防災の輪 広げたい

東日本大震災から10年9か月が経ちました。被災地でも震災を知らない世代が増えるなど、記憶の風化が懸念されています。そうした中、身近な形で教訓を語り継ごうと活動する東松島市の女性がいました。
彼女の原動力は何なのか、活動を通して見つめました。

(記者 藤家亜里紗)

【専業主婦 なぜ語り部に?】

211222_bousai01.png
震災語り部の1人、山縣嘉恵さん。
仙台出身で結婚を機に東松島市に引っ越してからは、いわゆる“専業主婦”です。
夫と息子、義理の母親と4人で、海の近くの穏やかな場所で暮らしていました。
そんな山縣さんの暮らしを変えたのが、東日本大震災でした。

211222_bousai02.png

山縣さんは、当時とった避難行動を、とても後悔しているといいます。

揺れのあと、義理の母親と息子と一緒に避難を試みました。避難場所になっていた小学校の体育館に向かいましたが、人がいっぱいで入れません。目の前に3階建ての校舎や高台があったのに、そこには向かおうとせず、校庭で待機していました。すると・・・。

『津波来てるから学校へ逃げて!』後ろにいた男の人が叫びました。山縣さんが振り返ると、すでに黒い泥水が自分のほうに迫ってきていました。間一髪で校舎の3階に駆け上がり、家族も無事でした。しかし、津波が迫る直前まで、より高いところへ向かおうとしなかった自分の行動を、反省したといいます。


【“安全なところに住む” それで終わりでいいの?】

自宅も津波に流され、山縣さんは塩釜市の賃貸住宅に移り、みなし仮設住宅として生活していました。震災発生から5年後、東松島市の高台に造られた団地に新たな住宅を建て、引っ越そうかというころ、山縣さんの頭の中に、あの日の行動が思い浮かんだといいます。

211222_bousai03.png

“私があのときした避難行動は褒められるものじゃない。逆に反省ばかり。高台に住んで、安全になる。でもそれで終わりでいいのかな?”

そんなとき、知人が防災士の資格を取らないかと誘ってくれました。震災を体験した1人として、次の災害への備えを呼びかけたい。
山縣さんは講座に参加し、資格を取りました。


【動き出した山縣さん 防災伝え始める】
211222_bousai05.png

防災士となった山縣さんは、命を守る呼びかけを積極的にするようになりました。
そのきっかけとなったのが、国際交流です。その頃、東松島市ではスマトラ沖の大津波で大きな被害を受けたインドネシアとの交流が盛んで、山縣さんも実際に訪問しました。そこで、子どもたちが“防災の歌”を歌っているのを耳にしました。現地で伝わる童謡にのせて、災害が起こったときにとるべき行動を口ずさんでいたのです。この歌に感動した山縣さんは、日本版の“防災の歌”を作詞しました。

211222_bousai06.png

“もしじしんがおこったらね あたまをまもりましょう つなみのよほうのときは たかだいへひなんしよう”
“つなみはなんどもくるよ うみ・かわからはなれてね”
震災から6年後、新しい高台の団地で開かれたイベントで、山縣さんはこの歌を歌いました。

【新たなチャレンジ 嬉しい仲間も】
211222_bousai07.png

そしてことし。山縣さんは、防災の歌を歌うバンドのメンバーなどと防災活動を行う市民グループを立ち上げました。グループには、嬉しい仲間も加わりました。

211222_bousai08.png

あの日、一緒に避難した息子の健人さん。ことし20歳になり、活動を手伝ってくれています。

“津波を経験していない人たちに、ありのままに伝えていくことが大事。積極的に話せるようにしていきたい”(健人さん)

山縣さんに、今後の活動の意気込みを聞きました。

“10年とか、節目とかも大事だと思います。ただ、常に何かずっと当たり前のように(活動を)続けていくのも、誰かの所に響くかなって思います。ゆるくながく、持続可能な形でやっていきたい”

1000年に1度とも言われる大津波に備えるため、“ゆるく、ながい”防災活動は続きます。


 

211222_bousai09.png藤家亜里紗(平成31年入局)
2年余の事件担当を経て
11月から石巻支局
震災・水産業・地域の話題を
カメラを手に全力で追いかけます