県南を走っていた"軽便鉄道"の歴史を調べてほしい!
今回のみやぎUP-DATEでは、こちらの投稿にお応えします!
蔵王・遠刈田~村田~大河原を通っていた「仙南温泉軌道」
投稿された方は75歳で、「90歳くらいの方じゃないと詳しいことが分からないのではないか」とのことでした。
みんなにも知ってもらいたいという思いで投稿してくださったそうです。
軽便鉄道って?
軽便鉄道とは、レールの幅が狭いなど小規模な鉄道の総称です。
大正から昭和初期にかけて日本各地で作られました。
村田町へ!
手がかりがあると聞きジャス隊がやってきたのは、村田町にある「村田町歴史みらい館」
ここでは村田町の歴史や文化を紹介しています。
隊員 「館内はとても広々としていて綺麗ですね! 村田町は“蔵の町”ということもあって、当時の商店が再現されています。 あ、ありました!軽便鉄道の写真です。」 |
県の南部を走っていた軽便鉄道の写真です。
大正7年から昭和12年まで走っていたと記されています。
館長の石黒 伸一朗さんにお話を伺いました。
石黒さん 「もともとは遠刈田から永野というところまで馬車鉄道があったんです。 そのあとに蒸気機関車に替えて仙南軌道というのがまず走りました。」 |
石黒さん 「そして大河原から沼辺~村田を経由して城南軌道という別の会社ができたんですね。 その2つを合併して仙南温泉軌道という軽便鉄道が走っていました。」 |
仙南温泉軌道が走っていたところは、もともとは別の短い2つの鉄道が走っていたんですね。
遠刈田温泉や青根温泉へ湯治に向かう人や、登山客も運んだといわれているそうです。
さらに、村田から白石市の高校に通う学生も利用していたといいます。
初公開の資料も!
みらい館で集めた、公開していなかった資料も特別に見せていただきました。
当時使われていた切符です。
大河原から村田まで20銭。
米一升が12銭ほどだったそうなので、高額な運賃であったことがうかがえます。
そしてこちらは当時輸入されていたフランス製のムービーカメラです!
このカメラで撮影された軽便鉄道の動画が残っていました。
さらに!
貴重な音声もありました。
仙南温泉軌道の元社員・福田 忠吉(ちゅうきち)さんが、平成2年に町内放送用として軽便鉄道の歴史を語っているテープが残っていました。
福田さんは、軽便鉄道ができた当時のことをこのように話していました。
福田さん 「当時でいうと交通機関といえるものは、馬、馬車、人力車、そういう交通機関だったわけですね。 そこに小さくても鉄道が敷かれるとなると大変な文明開化ですね。 そんなことで軽便が開通したわけですから、大した賑わいだったんです。」 |
見せていただいたものは、どれも当時の温かみを残しているように感じました。
その時の人々の暮らしを垣間見ることができる貴重な資料です。
福田さんはインタビューで、「鉄道唱歌」の替え歌も披露していました。
自身で作詞したそうで、軽便鉄道が走っていたころの風景を歌詞に盛り込んであります。
軽便鉄道からバスへ
県南の文明開化の象徴として走った軽便鉄道でしたが、急速に進んだ道路整備とバスの普及で昭和12年に廃線となりました。
その後、仙南温泉軌道はバス運行にシフト。
以前調査した秋保電鉄などとも合併し、いまある宮城交通の母体の一つになったそうです。
線路の跡地が空き地として残っているところもあるのですが、鉄道廃止から80年以上経ち、当時の面影を残す場所は少なくなっています。
安藤のひとこと。
安藤さん 「それぞれ鉄道に対して色んな思い出があると思うんですけれども、そうした一人一人の思い出を集めて残して語り継いでいく、そして地域全体の貴重な記憶の財産にしていくことが大切だと感じました。」 |
編集後記
ディレクターが手がかりを求めて調査をしているときに、たまたま出会った村田町歴史みらい館の展示パネル。
詳細を館長さんに尋ねたところ、まだ展示していないたくさんの資料を見せていただけることになり、今回の企画ができました。
お話を聞いているうちに、物として残っている資料以外にも語り継がれた記憶そのものが「生きた資料」として、のちに大きな財産になるんだと感じました。
そして、取材を通じて人の声を直接聞き、まとめることで、私も様々な人や地域の歴史を残すことに貢献できればいいなと感じました。
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