優しい人が優しいまま生きられる世の中に~全国自死遺族連絡会代表理事 田中幸子さん~【丹沢研二】

仙台市に住む田中幸子(たなか・さちこ)さんは2005年11月、警察官だった長男を自死で亡くしました。深い悲しみを抱えるなか、気持ちを分かち合えるのは同じような体験をした遺族だけでした。いま田中さんは、自死や災害で家族を亡くした人同士が支え合う「相互支援」の活動を続けています。
私(丹沢)は東日本大震災で家族を亡くした方の取材を続ける中で、複数人から「田中さんに救われた」というお話を伺いました。田中さんの考え方や活動の原点を深く知りたいと思い、インタビューしました。悲しみとともに生きる方に読んでいただきたいお話です。

(取材:仙台放送局アナウンサー 丹沢 研二)

 

遺族が遺族を支える「相互支援」とは?

丹沢)まず全国自死遺族連絡会。文字通り自死によって家族を亡くされた方をつなぐような役割ということでしょうか?

田中)そうですね。自死遺族による自死遺族のためのネットワーク。相互支援をしていくためのネットワーク。法律の専門家や心、精神の専門家などによるネットワークもその周りに作ったという所ですね。

丹沢)ふだんはどういう活動をされているんですか?

田中)簡単に言うと、電話を24時間365日、携帯2台と自宅の電話を公開して受けています。その他にホームページからの問合せ。それをまず受けて、「今とにかく悲しいんだ」という場合は私も当事者なのでまず気持ちを聞いて、近くに会があれば会をお勧めしたり、私で良ければ近くの方でしたら会ったりということもします。その上で、学校の問題での子どもの自死とか、ご主人や奥さんが働きながら亡くなった場合の労災申請とか、賃貸物件で自死で亡くなるといわゆる事故物件としての賠償金請求とかも出てきますので、そういうお話をお聞きしながら、それぞれの専門家につないでいくということもしています。

丹沢)そういうサポートをするのはたとえば法律の専門家などですね。ただ田中さんの活動では「相互支援」、遺族同士が支え合うところが大きいわけですね?

田中)そうですね。悲しい気持ちというのはやはり遺族同士でなければ分かり得ないっていうふうに思います。そして遺族でも、子どもを亡くした親の気持ちはやはり子どもを亡くした親でなければ分かり得ないっていうのもありますし、ご主人亡くされた方の気持ちはご主人亡くされた人同士じゃないと理解し合えないという所があるので、そういう意味では「同じ思いをした遺族同士の分かち合い」ということが基本となりますね。

丹沢)そういう分かち合いの「会」がいくつかあるわけですね。

田中)そうですね。全国に沢山あります。沖縄から北海道まであって、それでも自分の住んでいる所にない場合もあるので、今はオンラインでの分かち合いもありますし。メールとかですね、そういうもので24時間つながるようにしています。
辛い気持ちって、月曜日から金曜日までの平日9時から5時までで終わらないんですよね。ある日突然バーッと来ることもある。その時にたとえば電話でなくても「今つらいんだけど」とか「死にたくなっちゃった」とか簡単にメールとか出来て、その時私が寝ていたとしてもその音で起きて「私も同じだよ。起きてたよ」とか一言返すだけでもつながっている感じがあるじゃないですかね。自分ですっごいしんどかった時に色んな所に相談電話をしたんですね。その時につながらないほど苦しいものはないんですよ。「ちょっとお待ちください」って言われて何日も返事が来なかったつらさがあるんですね。自分の経験から、せっかく勇気を振り絞ってつながった人は大切にしようと。だから今も私につながる遺族が多いですけど、他の遺族に沢山支えてもらっています。一人だとすごく負担が大きくなるので、複数人の遺族を紹介するんですね。そこで支えてもらう。それぞれが出来ることをしてもらうってことをしています。そのためのネットワークです。

 

疲れたりすることはまずないです

丹沢)ご自身の携帯電話の番号もHPに挙がっていましたけど、まさに今お話している最中でもかかってくるかもしれない。

田中)その通りです。自宅の電話は番号通知にしてかけ直しをすることにしています。

丹沢)その電話がご家族を自死で亡くされたという、一つ一つが深刻で重い相談ですよね。

田中)そうですね。一人一人違いますし、色んな気持ちがありますので、まずそれを聴くという所から始まりますね。長い時は電話で7時間とか8時間。一人の人と。朝電話かかってきて夕方までずっと聞いているっていうこともあります。

丹沢)7時間か8時間。体力もそうですけど精神面も大変じゃないですか?

