キャスター津田より

11月9日放送「福島県 あの声は今」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回の「被災地からの声」は、福島県内で過去に取材した方々の“その後”を特集してお送りします。

 

 はじめに、内陸部の田村(たむら)市都路(みやこじ)地区です。人口約3万6千の田村市は、平成17年に5町村が合併して誕生しました。都路地区には約2千2百人が住んでいて、原発事故の直後、市は独自の判断で地区の全世帯を避難させました。国はその後、都路地区の住民のうち、福島第1原発から20㎞~30㎞に住む人には自主的な避難を求め、20㎞圏内に住む人には避難指示を出しました。ただ、前者の制約は事故から半年ほどでなくなり、後者は2014年4月に避難指示が解除されました。

 避難指示が解除されて1年後の2015年、都路地区で、仲間とともに野菜の直売所を運営している70代の男性と出会いました。定年退職後に農業を始めたそうで、震災翌年に避難先から自宅に戻り、30アールの田畑で野菜を育て、検査で安全性を確認しながら販売していました。当時はこう言いました。

 「直売所は元気の源です。避難している人たちが戻ってきて、農産物を作付けして、それによって収入を得て元気になること、直売所が憩いの場になることを考えています」

 あれから4年…。男性は、自宅の前に無人の直売スタンドまで設置していました。仲間7人が作物を持ち寄ってボックスに入れ、近所の人や通りかかった車のドライバーが、硬貨を入れて買って行きます

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 「農産物を作るということは、耕作者どうしの話し合いができる、コミュニケーションも保てるということです。老後どうしても孤立しがちですので、孤立しない一つの方法かなと考えています。お客さんが、“これはいいね”って買ってくれるんです。農地が荒れないように、小さな農地でも耕して、いい農産物を作って、楽しい時間を過ごしたいと考えています」

 同じく2015年に会った方で、都路町商工会の30代の男性職員は、当時、地元産の卵を使ったプリンの製造・販売に力を入れていました。地元農産物を使った産業創出と、都路地区での雇用創出を目的に商工会が始めた取り組みで、男性は試食会なども開き、PRに懸命でした。4年ぶりに男性と連絡を取ると、商工会が運営している国道沿いの菓子店に来るよう言われました。

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この店は地区で唯一の菓子店で、ショーケースにはプリンがズラリと並んでいました。今では正式に商品化され、都路地区のお土産の定番になっています。従業員4人を地元から採用し、雇用にも貢献しました。全員で商品開発から販売までを行っており、皆さん製菓経験はないものの、楽しく働いていました。最近は、地元の果物を使ったチーズケーキなど、新商品も手がけています。今年で40才を迎えた男性は、こう言いました。

 「あの取材の後すぐ、なんとかオープンすることができました。なかなか経営的にも厳しいんですけど、本当に地域の方々に応援していただいて、なんとかやっております。いま地域の方々が、地元を盛り上げようと、いろんな商品の開発だったり、イベントの企画を一生懸命頑張っています。私たちも県内外のイベントに出ていますので そこで被災地からの元気を発信したいと思っております」

 さらに、同じく2015年に会った方で、地区の中心部で住民の交流スペースを運営していた、60代の女性も再び訪ねました。女性は避難指示解除と孫の学校再開に合わせて3世代6人で都路地区に帰還し、すぐに貯金をはたいて実家を改装し、交流スペースをオープンさせました。

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交流スペースはランチを提供する食堂としても営業しており、当時はこう言いました。

 「避難先から戻って来て、寄り合える所…すごい目標を持っていたわけじゃなく、みんなが集まって、楽しんで笑って、おなかいっぱいになって、幸せになってもらえたらいい、それだけなんです」

  あれから4年…。帰還者の増加にあわせ、交流スペースを訪れる人もますます増えていました。カルチャー教室も随時開かれ、手芸教室などは週1回行われています。そこで作った小物や、高齢者が持ってきた大きな木の飾りなど、室内は展示でいっぱいです。経営は赤字だそうですが、最近は高齢者のほか、小中学生も課外授業などで訪れるようになったそうです。

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 「“ここに来たらほっとした”という一言が聞けただけでも、よかったなと思いますね。私もいろんな人とお話できますし。中学生から“この都路が大好きで、僕たちがこれから都路を守っていきます”って聞いた時に、“都路もまだまだ大丈夫だ”と思いました。私たちも、お手本になるよう頑張らなきゃいけないと思います。都路は不便で、街に出たいという人もいると思うんです。ただ不便な中にも、“協働”というか、皆さんと力を合わせてやっていける地域なので、都路をつないでいけると思いますね」

