キャスター津田より

9月8日放送「福島県 浪江町」

このたびの北海道の大地震で犠牲になられた方々のご冥福を謹んでお祈りしますとともに、被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。同様の経験をした東北の人間の一人として、1日も早い復旧・復興をお祈りいたします。

 

今回は、福島県浪江町(なみえまち)です。

9月8日放送「福島県 浪江町」

人口は17000あまり、原発事故で全町民が町の外に避難しました。去年3月末、震災前の人口の7割以上が住む地域で避難指示が解除され、現在町内に住むのは800人ほど、住民登録している人の4.5%に過ぎません。

9月8日放送「福島県 浪江町」

去年、町内に災害公営住宅が完成し、新しい診療所も始まりました。コメも出荷されていて、この春には、認定子ども園や小中学校(=児童・生徒10人)が町内で始まり、世界最大級の水素の製造拠点を目指して、産業団地の造成も始まりました。

 

現在、町で見かける人のほとんどは、避難先から通っている方々です。農業体験が行われていた町内の畑では、60代の農家の女性が、関東の大学生などに畑仕事を教えていました。自宅は帰還困難区域にあり、町から70キロ離れた福島市に避難中です。以前は酪農を営んでいましたが、原発事故のため廃業しました。現在は畑を借り、去年から、夫婦で“エゴマ”を栽培しています。実を絞って油に加工していますが、町の土産物店などでは大変好評だそうです。

9月8日放送「福島県 浪江町」

「飼っていた牛が殺処分されたことに、もう、すごく主人が傷ついて…。私が主人を助けなければ誰が助けるの?って、農園を立ち上げよう、帰れないんだったら、浪江の町で、解除された所で何か作りたいって思ったんです。家ではエゴマを作り続けてきて、ノウハウも教えられてきたので、この技術を後世に伝えたいです。とにかく浪江の町民一人一人が元気になってほしいというのが私の思いです」

 

また、去年町内に完成した災害公営住宅では、早朝、新聞配達をする人の姿がありました。

9月8日放送「福島県 浪江町」

80年続く新聞店の3代目で、30代の男性です。避難先の南相馬市(みなみそうまし)で暮らしていて、毎朝町まで通っています。新聞社からの支援も頼りに、去年1月、町内の新聞配達を再開しました。震災前は3200軒に配達していましたが、今は150軒だそうです。妻と1歳の娘とともに浪江町で暮らすのが夢ですが、買い物できるスーパーすらない中で小さな子を育てるのは難しく、戻って来られないそうです。

「最初はもう、新聞屋って廃業だと思っていたので…。当たり前に新聞が届くのがうれしいって喜ばれて、感慨深かったですね。震災前と範囲はほぼ変わらないので、1人で回ると時間がすごくかかります。でも、いくら求人を出しても全然人は来ないですね。何事も前向きに、いつか復興していくんだという希望を常に持っていたいです。普通の暮らしがしたいんですよ。普通にスーパーがあって、日用品もそろって、子供を学校に通わせて、何気ない普通の生活がしたい…それだけですね、私の希望としては」

 

その後、駅の隣のスポーツセンターに行くと、“ダンベル体操”の交流会が行われていました。

9月8日放送「福島県 浪江町」

高齢者の健康維持のため、町ぐるみで長年取り組んできた独自の体操で、震災後、町は県内6カ所で教室を開いてきました。交流会では、各地に避難する町民など約200人が集まり、汗を流しました。ある70代の夫婦は、浪江町の自宅を解体し、おととし南相馬市に家を新築したそうです。ご主人はこう言いました。

「埼玉に避難していた時、ほとんど動かないので、立つのも大変だったんだよね。せいぜい1日2千歩か3千歩しか歩かなかったから。それが、こういう体操でかなり体を動かすようになったので、体調もよくなりました。浪江町民か、南相馬市民か…まあ、今は浪江町民という意識のほうが強いかな。生まれ育った場所なので、人生の1ページとして大事ですよ。ただ、切り替えなきゃならないと思っています。いつまでも浪江、浪江って、固執はできないと思います。自分が今いる所を起点に、近所づきあいから何からやっていかないと、本当の自分たちの生活はできないと思います」

 

さらに、避難先に居を構えた人を訪ねて、町から車で1時間のいわき市に行きました。国指定の伝統的工芸品でもある浪江町伝統の陶器“大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)”の工房を訪ねると、60代の男性が話をしてくれました。

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焼き物の産地・大堀地区は、帰還困難区域です。男性は、江戸時代から260年続く窯元の当主で、小さなガス窯を設置したいわき市の仮工房で制作を続けてきました。