田中)まあまあ。でも私も当事者なので、疲れたりすることはまずないです。

丹沢)疲れない?

田中)疲れないですね。私自身は息子を亡くしている当事者なので。ものすごく誤解を招くような言い方で申し訳ないけど、私自身にとっては私の悲しみが一番重たく深いので、人の話を聞くことは全く問題ないですね。

丹沢)自分自身の悲しみもあるからこそ相談してきた方の悲しみを客観的に見られる?

田中)変な話ですけどね。客観的に見られるし、しんどくはならないです。毎日がそれよりも重たい気持ちを抱えながら生きているので。それは大丈夫ですね。

 

高校生3人が亡くなった交通事故、そして息子の死

丹沢)いま手元に2005年5月22日の原稿があります。私はこのころ仙台局にいまして、このニュースを読んだ記憶があります。
「けさ早く、宮城県多賀城市の国道で、酒気帯び運転の四輪駆動車が横断歩道を渡っていた高校生の列に信号を無視して突っ込み、3人が死亡、22人がけがをしました」
これが田中さんが当事者になる引き金になった出来事だったんですね。

田中)そうですね。息子が宮城県の警察官で、当時その事故の担当係長っていう任務をしていましたので、それは今でも毎年思い出されますね。

丹沢)改めてそのことを教えていただいてもよろしいですか?

田中)私たちは仙台で、息子は結婚して多賀城の官舎に住んでいました。その日に事故があって、早朝の事故だったので朝早くから事故の現場に行き、そこから一日も休むことなく。自宅療養という形を10月にとったんですけども、5月の事故から10月。それまで一日も休まず働き続け、日曜祭日関係なく。当時息子は交通課初めてで4月に初めての勤務。塩釜警察署に転勤し、5月の事故だったっていう。

丹沢)まだ仕事にもあまり慣れていない所で。仕事は何人かで分担して?

田中)それはあったと思いますけど、亡くなったあとに聞いたんですけど、対策本部は立てなかったということがあります。対策本部を立てると県警本部から応援が来るんですけど、当時はそれをせずに塩釜警察署だけで対策を立てたので、当時係長だったので係長クラスが一生懸命働くってことになるのかなと思います。

丹沢)それでずっと休みなく5月の事故から10月まで働いて…。

田中)はい。自宅療養。気持ちが壊れていったっていう。救急車とかパトカーの音で、夜中寝ていても飛び起きるようになってしまって。熟睡できないですよね。そして玄関一歩出るのもなかなか足が踏み出せないような状態になって、無理やり気持ちを引きずるように勤務していたって聞いています。その当時、そんなに大変だったら部下に仕事を割り振りしたらいいんじゃないかというアドバイスもしました。息子は非常にまじめな性格だもんで、「俺の担当の仕事だから俺でいいんだよ」って。「他の人たちも沢山仕事を抱えているから俺がやるしかない」とは言っていましたけどね。
それから頻繁に電話したりメールしたりしていたんですけども、結婚して子どももいましたのであまり立ち入ってはいけないと、連絡をあまり取らないように気をつけてはいたんですね。そうしたらある日突然警察から電話が来て「息子さん亡くなりました」って言う話でしたね。11月16日の夜ですね。9時半過ぎぐらいだったと思いますけど。突然の電話でしたね。

丹沢)その電話は誰が取られたんですか?

