【キャスター津田より】4月22日放送「宮城県 気仙沼市」
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今回は、日本有数の港町、宮城県気仙沼(けせんぬま)市です。人口は約5万8千で、震災では1400人ほどが犠牲になり、15000棟以上の住宅が被災しました。主要な復興事業は全て完了し、中心部には、4つの観光施設や交流施設、商業施設が誕生しました。一般の飲食店や鮮魚店はじめ、カフェ、クラフトビール醸造所、スポーツバー、高級食パン店、地元ラジオ局などが集積し、若者向けの街並みに一変しました。また被害が大きかった鹿折(ししおり)地区にも、今では商店、スーパー、ドラックストア、水産加工場などがあります。長年の悲願だった離島・大島(おおしま)と本土を結ぶ橋が4年前に開通し、島には産直市場や観光案内所、商業施設が整備されました。一昨年は三陸自動車道の気仙沼湾横断橋が完成し、仙台から気仙沼を経由して、青森県八戸(はちのへ)市まで高速道路がつながっています。
一方、4地区で行われた土地区画整理事業(=土地をかさ上げして区割り後に整地し、地権者に引き渡す)は、想定以上に長引きました。他の土地で生活再建する地権者が現れ、事業面積(約90ha)の大半を占める南気仙沼と鹿折の両地区では、ともに3割程度の土地が全くの未利用です。
はじめに、南気仙沼地区で2年前にオープンした社交ダンス教室を訪ねました。主宰するのは菅原哲哉(すがわら・てつや)さん(65)で、26年前に気仙沼で初の社交ダンス教室を開いた方です。鹿折地区にあった教室が津波で流され、翌年、地区内に教室を建てましたが、道路拡幅工事の影響で2年前に閉鎖しました。去年、土地区画整理が終わった現在の場所に、新たに教室を開設したそうです。生徒数は60~70人で、高齢者が中心です。楽しく汗をかくダンスこそ、健康づくりに最適だと言いました。
「被災した後は、“もうダンスはできない”と思いました。そのうち、ある生徒さんが“先生、いつまでも何やってるの。私たち早くダンスやりたいよ”って言ってくれたんです。実はその生徒さん、自分の店も自宅もみんな流された方だったんです。いま来ている方でも、自宅を失って公営住宅に住んでいる方がいるし、ダンスに来て気を紛らわせていると思います。仲間と一緒にやれるのも、一つの励みでしょう。やっぱり皆さんが笑顔で踊っているのがいいですね」
次に、内陸部の面瀬(おもせ)地区に行き、大正3年創業の旅館を訪ねました。女将の小野寺千由紀さん(おのでら・ちゆき)さん(55)によれば、以前は海のそばにあり、旅館と自宅の両方を流されたそうです。再建を諦めかけましたが、大正時代から掲げてきた木製の看板や代々の写真が奇跡的に見つかり、それがきっかけで再建を考え始めたそうです。場所探しに時間を要し、4年がかりの再建でした。
「ひたすら突っ走ってきた感じ…不安だらけだったけど、主人が一生懸命“大丈夫だ”って言って、何とか今、こうやって…。リピーターの方が来た時、“元気でよかった”“生きててくれてありがとう”と言ってくれて、前回泊まった時に持ち帰った、旅館の名前が入ったタオルを持ってきてくれたんです。よく持っていてくれましたよね。今は幸せなので、再建してよかったです」
さらに、気仙沼港のそばで約100年続く酒蔵も訪ねました。店主は6代目の斉藤嘉一郎(さいとう・かいちろう)さん(64)で、創業以来、港近くに店を構えています。津波で店舗は全壊しましたが、商売仲間は皆、気仙沼の中心として栄えてきた場所での営業に誇りがあるそうで、斉藤さんも土地区画整理事業の完了を待ち、5年8か月かけて同じ場所に店を再建しました。
「人がまたここに居住するのかどうか、見当もつきませんでした。人がいない所で商いを再開してもどうなんだろうと、逡巡(しゅんじゅん)はありました。ただ、いつまで考えていても理屈では答えが出ないので、最後は“エイッ”と決めました。先祖がここにいて、自分たちがここで成り立ってきて、“ご先祖を放って、自分たちだけ外に行くわけにもいかない”という、そういう思いでしたね。何が正解だったのか、たぶん死ぬまで分からないのかな。たゆまず努力しないと、へたってしまいます。自分に喝を入れるといいますか、“まだやるべきことがある”と思っています」
震災後、斉藤さんは日本酒の消費低迷を受け、ワインやリキュールの製造も開始。2年前には廃校になった校舎を買い取り、最新鋭の設備を導入した新しい酒蔵に改築して、通年での酒造りを始めました。
