【キャスター津田より】2月18日放送「福島県 広野町」

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 トルコとシリアで起きた大地震は、犠牲者が4万人を超えました。ニュースで被災した子どもの映像を見ると、本当にかける言葉も見つかりません。現地の方々に心からお見舞いを申し上げます。

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今回は、福島県広野町(ひろのまち)です。人口は4700ほどで、約3人に1人は高齢者です。福島第1原発から20㎞~30㎞にあり、事故直後は国から『緊急時避難準備区域』に指定されました(=国の指示はないが、自主的な避難を推奨する区域)。そのため町独自の指示で全住民を町外避難させ、約1年後に解除しました。帰還が進み、いま住民登録している人の90%は、実際に町内に住んでいます。
隣の楢葉町(ならはまち)から北は広く国の避難指示が出され、広野町は、避難指示区域で行われる復興工事の作業員や廃炉作業の関係者が生活する“前線基地”の役割を担ってきました。1月末現在、町内居住者は5786人(=人口より多い)で、そのうち住民登録のある人は4239人、住民登録がない人(=作業員等)は1547人です。後者が町内居住者の4分の1を占めます。これでも減少傾向にあり、4年前の2019年2月の場合、町内居住者の約4割、2653人は住民登録のない人でした。
震災後、町内では、全国区の大手スーパーを核に飲食店など5店舗が入る『ひろのてらす』が開業しました。津波で浸水したJR広野駅東側の再開発で、オフィスビルやホテル、集合住宅が建ち、『広野駅東ニュータウン住宅造成事業』では、今後47区画の新たな宅地が売り出されます。中高一貫校の『ふたば未来学園』(生徒数594人)が震災後に開校し、国内屈指のサッカー施設『Jビレッジ』も再開しました。去年4月には文化交流施設『ひろの未来館』がオープンし、町振興公社では震災後に高級バナナの栽培を行っています。除染廃棄物置き場だった場所には産業団地を整備し、企業誘致を進めています。

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  はじめに、震災の2年後に再開した農産物直売所に行くと、2014年に取材した2人の女性が、70代となった今も働いていました。2人は帰還後、自ら作った野菜を販売していて、以前はこう言いました。

「戻ってきて初めて野菜を作った時は、まずは心配ですよ。セシウムがどの程度含まれているのか…。検査して安心だということで、自信を持って作れるようになりました。戻っていない空き家もあって、人と触れ合う機会もなかなか無いけど、ここに来れば 1日何人かのお客さん、誰かには会えますからね」

 あれから9年…。新たな工場も進出して客層の幅も広がったそうで、2人はこう言いました。

「工業団地に外国の人も働きに来てるしね。ベトナム、あとバングラデシュ…“今日は野菜少ないね”とか言われて。今は前よりもっと楽しいわ。お客さんも増えて、知らないお客さんも来るし。いい野菜を作れば消費者が喜んで買いに来るし、おしゃべりもできる、ここは憩いの場所みたいなものです。生産者はかなり高齢の人たちですけど、大学を出て野菜作りに挑戦している人たちもいますから、これからは明るい未来があるんじゃないかなと思います」

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 その後、夜にはJR広野駅の近くにある居酒屋を訪ねました。5年前にオープンした店で、60代の女性が営んでいます。女性はいわき市に避難後、震災翌年に帰還し、空店舗を借りて営業を始めました。2年前からは、町を活気づけようと自ら資金を負担し、町のキャラクター『ひろぼー』が描かれた“起き上がり小法師”を製作・販売しています。本場・会津地方の職人が伝統技術で作った品で、売上の一部は町の子どもたちのために寄付しようと貯金しています。この日、店のカウンターには、復興関連の仕事で東京から来た人や、土木関連の復興工事に携わる関西出身の常連さんがいました。

「震災後に店がみんななくなって、どこにも電気がついてなくて、電気がついたら少しは足元が明るくなるかな、人と関わり合えるかなって、そう思ってお店をやろうって…。第一原発に出張で来ている方とか作業員さんが来てくれて、その方がまた友だちを連れてきて、常連さんになってくれる人が多いです。みんないい方ばっかりで、助けられています。グッズの売り上げは、子どもたちのおやつ代にしてもらってもいいし、運動用具の一部に使ってもらってもいいし、何でもいいです。自分が育ってきた町ですから、これからは子どもたちに頑張ってもらって、広野町を元気にしてもらいたいです」

