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お寄せいただいたメッセージをご紹介しています

福島市 ねむねむさん 19歳 女性
あの日から12年はあっという間だったと感じます。当時は小学1年生で、これからどんな楽しみが待っているのかずっと友達と考えていたのに。あの時に一瞬にしてすべてが崩れ、親友だった友達が他県へ避難していなくなってしまったあの日々はもう来てほしくないです。あのときから海に行くのが近づくのが今でもダメなのです。一度克服したかと思えば、今度はいけない。そんな事が続いています。今は福島市に住んでいますが、こっちに来ると「内陸だから安心」というのが頭をよぎります。町を見渡しても、みんな震災を忘れたかのような印象が大きいです。私自身も言えませんが、記憶が薄れつつあります。だからこそ、あの時の記憶と語り部活動・防災グループでの活動にあの時の経験を活かしながら、前を向いて進んでいます。
山形県天童市 マイマイキュートさん 50代
当時、仙台で仕事をしておりました。職場の給湯室にある冷蔵庫が、滑るように部屋中を移動していたことを覚えています。家族や親戚の中で、被害の大きな場所にいたのは、私だけ。 直接その震災を目にした人、そうでない人との差をどう埋めるか、を考えなければいけないと感じています。
福岡市 匿名希望 50代 女性
「津田さんお変わりないなあ」、「あ、いつの間にかオープニング曲が変わってる」などと思ったりしつつ、3月になるとこの番組の全国放送を見ている者です(NHKプラスもできたことですし、当地でも月一回くらい見られたらいいのですが)。それぞれの人が考える「復興」とは何なのか、人々の思いの変化とは、などわかりやすく拝見できました。自分にも未だ答えは出せないのです。けれどこの番組は考え続けるよすがになっています。この12年の膨大なインタビューの中から大変なご苦労だったと思います。ありがとうございます。 「孫たちに笑われないように生きる」ご夫婦のことや、窯を閉じるというあのつらい選択を「12年たった今」行わなければならない方がいらっしゃるということをしっかり覚えておこうと思います
福島県楢葉町 吉田幸恵さん 40代 女性
震災前は大熊町に住んでいました。震災、原発事故で避難した約2年後に、避難先で歩行中に車にはねられ、身体に後遺障害が残り現在障害者手帳4級です。今も通院治療が続いています。これまで、人生を終わりにしたいと思った事は何度もあります。しかし、父は震災後に認知症を発症。母も闘病中。事故当時まだ小学生だった子共たちを残して死ねる訳もなく、かと言って障害者になってしまった自分に出来る事はごく僅か。正直、当時の私は人生に希望はありませんでした。そんな状態が数年間続きました。 そんな私を諦めずに、側で見守ってくれていたのが今の主人です。主人とは事故後に再婚しました。何も出来ない私をフォローする。子共たちを守る為に籍を入れようと言ってくれたのは主人です。励ますでもなく、叱るでもなく、ただ側にいてくれた。私に何かあれば職場から自宅まで2時間かかる距離を急いで帰ってくる。朝も暗い内に出勤して夜遅くに帰ってくる生活を約6年、続けてくれました。私は一時期、精神科に入院するほど病んでいましたが、その時も1人、家を守ってくれていました。 2019年夏に楢葉町に越して来た時も、私の「帰りたい」という思いに応えて、しかしながら、未だ帰還困難区域の自宅。せめて近くにと今の場所に引っ越しを快諾してくれました。 ここに来て、日々を緩やかに穏やかに過ごせるようになってから、体調も回復して今では仕事に復帰出来るまでになりました。その仕事も、主人が一緒に働いてくれているから出来ています。 11年前、避難の時は「私がなんとかして家族を守らなければ」との思いでがむしゃらに働いていましたが、その後の事故で思いが切れてしまった時、主人が私を支えるという道を選んでくれなかったら今の生活はなかったと思っています。主人に感謝しています。それから、事故で意識不明の重体の時、私の所にやって来て、無言ながら私にはわかる様に「戻れ」と伝えに来てくれた、大好きだった亡き祖父にも感謝しています。あの時、じいちゃんが来てくれなかったら私は死んでいたと思います。 私を救ってくれたじいちゃんとダンナさんに、心から感謝しています。
東京渋谷区 小池アミイゴさん 50代
今番組を見ていて「復興とは何?」が問われていましたが、私が被災地で感じたり、土地の人と語りあって掴んだ復興は「もし自分と似た状況に置かれた人に出会った時、自然と手を差し伸べることの出来る力を得た時」ではないかと。それは被災者と呼ばれる人を放って置いて得られるものでは無く、今からでも遅く無く、今まで以上のコミュニケーションを被災の地に生んで行く必要があると思います。 そう考えた際、被災の反対側で無力を感じた人も、今から出来ることはたくさんあると考えています。
東京都 佐藤さん 40代 男性
テレビ番組へ初投稿。今年、20年以上暮らした実家から出る自分と重ねて観た。住み慣れた故郷から強制的に離され暮らす避難者の悔しさ、失望、諦め、無力感が想像できた。移住先が快適でも故郷に勝る場所など無いと思う。景色も音も人も違う。故郷で余生を送るはずだった被害者の無念さ、家を解体できない気持ちを思うと加害者に腹が立つ。無駄なく良い番組。また観たいし、観ておきたい。
神奈川県海老名市 タッシーさん 50代 男性
私は、東日本大震災の当日は、東北にいなかったのですが、陸前高田の街は、平成二年七月に父の仕事の転勤で住んで以来、ずっと深くお付き合いしてきました。母親が転勤でここを気に入り、陸前高田に田舎をつくりまして、それ以降、母と父は、療養で半年に一度、高田と東京を往復する生活をしています。私は、仕事の休みのたびに夜行バスで、池袋駅西口から陸前高田まで、移動して年に二回、かえっていました。高田の街は特別な思いがあふれるもので、街に帰ると、あの風景と、あの街、あの海、高校卒業して浪人中の時に私の心を癒やしてくれたのは陸前高田、大船渡、気仙沼などの三陸の自然でした。これからもずっと、自分の出来る範囲内で、三陸を応援したいと思います。それではまた。