【キャスター津田より】3月4日放送「福島県 飯舘村」

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今回は、福島県飯舘村(いいたてむら)です。人口は4800あまりで、原発事故により国は全住民に避難指示を出しましたが、2017年3月、長泥(ながどろ)地区を除く、村の大部分で避難指示が解除されました。それ以降、村には公営住宅が建ち、認定こども園や村内の学校を統合した小中一貫校『いいたて希望の里学園』が開校しました。唯一の医療機関である公設民営の“いいたてクリニック”には、去年、常勤の医師1人が着任し、訪問診療も行っています。訪問看護サービスの事業所や特別養護老人ホームもあり、2017年には道の駅が開業して、コンビニも併設されました。去年秋からは、生鮮食品を積んで週2回村内を巡回する移動スーパーも始まり、最低限の生活環境は何とか確保されています。

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 はじめに、村内で開かれた“食”のイベントで、80代の女性から話を聞きました。村でよく知られたキムチ作りの名人で、その品は昔から村民に愛されてきました。キムチの他に漬物や梅干しも作り、道の駅や宅配で販売しています。県内を転々として避難が長引くなか、福島市に加工場を建て、定住を決意しました。夫を病気で亡くしてからは、孫と2人暮らしです。福島市で開くキムチ講習会が一番の楽しみだそうで、村でイベントがあるたびに、福島市から通っています。

「(福島市での)暮らしはやっぱり寂しいわよ。震災なんかなければ、飯舘に暮らしていられるんだもん。福島は誰もいないんだもん。孫はいるけど帰りが遅いから、一人でご飯食べて、風呂入って寝るの。“キムチ注文したい”、“送っていただけますか”って毎日のように電話がくるから、やっぱりうれしいですね。原発はくやしいけど、いろんな人に出会えて、漬物をやりながら楽しく暮らしています」

 現在、住民登録者のうち実際に村内に住むのは31%です。避難指示解除まで丸6年…子どもの通学や高齢者の通院など、生活の安定を求めて避難先に家を構えるのも自然で、放射線への不安も人それぞれです。結果、生活基盤は都市部に置き、心の充実のために村に通うという人が多くなっています。
次に、臼石(うすいし)地区に行き、震災翌年に取材した、70代の林業の男性を訪ねました。当時は60代で、一時帰宅の際に見せてもらった倉庫には、出荷できない木材が大量に置かれていました。

「除染が終わって、なおかつ伐採して販売するのは先が長いですね。この避難は何だったのかと、後で思わないように、除染や賠償をしっかり対応してほしい。そうすれば第2の人生、前向きに進んでいけるんじゃないかと思いますが」

 あれから11年…。男性は今、福島市で暮らしています。息子家族が福島市に定住したため、男性も帰還を諦めて福島市に家を購入しました。高齢の母や孫2人も含め、原発事故前は家族7人の暮らしでしたが、今では家も分かれて夫婦だけの暮らしです。出荷規制のかかる木が多いため林業は商売として成立しませんが、それでも自分の山に通い続けているそうです。

「向こう(福島市)はただ泊まるだけで、福島にいると散歩が仕事みたいなもんだから…何もないもん。体が壊れちゃうね。だから、こっちで体を動かして…。補償も自分の思うような額は出てないんだよ。以前はもう1回頑張ろうかと思ったけど、10数年も過ぎたら、疲れてね…踏み切る気持ちがないんだよね。なんか日本刀でバッサリ切られた感じですよ。何となく生きているっていう感じですよ。前は仕事に出かけて帰ってきても家族がいたけど、その家族がバラバラになっちゃったから寂しいですね。やっぱり元の生活が恋しいなあ。“原発のばかやろう”です」

 この男性が特別なのではありません。口には出さなくても、内心、同じような感覚で生きている人は、12年たっても大勢いらっしゃいます。男性はわずかな希望を抱き、6年前に植林を始めました。その数、すでに4500本です。“先祖が植林した木で商売してきた恩返し。切るのは孫か、ひ孫か分からないけど、それでも植林しておかないと”と言いました。

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 その後、比曽(ひそ)地区に行くと、羽山(はやま)神社の社殿が建築中でした。氏子総代の50代の男性によれば、そこから30分登った山の上に旧社殿があり、全村避難の間にすっかり荒廃したため再建しているそうです(完成は5月頃)。男性は自宅を建て替えて避難指示解除と同時に帰還し、現在は母親と2人暮らしです。仕事は小中一貫校の通学バスの運転手で、ソバや麦などの栽培もしています。