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 次の日、中心部から車で20分の箒平(ほうきだいら)地区へ行きました。ここには9年前に茨城県から移住した、70代の一級建築士の男性が暮らしています。道路復旧などの現場監督として、2014年に町に来たのが移住のきっかけだそうで、現場事務所だった建物を借りて住んでいます。家の前を流れる清流にはホタルが巣を作るそうで、自作のツリーハウスで昼寝をし、山や川の自然を満喫する毎日です。男性は、“やっと巡り合えた。こんないい所ないよ”と力強く言いました。農業体験で来町した東京の学生を自宅に泊めたことで交流が生まれ、今では月に1度、仮設の家づくりを教えるようになりました。

「地震の時に6畳の小屋がパッと建ってくれたら、とりあえず仮設ハウスになるから。俺の場合は3日で建つから、それも全部ビスで止めるから、ビスを外せば次の所に持っていけるんだ。俺が教えて、1人でも2人でも実践してくれる人が増えれば、やがて大きなムーブメントになると思うよ。広野町は私の理想郷です。山があって川があって海があって、隣の町には温泉がある、海の幸もおいしいし、他に何か要りますかって。ここで楽しくのんびり、若者と飯を食いながら建築を教える、それだけだね」

 その後、震災の2年後に再開したパークゴルフ場に行きました。広野町では、以前からパークゴルフが盛んです。月に一度は県内の愛好者が出場する大会が何かしら開かれていて、取材日の大会には町長も参加していました。スタッフが聞くと、“避難先や帰還後のコミュニティ存続のために、パークゴルフは欠かせなかった”と言いました。100人ほどが所属する地元のパークゴルフ協会には、80代や90代も結構いて、事務局長の80代の男性は、2013年に帰還し、現在は妻と2人暮らしだそうです。

「大会は他の地方から来た人ともお話できて、楽しみもあるのです。帰還がOKになって、パークゴルフ場も整備されて、それから帰還者も結構多くなりまして、このパークゴルフ場の意義というのは大きいですよ。やっぱり楽しむ所がないし、みんなとコミュニケーションを図る場所もないですから、パークゴルフ場に来てみんなでお話しするということ、交流が第一ですね」

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 最後に、津波で浸水した地域に行き、震災の年に取材した家を訪ました。広野町には約9mの津波が押し寄せ、320戸余が被害を受けました。家を訪ねると、不動産会社で働く30代の男性と、結婚したばかりの20代の奥様が出てきました。取材したのは当時70代の男性ですが、そのお孫さんだそうです。震災の7か月後に会ったその男性は、6年前、病気のために亡くなっていました。壊れた家の解体やがれき撤去が進まない中、男性は黙々と家の片づけをしていました。築3年の家には、人の目の高さぐらいに、浸水の跡がはっきり残っていました。

「復旧関係の人も全然入ってこない、ボランティアも全然来ない、そういう中で家族で片づけて…。事故の後、ようやく東京で一軒家を見つけてきたのだよ。そこに長男の車でみんなで避難して、そしたら車が“いわき”ナンバーだから、停めている間にタイヤをパンクされて…。だから俺はおもしろくないんだよ。この福島県から東京に電力を送っているのに、何でこんなことされなきゃなんないのって」

 お孫さんに聞くと、男性はいわき市の仮設住宅に入居し、2014年ごろに自宅の修繕が終わって帰還したそうです。その3年後に75歳で亡くなり、祖母も体調を崩して2019年に亡くなりました。

「震災後、祖父はずっと片づけをやっていましたね。祖母と一緒に。私は震災の年に高校を卒業して、すぐ東京の大学に行ったので、4年間、全然お手伝いもできなくて…。ここは代々、うちのおじいちゃんも引き継いでいる家だから、岡田家を継ごうってことで東京から戻ってきました。知らぬ間に復興していて、何もできなかった自分が悔しいですし、悔しかった分、いま広野町で不動産業者ってことで、少しでも多くの人を町に誘致して、みんなの役に立ればと思っています。広野町も“まだまだこれから”って感じで、私たちに新しく生まれる子どもが大人になるまでには、若い者の力で、みんなで手を取り合って、広野町を盛り上げていきたいです」
 
原発事故という大きな災禍はありましたが、こうした声を聞くと、目指すべき明るい未来も確かにあるのだなと思わされます。