9月8日放送「福島県 浪江町」

9月8日放送「福島県 浪江町」

去年、全長10メートルの登り窯を再建しましたが、賠償金だけでは足りず、多額の借金も背負ったそうです。

9月8日放送「福島県 浪江町」

「登り窯は、私のこだわりでどうしても作りたかった…ずっと先祖代々やってきたものですから、継承したいという思いが強かったんです。仮工房のガス窯と違って、この登り窯は動かしようがないでしょう。これを作ったということは、もう最終地点、終の住みかということです。ふるさとに対する思い、帰りたい思い、悶々とした思い、当然それはあるわけですよ。でも、それを重点的に思っていたのでは、再起にならない…。それより早く設備を整えて、しっかりした仕事をしたい、ものを作りたい、そっちがはるかに上だったということだよね。この道を志して、ずっとやってきて、商売だけじゃなく、ものを作ることに喜びを感じているから、もっと技術と感性を高めて、もっともっといいものを作りたい…」

避難指示の解除まで丸6年。仮の生活を続けるより、避難先で新たな住まいや仕事を持ち、そこに住むほうが自然な流れかもしれません。いま町では、“どこに住んでも浪江町民”というスローガンのもと、散り散りになった町民をもらさずサポートする方針を掲げています。町民の相談に乗る復興支援員の事務所を、町外の4つの市、さらに県外(宮城県と東京)にも置いています。どこにいても町とつながり、町民同士の絆も維持するため、町のニュースや話題をネットやスマホで見たり、配布したタブレット端末では動画で見ることもできます。現在は、避難先の自治体に住民登録していなくても、そこで行政サービスは受けられます。その分の費用は、国が避難先の自治体に支払っています。国はこの措置をいつまで続けるか示していませんが、であれば、福島の今後の自治体の形をどうするのか、議論すべきです。

 

さて、数少ないとはいえ、町内に住む人に全く会えないわけではありません。役場近くにある創業100年の種苗店を訪ねてみると、70代の男性店主が応対してくれました。実はこの男性、2年前にも取材していて、当時は避難指示が続く町で、自主的にパトロールをしていました。二本松市(にほんまつし)で避難生活を続けながら 月の半分以上は自宅に泊まっていました。当時は、こう言っていました。

「誰かが住まないと、パトロールはできないんで…。みんなに“浪江って、こうやって住めるんだよ”っていうことを発信するような そういう役目もあるんじゃないかなと思います。頑張ります…」

あれから2年経ち、男性は今、町に住んでいます。去年の避難指示解除後、町内で最も早く帰還したそうです。営業は再開していませんが、町民が立ち寄ってお茶でも飲める場にしようと、店は常に開けています。帰還者を対象にした町の様々な集まりにも、男性は積極的に関わっています。

「避難が長くなっても必ず浪江に戻るっていう気だったので…。復興って元に戻ることじゃなくて、住めるだけで十分だと思っているんです。戻ってきた皆さんはまず、浪江は空気が違うよねって言うけど、違うんだよね、肌で感じる季節っていうか…。覚悟してここに来たので、楽しみながら生活して、元通りではないけれど、その日その日の、今の浪江が好きっていうか、今の瞬間を楽しんでいます」

 

また、 3日後に開店するという居酒屋を見つけて訪ねると、店主の30代の男性は、最後の内装工事に取りかかっていました。今年6月から、町内のアパートで暮らしているそうです。この店を営んでいた両親は、避難先の二本松市で店を再開し、男性も一緒に働いていました。しかし、男性は独立して浪江町での再開を決断し、銀行から融資を受けたそうです。その額は少なくありませんが、町に通って働く人などを念頭に、ランチ営業にも力を入れたいと言います。近所で帰還している家は、1軒だけでした。

「帰ってきている住民も多いわけではないので、それは不安しかないですよ。でも、店をやることによって住民の方が帰って来てくれるのであれば、始めたいなっていうのが先なので…。祖父と祖母も浪江の人間で、郡山(こおりやま)にいるんですけど、帰って来たいって思いを抱えて、この店が完成するのを見たいって言いながら祖父は亡くなって…間に合わなかったんですよね。それもあって、“頑張らなきゃ”って思います。学生時代は、口うるさいと思いながらも、通れば近所の方が声をかけてくれて、すごくあったかい所で、一人じゃないっていう気持ちになれましたし、本当にこの町が好きなんです」

町の商工会に所属する約600の事業所のうち、昨年度末で、半数近くが事業を再開しています。しかし、その85%以上は町外で再出発しています。町内での事業再開への支援は、公的支援も含め、町を存続させる重要な鍵になりそうです。

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