【キャスター津田より】5月27日放送「岩手県 宮古市」

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今回は、岩手県宮古(みやこ)市です。人口は約47000で、震災後に2割ほど減少しました。震災では、関連死を含めて約570人が犠牲になり、半壊以上の家屋は4100棟近くに上ります。
災害公営住宅の整備(766戸)、集団移転事業(262区画)、土地区画整理事業(410区画)は全て終わり、市街地を津波から守る閉伊川(へいいがわ)水門の完成を残し、復興事業は完了しています。
5年前には、市民交流センター、保健センター、市の新庁舎が一体化した「イーストピアみやこ」が宮古駅の南側に誕生しました。『宮古盛岡横断道路』(宮古市~盛岡市)がおととし全線開通し、県庁所在地までの所要時間が約40分も短縮されています。去年は景勝地・浄土ヶ浜(じょうどがはま)の新しい遊覧船が就航し、シーズン中は多くの観光客を集めました。甚大な被害(犠牲者は市全体の35%)を受けた田老(たろう)地区でも、海抜14.7mの防潮堤が造られ、高台には集団移転により新興住宅地が誕生しました。新たな道の駅や野球場、魚市場、三陸鉄道の新田老駅も開業しています。
一方、宮古駅前にあった市内最大の商業施設が閉館し、集団移転の跡地利用やサケ・サンマなどの極端な不漁も課題で、市と漁協は、トラウトサーモンの海面養殖などに力を入れています。

はじめに、津軽石(つがるいし)地区の公民館に行き、『法の脇(のりのわき)獅子舞』の練習におじゃましました。150年以上前から舞を受け継いできた“法の脇集落”は、災害危険区域に指定されて住む人はおらず、人々は離れ離れになりました。津波で獅子頭や衣装などが流されたものの、8年前に復活したそうです。保存会の最年少は、10歳から参加している盛合華代(もりあい・はなよ)さん(16)で、集落にあった自宅は津波で全壊し、一家は市内に購入した新居に移りました。

「8月16日の稲荷神社の祭りで、津軽石地区を回るんですよ。道で待っている人たちがいて、踊ってお辞儀をして、“ありがとう”って言われて…それで疲れが吹っ飛びますね。祭りが終わったあと、近所のおばあちゃんたちが集まって豚汁を作ってくれるんです。“もうダメだ、動けない”ってなったところで、“食べろ”って持ってきてくれる、あれがいいんですよ。集落自体が一つの家族みたいで、近所のおばちゃんのところに行って、夕飯を食べて帰ってくる…おいしかったです。今は“法の脇”という名前も無くなった状態で、獅子舞が無くなれば、それこそ完全に集落が無くなっちゃうので、こうやって続けていれば、“法の脇”という名前だけは残ると思います」

郷土芸能の継承のため、津軽石中学校では『法の脇獅子舞』を選択科目として授業に取り入れており、それをきっかけに、震災後は別の集落の子も伝承に加わっています。

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次に、同じ津軽石地区の赤前(あかまえ)集落に行きました。津波で400戸以上の家屋が被災したこの集落には、アニメ映画『すずめの戸締まり』の1シーンに酷似した場所があり、市がアニメの重要な要素である“扉”を設置して、全国のファンが訪れるようになりました。扉がある場所は元々農地で、堀内利雄(ほりうち・としお)さん(78)が所有し、市に貸しています。堀内さんの自宅は流れてきた家屋が壁となって津波の直撃を免れ、自宅を修理して夫婦で赤前集落に暮らしています。

「うちの地域で犠牲になったのは26人。すごい波になって、とにかく信じられなかったね。“何これ”っていう感じで…。ここを離れる気にならなかったです。やっぱり生まれ育った所が一番いいですからね。みんな高齢化して、ひとり世帯が多いんですよ。だから、横のつながりが大事だと思います。先輩にお世話になって今の自分があるって思いますし、地域に恩返しをしたい気持ちが強いです。お茶っこ飲みとかを増やして隣近所と交流を深めたいし、お互いに助け合っていきたいです」

堀内さんは震災後、地域の防災組織の会長としても活動し、足腰が弱った人を運ぶリヤカーや、大きいゴムボートも準備しました。さらに、孫と同世代の子どもたちにも津波の怖さを伝えていきたいと、自宅に残った津波の傷跡を、一部だけ修理せずに残して体験を伝えているそうです。

