【キャスター津田より】4月15日放送「岩手県 釜石市」

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 今回は、岩手県釜石(かまいし)市です。人口は約30000で、震災前から2割以上減りました。最大20m超の津波が押し寄せて1000人あまりが犠牲になり、半壊以上の被災家屋は3600棟を超えます。5年前に集団移転事業(11地区)と災害公営住宅(1316戸)の整備が完了し、2年前には土地区画整理事業(4地区)も完了しました。道路や防潮堤の整備も含め、ハード面の復興事業は全て終わっています。この12年間には、橋野(はしの)鉄鉱山の世界遺産登録や、2019年のラグビーワールドカップの開催といった大きなイベントもありました。
震災後、釜石港の近くには、飲食店が並ぶ観光施設「魚河岸テラス」が開業し、市中心部には情報交流センターや市民ホール「テット」が誕生。大手流通グループの大型店舗も進出しました。一方、個人店舗は高齢化で廃業したり、他の地区に移ったりして、かなり姿を消しました。

 はじめに、鵜住居(うのすまい)地区に行きました。以前の人口は3200余でしたが、震災後はほぼ半減しました。たった1つの地区で580人以上が犠牲になり(市全体の犠牲者の半数超)、被災家屋は1600戸余(地区の7割近く)に上ります。ここでは、去年開業したばかりの接骨院を訪ねました。院長は29歳の岩﨑奨平(いわさき・しょうへい)さんで、震災時は高校2年生でした。柔道整復師を目指して仙台市の専門学校へ通い、岩手県内の接骨院で修行したあと、故郷にUターンしました。津波で実家は全壊しましたが、両親は同じ場所に再建したそうです。現在は、妻と8か月になる長女の3人暮らしです。

「自分の中では、地元に帰ってきて働くのが当たり前になっていて、帰ってきたくないとは思わなかったですね。地元の復興に少しでも携わって、地域の人に少しでも元気になってもらえればと思って…。ゴーストタウンまではいかないですけど、店も少ないですし、開業した時は“やっていけるのか?”という不安しかなかったので、徐々に紹介してもらえるようになって本当に感謝しています。同世代で店をやっている方とかが増えて、みんなで盛り上がっていける関係がつくれればいいなと思います」

 震災後の鵜住居地区は、小中学校と幼稚園が高台に整備され、市街地も平均1.7mかさ上げされて、14.5mの防潮堤も完成しました。「釜石鵜住居復興スタジアム」(=ラグビー場)や「鵜の郷(うのさと)交流館」(=観光物産館)、「いのちをつなぐ未来館」(=震災伝承施設)、「釜石祈りのパーク」(=追悼施設)など、新たな施設も生まれています。公共施設の復旧では最後となった市民体育館の利用も始まり、岩崎さんのような方が小さな明かりをともしています。

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 次に、市中心部にあるデザイン工房に行きました。代表は小田島凌一(おだしま・りょういち)さん(83)で、看板制作ではこの道60年以上の大ベテランです。二科展の入選経験もある、現役のデザイナーで、釜石の復興応援をテーマにした作品(=画面の半分以上に重機のショベルを大きく描いた作品)は、東北地方のポスター展で最高賞に輝きました。津波で自宅と工房が全壊し、残った作品は1点だけで、今も汚れたまま保管してあります。奇しくも防災を訴えるポスターで、“天災は必ずやってくる”の文字がありました。震災の半年後には仮工房で創作を再開し、現在は災害公営住宅で妻と2人暮らしです。

「あのときのことは思い出したくない…本当に涙が出ました。逆に、それで奮発したね。あの境遇をはねのけようと…。復興まだまだですけど、負けない気持ちで頑張りますよ。常にそう自分に言い聞かせているからね。とにかく描くのが好きなんだ。若い人に負けないように、創作活動をやりたいな」

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 さらに、市の北東部にある箱崎白浜(はこざきしらはま)漁港に行き、養殖ワカメの出荷現場におじゃましました。漁師の佐々木謙二(ささき・けんじ)さん(80)は、震災前はワカメやホタテの養殖のほか、定置網漁のリーダーも務めていました。津波で船2隻と作業小屋を失い、震災後はワカメ養殖のほか、ウニ漁やアワビ漁、釣船も営んでいます。震災の翌年、50年以上連れ添った妻を病気で亡くし、心に大きな穴が開きました。出荷作業をしながら腕にしているカバーを見せ、亡くなった妻が使った形見だと言いました。1人暮らしでも毎日掃除や洗濯を欠かさず、自宅はきれいに整頓されていました。