田中)主人が取りましたね。「死んだ」って言われた時に主人が絶句しているんですよね。そして私自身も何が起きたのか誰が死んだかよく分からないし、一緒に住んでいた次男も飛び起きてきて「誰?」「お兄ちゃん」っていうことになって、それから、仙台の自宅から多賀城の官舎まで車で行くのは危険だと思ったので、タクシー呼んで家族で向かいました。それでも死んだことは全然実感としてはわかない感じでしたけど、「検死しています」って言われて、官舎に入ることを拒絶されたんですね。警察官にね。その時初めて「あ、死んだんだ」って、ひっくり返りましたね。ドーンってひっくり返った記憶がありますね。道路に。

丹沢)あ、それは物理的にひっくり返った。

田中)そうそう。本当にひっくり返ったんですね。道路に。気絶したっていうか失神したっていうか。そこで初めて実感した。「検死」って言葉を聞いた時に。そうなりましたね。

丹沢)実際に対面された時は?

田中)検死の結果、朝方亡くなっていたということだったので、体温などは本当になく、氷以上に冷たい体でした。布団に寝かされていましたし、抱きしめてもどこをさわっても全部氷のように冷たくて、それでもその当時は「自分の温かい血と取り換えれば、温かくなって生き返るんじゃないか」ってことを考え、「取り替えて―!」って叫んでいた気がしますね。血を。自分の体も全部が冷えていくような。亡くなった人の体って冷たいなあって思いましたね。その時は。

丹沢)どうしてそこまで追い込まれてしまったんでしょうか。

田中)後から分かることですけど、メールとかも結構あったりしてその前にも相談はされていたんですが、上司から「お前の仕事だからお前がやれ」と。朝から仕事していると「残業手当ほしいのか」とか言われたとよく言っていたので、自宅療養したあとは。「いや~ひどかったよ」って話をしていましたから。まさかそういうので亡くなるとは思っていないので。はい。

丹沢)当時何歳ですか?

田中)34歳です。

丹沢)34歳。突然遺族という立場にその瞬間になってしまったわけですね。

田中)そうですね。それまでは本当に幸せいっぱいで、このまま永久にこの幸せが続くもんだと思って生きていましたので。

 

僕が死んでもこんなに悲しんでくれるの?

丹沢)長男の亡くなったことをきっかけにガラッと変わって。

田中)そうですね。がらりと変わりました。そして亡くなったあと自分も狂ったようになり、暴れまくり、亡くなった息子のことも罵り、「お前が死んだからこんなに苦しいだ」って仏壇に母の形見の数珠をぶん投げてやったり、本当に一家でボロボロでしたね。
息子は食べない飲まないということをして亡くなったので、母として食べてはいけない、水も飲んではいけない、寝てはいけないとなっていき、そして精神科にも行き、血圧が上がり過ぎて倒れちゃうので安定剤みたいなのももらったんだけど余計暴れ、睡眠薬の強いのを何錠も飲まされバタッと倒れるように寝て、みたいな。うちの主人と次男は私がいつ後追いしてもおかしくないだろうと、年は越せないかもしれないと思っていたみたいで、24時間ほとんど交代で私を見張っていた。トイレ行くのも風呂に行くのも全て。私自身はその当時13キロ痩せました。一気に。

丹沢)ご飯を食べることすらできない?

田中)罪悪感ですね。死んで息子は食べられないのに親の私がご飯食べているなんてっていう。罪の気持ちがあるんですよね。

丹沢)冷静さがなくなってしまって…。

田中)そうですね。それで救いを色んな所に求めて、占いに行ったりカウンセリング受けたり医療にかかったりお寺さんに行ってみたり教会に行ってみたり、とにかくありとあらゆることをしましたね。
その中でいろんな事がありましたけど、次男の一言が非常に大きく、「私にはこの子もいる」って気づかされた一言があって、そこから家族の前では涙は見せないというふうに決めて生き方を変えたというのがあります。次男が毎日毎日朝から晩まで仏壇の前で泣いている私を見て、後ろの方でつぶやいたんですね。「優秀なお兄ちゃんが死んでだめな僕が生き残ってごめんね」って。「僕が死んでもこんなに悲しんでくれるの?」って聞かれたんですよ。それで「あっ!この子も悲しいんだ」って。次男が悲しいってことを忘れてたんですよね。夫に悲しみがあることも忘れてて、私だけが悲しいみたいな気持ちで。周りに気持ちが及ばないんですよね。

