【キャスター津田より】2月11日放送「岩手県 陸前高田市」
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今回は、岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市です。宮城県との県境にあり、人口は約18000です。震災で1700人以上が犠牲になり、約4000戸が全半壊しました。仮設住宅から全員が退去するまで丸10年かかっており、県内の自治体では最後となりました。
震災後、高田(たかた)地区や今泉(いまいずみ)地区では周囲の山を切り崩し、総延長およそ3㎞の巨大ベルトコンベヤーで土を運び、広大な市街地全体を10m以上かさ上げしました(盛り土、切り土の総量は東京ドーム9個分と言われる)。切り崩した山は高台の新興住宅地に姿を変え、平地と高台をあわせ、2地区の約300haに1400戸以上の宅地を整備しました。2017年に災害公営住宅が全て完成し(11団地895戸)、去年暮れには、道路や橋など市内の公共インフラの復旧も全て完了しています。約7万本の松がほぼ全て流され、砂浜の9割を失くした国の名勝・高田松原(たかたまつばら)も、おととし砂浜の再生が終わって10年ぶりに一般開放され、4万本の松の植樹が完了しました。
現在、市中心部には、大型商業施設「アバッセたかた」をはじめ、店舗や事業所など100軒近くが再建されています。市立図書館、市民体育館、市民文化会館、県立高田病院、そして高田松原運動公園や道の駅・高田松原、さらに陸前高田市立博物館などもリニューアルされました。
ただ、“被災地最大の工事”といわれるほど事業規模が大きく、工事が長期化して住民が別の土地に流出しました。かさ上げ地では民有地と市有地の土地利用率が5割に届かず、空き地が目立ちます。
はじめに、去年11月にリニューアルオープンした陸前高田市立博物館に行きました。56万点あった収蔵品のほぼ全てが津波で浸水もしくは流出し、震災の20日後ぐらいから、文化財の回収や修復が始まったそうです(救出した収蔵品は46万点、現在、30万点まで修復処理が終了)。自宅を流されたという主任学芸員の50代の男性は、両親や妻子は無事だったものの、当時4人いた学芸員のうち、自分以外の同僚3人が帰らぬ人となりました。思い入れがある展示品は、“アカショウビン”という鳥のはく製で、小学校の窓にぶつかって死にましたが、珍しい鳥のため博物館で引き取ったそうです。修復した『陸前高田の漁撈(ぎょろう)用具』は、国の重要有形民俗文化財になる見通しです。
「震災後、“高田の化石を持っているから、展示に使ってね”って、わざわざ持ってきてくれる方がいたり、以前と変わらず、市民の皆さんには支えられてきました。再開後に来館されて、“残してくれて、ありがとうね”と言われた時は、涙が出そうでした。アカショウビンは、“おらほのアカショウビン元気ですか”って、子どもたちが見にくるんですよ。博物館と子どもをつないでくれた標本だったので、津波でドロドロになったんですけど、“何とかしてほしい”とお願いしたんです。修復のために被災した資料が日本全国に行きましたが、これが一番最初に返ってきました。いろんな方に助けていただいて、“ありがとうございました”という言葉しか出てきません。博物館に物を託そうと思った人の気持ち、それを残そうと頑張った人の気持ち、そういうものがすごく詰まった博物館です」
次に、小友(おとも)地区に行き、400年の歴史がある寺を訪ねました。住職の男性は市職員も兼務し、奥様は民生委員をしています。ともに50代で、震災では3人の子どもを含め、家族は全員無事でした。震災後の約5か月間、夫婦は寺を避難所として開放し、一時は150人が暮らしました。プロパンガスで5升炊きの炊飯器もあったため、炊事も十分可能だったそうです。2人はこう言いました。
「宗派が違っても、あまり交流がなかったとしても、一番大変な時期に門を閉じるんじゃなくて、開いて、やっぱり助け合いながら乗り切れたというのは、ここにお寺がある意味を再確認できました。避難してきた皆さんは、今もちょくちょく顔を出してくださって、全然知らなかった人とも“元気ですか”ってあいさつしたり、会話するぐらいの関係性になりました。震災から12年になりますが、やっぱりどこかで満たされない思いをずっと抱えている人が、必ずいるんですよ。こういうお寺だったり、心のケアをやっている団体さんなり、何でもいいんですけど、心の部分をどんなふうにして支えていけばいいのか、これからさらに12年という時間をかけてでも、やらなきゃいけないと思います」
