんだかというところです。悔いを残さない程度に頑張って、そのうち答えを見つけます」

 この話は、避難指示が出た自治体に共通する、本質的な課題です。いま村に住む人の6割が65歳以上と言われています。数字は違いますが、他の町も事情は一緒です。いま帰還者の数で一喜一憂しても、戻ったお年寄り達がやがて生活困難になったり、亡くなったりすれば、長期的には“住民がいなくなる日”が来ることも現実味を帯びます。現役世代を増やすため、村では農業に補助金も出していて、面積はかなり少ないものの、コメの作付も増え、野菜や花の栽培、畜産にも取り組めるようになっています。

 国が描く復興は、“帰還者を増やす”という一点ですが、数へのこだわりは本質ではありません。数は少なくても、時間がかかっても、コンスタントに現役世代が帰還する流れを作るのが本質です。村も、帰村の目標人数などは定めず、環境を整備して、いつでも帰ってこられるようにする考えです。

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