 地区内のどこでも居住可能になったのは、今から5年半も前のことです。都路地区は、県内で最も早く避難指示が解除されました。そのため現在、都路地区に住民登録をしている人のうち、8割以上は実際に地区内に住んでいます(残りは今も避難先に居住)。避難指示解除から3年以内の自治体では、1割未満のところもあり、都路地区の数字は突出しています。一方で、同じ都路地区でも福島第1原発から20㎞あるかないかで、精神的賠償を受ける期間が5年以上も違うなど、一部に課題も残ります。

 

 続いて、川俣町(かわまたまち)に行き、以前取材した人を再び訪ねました。川俣町は人口約1万3千で、農業や繊維産業で知られる町です。面積の半分以上は避難指示が出ていない地域ですが、山木屋(やまきや)地区に国の避難指示が出ました。

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山木屋地区はのどかで自然豊かな所でしたが、約1200人が避難を余儀なくされ、その避難指示が解除されたのは2年前、2017年3月のことです。 まず、原発事故の翌年に会った、畜産業の60代の男性と再び連絡を取りました。以前は避難先から一時帰宅していたところを取材しましたが、牛舎は空で、物が散乱していました。

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当時はこう言いました。

 「今まで一貫経営として、繁殖して子を産ませて、飼育まで手がけていたんですけど、原発事故によって、ここでは動物を飼ってはダメだということで、40頭の牛を全部処分いたしました。自分の家族がいなくなるというような心境ですよね。もう一度、牛飼いをしたいです」

 心に大きな穴が開いたような、うつろな表情で話していたあの時から7年…。男性は、2年前に妻と次男の3人で、避難先から帰還していました。畜産業は諦めたそうです。

 「避難して何年も過ぎちゃって、もう高齢になってきたから力もなくなってくるし、牛飼いとなると、私が牛を引くより、牛に引かれるような状態になるから…。やらない方がいいと見切りをつけました」

 男性は震災前、障がいのある次男のため、町内に小規模作業所を設立しました。現在も障がい者施設の運営に携わり、牛舎の跡地にグループホームを建設するという、新たな目標もできたそうです。

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 「被災地にグループホームをつくりたいです。最高だと思うんですよね。この場所は静かで、自然は豊かで、障がいがあればこそ余計に、自然の豊かな所で生活した方がいいと思っています。施設の職員の雇用も生まれますよね。保護者も利用者も出入りするし、賑やかになると思います」

 また、3年前に訪れた、80代と70代の老夫婦の家にも行ってみました。山木屋地区の中心部で、菓子と日用品を扱う店を50年近く営んできた方々で、避難先から帰宅している時に出会いました。

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棚には、お祝い用の菓子を作る木型が整然と並んでいましたが、体力も衰えたため、避難を機に閉店し、菓子作りを断念したそうです。避難している町営住宅の生活も慣れず、当時はこう言いました。

 「ふるさとに1日でも早く帰って来たいです。商売は無理でも、家は明日にでも帰れる状態にしてあります。避難した時から、いつかは帰れるという希望をもって、俺は帰るんだという気持ちでいました」

 今回3年ぶりに訪ねると、2人は願いどおりに帰還し、作業場だった部分も改築して、新しい部屋までつくっていました。自宅に戻ったのは2年前で、ご主人はこう言いました。

 「アパート暮らしと全然違うから、いいよね、のんびりして。やっぱり一番落ち着くね。これまで商売やっていたし、本当にどこにも出かけることがなかったから、のんびりと休んでみたいし、一泊くらい、温泉に行くのを楽しみにしているところです。健康に気をつけて過したいと思います」

 奥様も、“食事に気をつけて、1日でも多く長生きしなくちゃ。じいちゃんと二人でね”と笑いました。

 山木屋地区では、地区ぐるみで、アンスリウムなどの観葉植物や在来種のソバなどを栽培しています。日用品店や食堂が入る施設、郵便局、診療所もそろいました。一方で、地区の人口は震災前の3割未満で、60歳以上が大多数を占めています。去年春に地元で授業を再開した小学校は、わずか1年で児童がゼロになり、休校になりました。中学校は、いま生徒が4人です。要はそれだけ子育て中の若い世代が少なく、それでも山木屋の火を消すまいと生きる人々の姿は、とても尊いものに見えます。

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