丹沢)それで初めて気づかされた。

田中)そうです。この子がいる。この子も悲しい。もちろん悲しいんです。お兄ちゃん亡くなってね。それすら忘れてしまっていた。生きているわが子がいることすら忘れて、一生懸命支えている子どもも夫のこともすっかり忘れていましたね。その時初めて「あっ」って思った。そこからじゃあどう生きていこうかと。この子のためにも亡くなった息子のためにもどうやって生きていったらいいのかっていうことを考えてまた図書館に通い、そんなことをして生き方とか学びたいって色んなことを思いました。

 

遺族の「分かち合いの会」を自ら立ち上げる

田中)2月に福島市でやっている支援者の会があって「違うな」と思ったことがありました。悲しい気持ちにも波があるんですよ。悲しい気持ちはあるんだけど、悲しい気持ちがわいてこない時もあるんですよね。たまたまその時期にあたって参加したんですけど、「悲しいお気持ちをお聞かせください」と言われたんですね。その時に悲しい気持ちを話さないと悪いなと思ったわけです。しゃべっても悲しくないんですね。涙が出てこない日だったんですよ。聴いてくださっている人はわんわん泣いているわけです。そこにすごく違和感を。息子が見世物になっている気がしたんですね。

丹沢)それは相手が当事者ではなかったから?

田中)ないからですね。想像が出来たし。この人は帰れば温かい家庭があって、お子さんもいるっていう自己紹介だったので幸せな人なんだなっていうのが想像できるわけですよ。で、2回目に行った時に遺族同士で合図して、5人ぐらいで会場を出て道路で待ち合わせして福島のファミリーレストランでお茶会したんですよ。その時がすごく居心地が良かったっていうのがあるんです。
それで当事者での分かち合いっていうか集まりをしたいと思って、県にもお願いをしたり市にもお願いをしたりしたんですけど、まだ全然そういう予定はありませんということだったので、自分で手を挙げたら自分の所に集まってくると。とにかく遺族に会いたかった。
自分だけが不幸で孤立しているって感じがあるんですよね。道路歩いていて世間で歩いているとみなさん幸せそうに見えますよね。誰も遺族だって分かるわけじゃないので。「息子亡くして悲しいんです」って言えば親戚の人もとても良くしてくれますけど、ずっとは話せないですよね。やっぱり申し訳ないし。聞きたくもなくなるだろうし。でもずっと気持ちがあって話したい気持ちもあるわけですよね。そういう時にはやっぱり気兼ねなく、周りの目を気にすることなく参加できる会がほしかったんですね。

丹沢)それで仙台に作ることになったと。

田中)そうですね。まずは自分の地元にと思って。

丹沢)この時作ったグループが「藍の会」ですね。この名前はどういう意味?

田中)藍色の藍なんですけど、警察官の息子は警察の仕事に大変誇りを持って働いていたこともあって、警察官の制服の色は藍色なんですね。なので息子と一緒にやる会という意味を込めて「藍の会」ということにしました。

丹沢)ぱっと聞くと自死遺族の会とは分からないような。

田中)分からない方がいいと思っています。今でも藍の会は男女共同参画の施設でやっていますけど、会議室が沢山あると、たとえば俳句の会とかと一緒になることもあるんですね。その時に藍の会だと全然分からないので、「染物の会ですか」って聞かれたりしますけど、「はい」って言ってそれでいいと思っています。参加する人は自死だってことを知られたくない人がほとんどだと思うので、「自死遺族の会」ってなっちゃっていると、なかなか入りづらいんですよね。まあ知る人が知る会であればいいと。

丹沢)実際に開いたのがいつですか?

田中)2006年の7月に第1回でしたね。30人の部屋が34、5人ぐらい集まって、ぎゅうぎゅう詰めの状態で、和室一部屋しかなかったんですけど、二重の輪になってやりましたね。

丹沢)その間は気持ちが楽になっていく所がありましたか?