その後、市北部の唐桑町(からくわちょう)の災害公営住宅に行き、震災の10日後に避難所で取材した方を訪ねました。熊谷(くまがい)なみ子さん(93)で、当時は体調も悪い中、こう言いました。
「千年に一回の悪魔です。でも私は誰も恨みません。私だけでないから…。病弱だけど気持ちは頑張りたいと思っています。みなさんも頑張ってくださいね、頑張りましょう」
熊谷さんはその後、仮設住宅を経て、7年前から息子と2人で公営住宅に暮らしています。仮設住宅でも積極的に近所の人と交流し、集会所で侍の仮装をして演じた時代劇の写真も見せてくれました。息子と2人だけの熊谷さんを隣人も気にかけ、おかずを作って持ってきてくれるそうです。
「避難所では、流された家に人が集まって、お茶を飲んだりするところを夢に見るのよ。今も見ますよ。“津波に家を持っていかれなければ、こんな貧乏をして苦しむこともなかったのに”とか、“誰も悪くないんだ、津波がいちばん悪いんだ”って、今も泣く時がありますよ。それでもよく頑張ったね。ただただ、“頑張るぞ”という言葉を大事にしてきたんだね。そうやって暮らしてきたよ。これからも息子と2人で仲良く笑顔で生きます。100歳まで台所に立って、ごはんを作りたい。欲が濃いね(笑)」
熊谷さんは、息子が5歳の時に夫を亡くしました。苦労する母親を思い、息子も15歳で船に乗って働きに出たそうです。近年は息子が腰を痛めて働けず、苦労も続きますが、笑顔を忘れない93歳でした。
そして、同じ唐桑町で、12年ぶりに故郷に戻って生活を始める人にも会いました。馬場恵美子(ばば・えみこ)さん(64)で、自宅は津波で全壊し、千葉県に住む娘を頼って避難したまま、そこで暮らし続けてきました。千葉での生活では、心身の不調に大変苦しんだそうです。
「あの頃は家がないので、千葉に行くしかなかったんです。宮城のみんなを見捨てて、自分だけ千葉でこんな楽な生活して、みんなに申し訳ないなと思って…。そう思っていたら、向こうで海を見た時に“おいで、おいで”と呼ばれている気がして、なんか私、病気なんじゃないかと思って…。薬がないと都会では暮らしていけないんですけど、ここに帰ってくると、薬が要らないくらい心が落ち着くんですよ。ここに主人のお墓もあるので、やっぱりここが一番いいです。主人のそばにいたいと思います。私が娘夫婦の家にいると、息子は実家がないから帰る所がない…息子に“故郷をつくってくれよ”って言われたので、息子が帰って来る家をつくりに戻ってきました」
最後に、海沿いの階上(はしかみ)地区に行き、地区内にある集落の自治会長から話を聞きました。小野寺有一(おのでら・ゆういち)さん(70)で、震災時は離島・大島の中学校の校長でした。津波は島の両側から上陸してつながり、大島を分断しました。当時はまだ本土への橋も無く、船の航路が寸断されて一時は完全に孤立しました。さらに、本土から火のついたがれきが流れてきて、あと一歩で島民が完全に逃げ場を失うような山火事にも見舞われました。中学校の体育館では、中学生や教職員が避難者の世話に追われ、こうした経験から小野寺さんは、隣人同士が力を合わせて災害を乗り切る『自主防災』の重要性を痛感したそうです。現在、自治会長として、災害時の安否確認の手間を省くための工夫を考えたり、保育園児のために近くの漁協にかけ合い、避難時は手を貸してもらう仕組みを作りました。
「あの時は全然、生きた心地がしなかったですね。島の民宿から毛布や米を集めたり、あんな状態で、よくお腹が減らないもんだと後で思ったんですが、それどころじゃないんですよね。危機的状態になると、空腹感が引っ込む…そんなギリギリの体験をしたわけです。例えば保育所でも、0歳児を3人ぐらいベビーカーに乗せて、がれきの中を移動するとなると厳しいですよね。人手が必要なんです。地域の子どもですから、地域で守るしかないんです」
被災各県が公表した最新の津波被害想定では、最悪の場合、復興事業で集団移転やかさ上げした地域も浸水するという結果が出て、問題になっています。自主防災の重要性は、ますます高まっています。
番組は4月から、NHKプラスで配信しています。放送後2週間、全国どこでもインターネットで見ることができます。以下のサイトをご覧ください。
NHKプラス 東北プレイリスト
https://plus.nhk.jp/watch/pl/f43cf92c-fd9a-4bb2-b6fd-9f7f57486cbd
NHKプラスの詳細はこちら
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=27292