「なんだかんだ言いながら、自分が生まれた場所なので、やっぱりここが落ち着きます。小さい頃から、神社のお祭りがあれば必ず顔を出すような子で、このまま朽ちるのは寂しいのもあったし、受け継いだものを直さなきゃならない…どうしても放っておけないです。昔の集落に戻したいです。昔みたいに、みんな笑って集まって、飲んだり食べたり、踊ったり騒いだり、そういう村に戻したいです。これから戻ってくる人たちと一緒に、“ここでもまた暮らせるんだ”という姿を見せて、先導していければ…」

震災前は84戸あった地区ですが、現在暮らしているのは11戸だそうです。

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 また、伊丹沢(いたみざわ)地区では、震災の3年後に会った60代の女性を再び訪ねました。当時は福島市のアパートに避難中で、村に一時帰宅し、友人との3年ぶりの再会を楽しんでいました。その友人は北海道に避難し、当時すでに自宅を構えていました。早く帰りたい気持ちがあったものの、年に1度ぐらいしか村に来られず、村の家はもう別荘だと言いました。一方、女性はこう言いました。

「本当情けない…来てみると、余計に草がぼうぼうになっているし、それが本当に情けないです。早く元どおりになって欲しいですけど…」

 あれから9年…。女性は現在、村に帰還し、夫や娘家族と暮らしています。友人とはずっと会えないものの、北海道にいると食べられないものや、福島にいると食べられないものを互いに送ったりしながら、電話で交流を保っているそうです。

「やっぱり避難した時は“もう戻れないのか”と思っていたので、今の村は花がきれいで、本当に心が安らぎます。村に戻ってから孫もできたので、孫が一番の生きがいになっています。孫も花に水をかけてあげるとか、結構お手伝いしてくれるんですよ。この子たちがいるから頑張れる気がします。生まれ育ったこの村が大好きです。これからも花を育てながら、この村で暮らしていきたいです」

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 最後に、深谷(ふかや)地区に去年オープンした “図図(ずっと)倉庫”に行きました。震災後に閉店したホームセンターを改装し、アートの発信やイベントの開催を通して、村内外の人の交流に取り組んでいます。ひょうたんで作ったボトルや、もみ殻から作った除草剤など、地元農家と開発したものを展示したり、販売もしています。訪ねた日は防災教室や太陽光発電を体験するイベントを開催中で、県内外から多くの人が集まりました。運営を担う20代の女性は東京出身で、移住者の友人と共同代表を務めています。すでに父が村に移住しており、母校の芸大の卒業制作でも村を取り上げました。

「自分も“新しい村づくりに参加したいな”という気持ちで…。ここに興味を持って来てくださる方もたくさんいるので、そういう人たちといろんな話ができる場所…お互いに“どんな仕事してるんですか”とか、そこでコラボレーションの話が持ち上がって、イベントが行われたりもする、そういう化学反応が起きればいいなと思います。震災から12年たって次の12年を考えると、今いろんな新しい人たちが村づくりに参加しているので、未来の村はめちゃくちゃ面白い村なんじゃないかなと思います」

 避難指示の解除後、新しい道の駅の隣には、花の栽培用のハウスやドッグラン、大型遊具が揃った芝生の広場もできました。陸上競技場やサッカー場があるスポーツ公園、パークゴルフ場も整備され、オートキャンプ場や入浴施設も再開しています。以前の規模には及びませんが、コメ、野菜、花の出荷が行われ、酪農や畜産も再開しています。もみの乾燥や貯蔵を行うライスセンターも完成し、去年は農産物の加工施設も誕生しました。木質バイオマス発電施設の立地も決まり、産業団地の整備計画もあります。移住者が家を新築すると最大500万円が出る独自制度などもあり、去年3月時点で、村外出身の128人が移り住んでいます(確かな数字は見当たらないが、現時点で200人を超えたと語る人も)。村は去年、移住サポートセンターを開設して、常駐スタッフ3人が移住実現まで支援する体制を整えました。

 さらに現在、帰還困難区域の長泥(ながどろ)地区だけは避難指示が続いていますが、地区の一部(63世帯200人が住む186ha)は除染やインフラ整備も終わり、今春の避難指示解除が検討されています。去年9月から帰還準備のための宿泊も始まり、数世帯が滞在しています。地区内では除染土から作った再生資材で農地を造成する事業も行われ、コメや10数種類の野菜を試験的に栽培した結果、放射性物質の濃度も基準値を下回りました。全地区で居住が可能となる大きな節目が、間もなくやってきます。