田中)そうですね。同じ思いをしている人がこんなにいるんだと思うんじゃないですかね。強くつながれた感があるというか、一人じゃないんだってことが非常に大きいですね。

丹沢)田中さんが先ほど次男さんやご主人の悲しみにも気づけなかったとおっしゃっていたけど、自分が悲しいだけじゃなくて家族もそうだったとか、さらにその周りにはこんなにいっぱいいたんだって。そこが見えていくことが。

田中)そうですね。辛い時とか突然おそって来る悲しみがあったりもしますけど、その時に「あの人も頑張っている。この人も私と同じ思いで生きている」と思うと、沢山話さなくても「いる」ってだけで、昔からの家族みたいな感じになりますね。

 

愛があるから悲しいんです

丹沢)その中で、悲しみが少しでも楽になっていきますか?

田中)楽になるんじゃないんです。生き方を学んでいくという感じですね。ある程度時間が経っていくと、受け入れていくっていうか折り合いをつけていくっていうかごまかし方を学んでいくんですよね。他の人の生き方を聴きながら、「こういうごまかし方もあるんだ」「こういうスルーの仕方もあるんだ」ということを学んでいって、悲しみそのものは全く変わらないであるけども、でも何とか折り合いをつけて生きていくことが出来る。それには沢山の人から学んだ方がいいですよね。

丹沢)悲しみがずっと心をさいなむようなものとしてあってそれを少しでもなくしたいということではなくて、悲しみはある。

田中)あっていいと思っています。悲しみは消えないっていうふうに思っているんですね。悲しみは愛する人を亡くしたから悲しいわけで、愛する人だからこそ胸が痛くなるほど眠れなくなるほどご飯も食べられなくなるほど悲しいわけですよね。そこには愛があるから。だから愛が消えれば、愛する気持ちが消えれば悲しみも消えると思いますけど、私も今17年目になりますけど、今でも亡くなった息子を愛している気持ちに変わりはないので、今も深く悲しみはあります。でも色々折り合いをつけてごまかしながらって言ったらおかしいですけど、日常生活は送れています。元気にですね。

丹沢)ああ、そういう考え方なんですね。

田中)そうですね。たとえば取り除けない障害がありますよね。今やパラリンピックのように「障害も私のもの」みたいにスポーツなどをやっている人たちも沢山います。それと同じように「取り去ることが出来ない悲しみ」があると。でもそれだけで生きているわけではなくて、そこだけに捉われずに、それは自分の体の一部なのでね。もう常にあるものだから、それをあまり意識することなく他のこともできるっていう考え方ですかね。

丹沢)ああ~。なるほど。

田中)そうすると遺族の見方がちょっと変わってくると思うんですけど。

丹沢)そうですね。

田中)どうやって生きていくかとか、どのような日常生活を送るか、家族に対してどうやって接していくかとか、そういうことも含めてその人自身が決めることだと思うんですね。それには、遺族の先輩たちがいて、どうやって生きてきたかとか語ってくれる人がいるわけですよね。私は17年。私の上には20年30年の遺族がいて、いま遺族になったばかりの人もいて、じゃあ半年後はどうやって生きてきたのとか、どうやって過ごしてきたのとかそういう話になるわけですよね。「どうやって1周忌を迎えましたか」とか「遺品をどうやって整理してきましたか」とか「辛くてどうしようもない時にはどうやって過ごしてきましたか」という話にもなるので、その時はそれぞれに経験を語るわけですよね。その中でその人自身が自分の生き方と合うもの、気持ちと合うものを見つけて、生きていけばいいかなと思うんですよね。

丹沢)同じ経験をした先輩を紹介しているっていう。

田中)そうです。

 

優しい人が生きていける社会へ

丹沢)お話を伺っていて、田中さんご自身が活動にかけているエネルギーがすごいと思うのですが、どうしてここまで出来るんでしょうか?