そして高田地区で、8年前に取材した人を再び訪ねました。リンゴ農家の70代の男性で、25年間育てた約120本のリンゴの木を津波で全て失い、家も流されました。全国の知人やボランティアが復旧を手伝い、震災後初めて収穫を迎えたのが、ちょうど私たちが訪ねた年でした。男性はこう言いました。
「結構採れましたけど、全部、支援してくださったところに届けさせてもらいました。自分1人では生きられません。みんなに生かされています」
あれから8年…。男性は、いったん入居した災害公営住宅からリンゴ畑の隣の家に夫婦で引っ越し、栽培を続けていました。10月頃に採れるリンゴの半分ぐらいは、今でもお世話になった方々に届けているそうです。この8年、男性は支援への感謝を忘れず、期待に応えようと栽培面積を拡大してきました。現在、リンゴの木は300本に増え、毎年4~5トンを収穫しています。
「できたものをお客さんに届けて、それで喜んでいただける、それが一番やりがいがあるんだなって感じます。写真を撮って、お客さんにハガキで“こういう状況です”とお伝えしたり、“赤ちゃんリンゴができました”とか、面白おかしくお便りを出してね。震災で日本全国の方から、また国、地域からも支援や応援をいただいた…それを絶対忘れちゃいけない。忘れないように努めなさいと自分に言い聞かせながら、生きていきたいです」
その後、震災前はしょうゆや味噌の醸造元が集まっていた今泉地区に行きました。かさ上げしたエリアでは、3年前に“発酵”をテーマにした商業施設がオープンしています。出店しているのは、しょうゆや味噌、ビールやパンなど、発酵を活用してつくる食品の店で、休日は観光客も多く訪れます。設立メンバーの1人、70代の男性は、震災前は自動車学校を経営していました。
「津波があって、どうしようもない状況の中で、みんなで協力していかなければいけないと、それぞれ考えたはずです。それでこういう結果になっています。震災前は、ここに発酵を生業にしていたお店が並んで、味噌、しょうゆ、お酒、麹とか販売していました。もう一度、発酵文化を取り戻したいなと…。ボランティアがここにいっぱい入ってきたじゃない。縁もゆかりもない人たちが、我々のためにね。今度は我々が発信していく、目的に向かって、どうやって行動していくかということが大事だね」
実は震災後、市内には一風変わった施設がいくつかできました。農業がテーマの観光施設や海藻の陸上養殖施設、また市が特産化を目指す、北米原産のピーカンナッツの苗木を育てる施設もあります。
最後に、市内で桜の植樹を行う30代の男性に会いました。桜を植える場所は東日本大震災の津波到達点で、震災を語り継ぐ手段として植えています。2歳と6歳の2児の父親で、植樹活動や市の移住・定住事業を受託するNPOを運営しています。高校卒業後に故郷を離れ、震災当時は東京で建築デザインの仕事をしていました。実家の両親と祖母は震災で無事だったそうで、発災の2か月後には仕事を辞めて故郷に戻り、避難所運営を手伝う組織を設立しました。これまで市内395か所に2052本を植え、地元の子どもをはじめ、全国から集まる植樹ボランティアは、のべ7600人以上になりました。
「東京で好き勝手に生きてきたわけですよ。一方で、地元で頑張っている同級生とか後輩がいて、震災で彼らから命を落としているんですよね。地元のために頑張っている人から亡くなって、東京で好き勝手生きている連中が生き残った…この事実を認識した時、彼らのために何ができるか、自分にしかできないことをしっかりやろうと考えると、退職というのはすぐ結論が出ましたね。桜並木ができれば、全国から多くの人がお花見に来て、“この街って、何で桜で有名なんだっけ?”という話になるわけで、その時に初めて震災という言葉が出てくる…。陸前高田市イコール、今は津波かもしれませんけど、50年後、100年後には、陸前高田イコール、桜になってほしい。震災があって、陸前高田にいても、日本全国、海外の方ともつながって仕事ができると、すごく感じます。震災前の陸前高田にはない、震災があったからこそできた価値だよねと思います。“ここで生きていきたい”と思える街をつくりたいです」
桜の植樹は、何十年か後に全国から花見客が訪れ、そこで初めて話を聞いて、図らずも震災に触れる…というストーリーになっています。市内には来館者50万人を超えた『東日本大震災津波伝承館』がありますが、興味のある人が訪れる施設型の伝承と違い、桜の植樹は実に効果的な震災伝承プランです。