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その後、中心部の本町(もとまち)にある災害公営住宅に行きました。34世帯中、一人暮らしは7割に上ります。入居者の出身地区は様々で、交流する機会をつくろうと、集会所では毎日ラジオ体操も行われています。人とおしゃべりしたくて体操に通う方も多く、ある高齢の女性は、“過去は流して、現在の話をして笑って、楽しくやっています。ここにいるしかないから”と言いました。入居者の一人で、公営住宅の管理人を務める、長谷川牧子(はせがわ・まきこ)さん(77)は見守り活動に力を入れており、班長がポストの中を毎日見て、異変があるとすぐ確認するという取り組みも始めたそうです。

「孤独死をさせないため、皆さん頑張っています。“三日三晩、駐車場から車が動かないけど、どうしてる?”とか、部屋を見に行ったり…。 2、3日でも出かける時は、管理人に行き先を言って外泊することになっています。とにかく健康で、いつまでもこうありたいです」

震災はもう12年前のことで、足腰が弱って外出が難しくなったり、夫婦のどちらかが亡くなったり、事情もどんどん変わります。1人の独居高齢者が、見守り活動をする側でもあり、見守られる側でもあるというのは、被災地共通の様相になりました。近年は、特に高齢化や独居世帯の増加が著しく、自治会役員のなり手不足も深刻で、仙台市では100世帯以上が住む公営住宅にもかかわらず、自治会の活動を休止したところもあります。こうした事態はますます深刻化していくでしょう。

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そして、10年前に取材した人に会うため、古くから漁業で栄えた鍬ヶ崎(くわがさき)地区へ向かいました。袰岩政子(ほろいわ・まさこ)さん(84)は、銭湯を経営していた方で、そのお湯は全国からやってくる漁師に愛され、船から電話があれば深夜でも湯を温めなおし、防波堤まで漁師を迎えに行くこともありました。津波で自宅も銭湯も失い、10年前は、仮設住宅でこんなことを言っていました。

「おじいさん、おばあさんが多かったんだけど、みんなで話をするのがいいって言われました。“良かったね、今日もお風呂で会えたね”という会話が弾んでいました。自宅も失くして両腕をもがれた感じでしたが、みんなに“早くやって”と言われて、こうしてはいられないと動き出したんです」

ところが鍬ケ崎地区は、土地をかさ上げして整地する“土地区画整理事業”の対象となり、2013年に着工して、完了間近の“まちびらき”の記念式が行われたのは4年後でした。震災からは6年半も経過しています。すでにその時点で袰岩さんは75歳を超えており、銭湯は一人で経営していたため、年齢的な不安から再建は断念しました。スタッフが銭湯のことを聞くと目が輝き、今も未練があるようでした。

「何とかして銭湯を再建できるかな、と頭の隅で思っていたんだけど…。もうちょっと若かったら、やったかもしれないね。残念ですね…。今だからこそ、銭湯はあったほうがいいと思う。津波の話とか、銭湯があれば、“あの時はこうだったね、ああだったね”って吐き出せて、ホッとしたんじゃないかな」

最後に、870棟の建物が被災した磯鶏(そけい)地区に行き、12年前に取材した人を訪ねました。水産加工業を営んでいた大井和子(おおい・かずこ)さん(78)で、津波で自宅と工場を失い、廃業しました。震災の2年後に元の場所に自宅を再建し、夫や息子一家と暮らしています。以前の取材は震災から12日後で、大井さんは倒壊した自宅を片づけていました。当時はこう言いました。

「家族全員、命拾いしました。お互いに安否が分かった時、“ああ、よかった”って、今まで何となく過ごしてきたのが、家族の絆を感じました。この辺りも亡くなった人が結構いて、お互いに会えば“生きてて良かったね”って抱き合って、“これから頑張っぺ”って声をかけています」

現在、大井さんは家庭菜園に精を出し、穏やかに暮らしています。今のお気持ちを改めて聞きました。

「家がなくなったのは、全壊だったので割と諦めもつきましたよ。やっぱり、何十年も過ごしてきた所はいいですよね。隣近所もみんな、いい人たちだから。お隣さんも一生懸命畑をやってるから、話をして、教えたり教えられたりしています。親が生きた年齢ぐらいは生きたいですね。最低でも4年は生きて、さらに10年は頑張っていきたい。それを励みというか、夢…やっぱり、何か目標がないとね」

倒壊した家屋をバックに硬い表情でカメラを見ていた方が、12年後、とても穏やかな表情で答えてくれました。


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