田中)私は「しんどくならないですか?」ってよく聞かれますけど、私の活動の原点は最初に話した息子の冷たい死に顔ですね。あそこに戻ることによって、「頑張ろう」って思えるし、やることが沢山見えてくると思っています。息子と私のためにやっているものだと思っています。一人一人遺族の話を聞くと一人一人事情が違い、一人一人問題を抱えているので、やるべきことが見えてくるんですね。「これも必要だ」「あれも必要だ」「こんなこともしていかないといけない」「あんなこともしていかないといけないんだ」ということが見えてくるんですよね。それを何とかやり続けて、優しい人たちが生きていかれるような社会に変えていきたいって思っているんですよ。なのでやるべきことが山のようにあり過ぎてどうしようかなって思っているぐらいですね。

丹沢)ご自身のために、遺族に会いたいって思ってやっているうちにだんだんと「こういうこともやらなきゃ」と。今は国の自死対策の会議に出たり、様々な活動をされていますよね。

田中)そうですね。亡くなった人たちの命の意味を伝えるっていうのを私たち目標の一つに掲げている所がありますけど、その一つとして自死の対策の会議などにも参画していきたいと思っているんですね。私自身もですけど、やっぱり今だったら助けられた。ああやっておけば、こんな行動をとっていれば助けられた、息子は死なないで、そこまで追い詰められることはなかったんじゃないかなって思い当たる節が沢山あるんですね。他の遺族の声を聴くと、それぞれにあるわけですよね。それを遺族支援、亡くなったあとの支援も必要ですけど、できれば遺族を増やさないための対策に生かしていただきたい。会議などに行く時は私個人の意見ではなく、私たち自助グループでは「体験的知識」って言って集団的体験の知識をまとめたものを提言するという形にしているんですけど。日本はどうしても自死に一番近い自死遺族は支援の対象であって中心となってやるものではないという考え方があるように思いますね。

丹沢)自死の対策を考えるのであれば、当事者が一番何が必要なのか分かっているように思えるんですが。

田中)ないですね。自助グループである当事者団体が相互支援しているんじゃなくて、やはり行政でも民間団体でももっと力をお持ちの組織だと思うので、そこが連携を取りながら相互支援を目指してくださいよって言っているんですけど、ほとんど相互支援はしていません。そこがすごく残念な所です。

 

自死への根深い偏見を変えたい

丹沢)これまで自死に関する偏見のようなものはどのようにお感じになりました?

田中)私自身が活動を始めるに当たっては色んな所にお願いに参ったわけですが、そこでは非常に差別を受けましたね。いわゆる「知識のない人たち」っていう感じで「田中さんにはこのような文書は読めないでしょうけど」って言われたりですね。活動していく中で差別があるなと思ったのはいわゆる事故物件。自死があった物件での賠償金請求とかですね。国交省でもガイドラインなどが出来ましたけど、3年間にわたって家賃保証しないといけないとかですね、あとは結婚が破棄になった例が今でもあるって聞くと残念だなと思います。昔の話のようですけど、今でもやっぱりありますしね。

丹沢)自死せざるを得なかったことが自死した人の責任になっている?

田中)そうですね。自殺対策基本法ができて2006年に出来て2007年には大綱、自殺対策総合大綱が出来て、ことし見直しがあったんですけども、そこにはちゃんと明記されている言葉があって「自死、自殺の多くは社会的な要因によって追い込まれた末の死である」と。だから追い込む要因を変えていかなきゃいけない。人を追い込まない社会にするべきだってことが書かれているんですけども、世間にあるいろんな問題は、「自死は個人の問題」「勝手に死んだ」「死にたくて死んだ人たち」という意識がまだまだまだあると思いますね。根深くあると思います。

丹沢)大綱に書かれた文言に社会の人々の意識の方が追いついていない?