「死んだら寂しいですよね。それですごく酒飲んだ。缶酎ハイ、1箱買っても2日もたなかったから。それで体を壊して…。仲間が助けに来て、仲間のおかげで生きているようなもんだ。できるだけ前向きに、ポジティブに生きていきたいと思っているの。とにかく、嘘をついてもいいから楽しく生きるほうがいい。自分の気持ちには嘘ついているよ。女房もいなくなっちゃったらね、絶対ダメになるから。家で料理をしている時も、自分で食べるものを作るのに楽しみがない。だから、とにかく考えないで楽しくすればいいと思っている」

 80歳の自分に言い聞かせ、努力して“つぎの一歩”を歩もうとする姿に心を打たれます。

 その後、市中心部の災害公営住宅に行き、11年前に取材した女性を再び訪ねました。震災前、市内で旅館を経営していた鈴木絹子(すずき・きぬこ)さん(77)で、仮設住宅を経て入居し、現在は夫と2人暮らしです。自治会の監査役を務めていて、聞けば46世帯74人の入居者のうち、6割が65歳以上だそうです。平日の朝には隣のこども園の園児と一緒にラジオ体操を行っていて、入居者同士の大切な見守りの場になっています。鈴木さんは、6年半で18人が亡くなったけど、孤独死の人はいなかったと言いました。朝に“あの人、体操に出てこないね”と言って部屋を訪ね、倒れているところを助けたこともあったそうです。鈴木さんは11年前、仮設でこんなことを言っていました。

「被災した人じゃなきゃ分からないよね、というのが私たちの合言葉です。上に立つ人は、被災した人の意見を取り入れてほしい」

 今回、改めて映像を見てもらうと、“今もここで話をすると、被災した人にしか分からないという声がしょっちゅう出る”と言いました。目下の不安は、運転免許のない高齢者には痛手となる、タクシーの営業時間短縮です。新型コロナによる乗客減少や燃料高騰を受け、市内のタクシー会社は事業継続のため、やむなく24時間の営業を休止しています。

「夜なかにタクシーがないというのは、お年寄りたちには非常に不安の材料です。救急車を呼ぶのは、皆さん躊躇(ちゅうちょ)するんですよね。“これくらいのことで呼んでいいのかな”って。病院に行って入院するほどじゃないから帰っていいよとなった時、タクシーがなくて“もう、どうしようかって困ったよ”って話した人もいました。あとはご主人が入院していても、タクシーがないと、夜なかに急変の連絡を受けても行けない…。そういう老人の不安をなくして、住民の今の現実を見てほしいです」

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 最後に、市の中心部から車で30分の尾崎白浜(おざきしらはま)集落へ行き、9年前に取材した女性を訪ねました。佐々木眞里子(ささき・まりこ)さん(76)で、集落で唯一の商店(食料品と雑貨の店)を営んでいます。震災前は夫婦で漁業に携わっていましたが、集落にあった店が津波で流されて再建しなかったため、震災の翌年、空き家を借りて経験のないまま商店経営を始めました。春休みや夏休みはアイスを多く仕入れ、子どもからはなるべく消費税を取らないようにしています。9年前、佐々木さんはこんなことを言っていました。

「震災後はみんなつらい思いをして、私たちもつらい思いをして生活してきたから、店の1軒くらいはどうしても始めなきゃ、みんなが大変だろうなって思って…。1人1人が笑顔を取り戻してもらいたいし、普通の生活に戻してもらいたい。それが希望…」

その後、佐々木さんは2019年の台風19号による水害で、集落にあった自宅が全壊してしまいました。仮設住宅を経て、7km離れた公営住宅に夫と2人で移り住みました。毎日車やバスで通って店を続けていますが、客が一人も来ない日もあり、光熱費やガソリン代を考えると経営はギリギリです。

「だんだんみんな年老いて、年を重ねるたびにお客さんも1人ずつ減っていきますけど、1人のお客さんでも“店が開いているな”と思えば来てくれると思うので、私は店を開けております。私にとってここは、ストレス解消の居場所です。後ずさりではなく、人間というのは前へ前へと進んでいかない。1軒しかない店なので、これからも皆さんの力を借りて、杖をついてまでも店をやり遂げたい」

 今なお多くの被災地で、住民の助け合いや住民の我慢が、地域を維持する前提になっています。


さて番組は4月から、NHKプラスで配信しています。放送後2週間、全国どこでもインターネットで見ることができます。以下のサイトをご覧ください。

NHKプラス 東北プレイリスト
https://plus.nhk.jp/watch/pl/f43cf92c-fd9a-4bb2-b6fd-9f7f57486cbd

NHKプラスの詳細はこちら
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=27292