田中)追いついていませんね。それをもっと厚生労働省に周知徹底してくださいって、ことしの大綱見直しの時に言ってちょっと付け加えられていたりしますけど、まだまだ「勝手に死んだよね」って偏見があります。そして遺族にもまたそういう気持ちが少なからずあるっていうか、どうしても遺族は突然遺族になるので、自死に対して偏見差別を持っていた人なんですよね。私もそうですけど。私自身も「自殺するなんて」と思っていたようなもんですから、私も反省していますけど。それが自死遺族になったからと言って全部払拭されるわけではなく、心のどこかに「悪いことをした」という思いがどうして残っている人が多いというふうには感じます。

丹沢)周りから偏見を受けて、それがまるで悪いことをしたように扱われることに加えて、自分自身の中にも偏見があるから。

田中)「世間様に迷惑をかけた」っていう思いを持っている人が多いと思います。事故物件の相談が結構あるんですけど、必ず「大家さんに悪いことをしてしまったんです」「不動産屋さんに悪いことをしてしまったんです」というのが遺族の第一声です。
その時必ず「悪いことしてないですよ~」「ただ亡くなっただけじゃないですか」って言い方をします。そうすると「わ~っ」て泣きじゃくりますけど、気を張っていて、でも悪いことをしたんだ、申し訳ないことをしたんだ、迷惑かけたんだという思いがどうしても拭いきれない遺族がやっぱりいるってことですよね。

丹沢)私の中にもその感覚があるのでそう言うだろうなって言う感覚も分かるんですけど、遺族というのは、私がそうなるかもしれませんし、誰もがなりうる話ですよね。

田中)ずっと伝えてきていることの一つに「遺族も様々です」と。知識のない人もいるでしょうし、ものすごく学識経験の高い人もいるし、お金持ちの人もいれば、もちろん貧困の人もいるでしょうと。いろんな人たちがいて、要するに一つの社会なんですよってことをずっと伝え続けているんですけど、でもやはり世間は「自死遺族とはこういう人たちである」っていうようなくくりになっている気がするんですね。普通に暮らしていた人たちが突然遺族になるんだっていうのをみなさんに知っていただきたいと思いますね。

 

「優しさの恩送り」をしていきたい

丹沢)田中さんがそうやってずっと自死の問題に関わってきたのは自分自身のため?

田中)そうですね。そしてたぶん私自身は自死以外のことでは生きていかれないのかもしれないと最近自分で分析しています。自死の問題の中だからこそ息子とともに生きていける、ということがあるので、こんな言い方するのはあれですけど、息子に許してもらって生きているなというふうに思います。

丹沢)息子さんに許してもらって?

田中)「母ちゃん頑張ってるね」って言ってもらいたくて生きているので。活動も息子とともにあると思っているのでしんどくならないし継続できているし、息子が亡くなるまでは知り得ることのなかった人たちとも出会えていますし、深い色んな人たちがいると教えてもらっているし深い人生を生かさせてもらっているなというふうには思っていますね。息子のおかげで。息子に感謝しています。できれば生きてほしかったですけどね。生きている人のためには何もできないのかもしれないです。人間って。幸せ過ぎてね。でも愛する人が亡くなったって現実を前にした時に、亡くなった人が何を望んでいるかって考えた時には、無報酬で動けるのかなって思いますね。

丹沢)田中さんは活動を通じてどういう世の中になってほしいと思っているんですか?

田中)自死の問題って根本的に教育にあるって思っているんですね。人と人とのつながり。自死の多くは言葉の暴力によって追い込まれた末の死だと思っています。そこにちょっとした言葉がけがあったり、優しさがあれば、うちの息子も生きていただろうなと思います。人を思いやる気持ちにあふれた子だったので、そういう人が報われる、認められる社会であってほしいと思います。それには教育を変えるしかなくって、でも私たちが今できることは、遺族によく言うんですけど「優しさの恩送りをしていきたい、いってほしい」と思っているんですね。誰かから優しさを受けたら、その与えてくれた人に返すのではなくって、自分が次の人に同じ優しさを返していってほしいと。優しさの種をまいていってほしいと。次から次へと輪が広がっていけば、人に優しい社会ができるんじゃないのって言っていて、それはとっても大切だと私は思っているんですね。受けた恩は次に送っていくというふうな活動をしてほしいと遺族にはいつも伝えています。私もそう思います。そうすると人に優しい、人を大切にする日本という国が出来ると思います。