【キャスター津田より】1月21日放送「宮城県 南三陸町」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 1月17日、阪神淡路大震災から28年になりました。追悼行事のニュースを見ていると、同じような経験をした東北の人間だからこそ、この震災を忘れまいと肝に銘じるような気持ちになります。犠牲になられた皆様を悼み、早朝のニュースを見ながら黙祷させていただきました。

230121_1.jpg

 今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。人口が約12000で、震災では831人が犠牲になり、住宅被害の9割以上が全壊で、3143戸(全住宅の約6割)が全壊しました。
 集団移転の宅地造成(28団地827区画)や、災害公営住宅(全738戸)の整備、中心部の土地区画整理は完了し、役場庁舎、公民館、図書館、学校、保育施設、警察署、魚市場の復旧や新設も完了するなど、復興事業は終わっています。スーパーやホームセンター、ドラックストアも出店し、新しい公立総合病院(10診療科・病床数90)もあります。2017年には海水浴場が再開し、仮設商店街を前身とする“南三陸さんさん商店街”(28店舗)と“南三陸ハマーレ歌津”(7店舗)もオープンしました。民間のワイナリーも開設され、2020年には被災当時の姿を残す防災対策庁舎を中心に、震災復興祈念公園も開園しました。去年は新たに、震災伝承施設“南三陸311メモリアル”もオープンしています。

230121_2.jpg

 はじめに、新しい伝承施設の向かいにある、移動販売のたこ焼き店を訪ねました。店主は81歳の女性で、自宅と店舗を流されました。現在は夫婦で災害公営住宅に暮らし、週6日、店を出しています。震災前は弁当の製造販売を中心に、たこ焼きとソフトクリームも売っていたそうで、現在の移動販売の車と調理器具は、次男からのプレゼントだと言いました。

 「公営住宅は狭いし、何もすることがないから、息子たちが“たこ焼き、やったらいいんじゃない?”って。資本金もないって言ったら、息子が“応援します”と…。おかげさまで自分の生きがいをもらいました。しばらく会ってない人が来たり、“昔あそこでやってたよね”とか、“学校の帰りによく食べたよ”って言ってもらうと、本当にうれしいし、張り合いがあるね。皆さん高台に入って、なかなか下(=中心部)に下りて来ないね。高台から通勤したり、車のある人以外は、その枠の中で生活しているの」

 町の復興計画は、高台移転が柱でした。山を削って高台に集団移転団地や災害公営住宅を整備し、建物がほとんど流された低地は、10m前後かさ上げして商店街や水産加工場が並ぶエリアとなりました。働く場所と住む場所の分離を徹底したため、例えば“さんさん商店街”は常に多くの人で賑わい、大型連休はテーマパーク並みの人出ですが、ほぼ全て観光客で、その中に地元の方はいないのが現状です。

230121_3.jpg

今度は高台の団地に行き、9年前に仮設住宅で取材した夫婦を再び訪ねました。被災後の町は新たな土地が限られていたため、仮設住宅は隣の登米市(とめし)にあり、ご主人は“1日も早く戻りたい、そのような環境を整備してほしい”と、くり返し言っていました。取材の3年後、2人は仮設住宅を出て町に戻り、高台に新築した家に移り住んだそうです。現在はともに70代後半で、近隣住民を集めては、毎朝グラウンドゴルフを楽しんでいます。2人はこう言いました。

 「このエリアでは一番早く戻って来たの。でも、それこそ何か月も我が家1軒で、イオンとか生協の移動販売もまだ来なかったし、最初は大変でした。この近所、3組くらいしか夫婦がいないの。後はみんな独身の高齢者。話す相手もいない、そういう日常の生活から外に出てきて、みんなと体を動かして会話して、これが有意義なのね。大事にしていきたいです。コミュニティの確立は、これから本番ですよ。みんな高齢だから、外に飲みに行くなんて気持ちもあまりないし、今ここにいる中で、楽しめることをせいぜい楽しんで、お互いにコミュニケーションを取って余生を送りたいなって思いますね」

 前述のように、いわゆる“職住分離”を徹底して高台移転を進めた結果、車の運転を負担に感じる高齢者などは、タクシー移動では費用がかさんだり、町民バスは利便性に限界があったりするため、生活が高台に限られてしまいます。町の人口は震災前から3割減り、ほぼ3人に1人が65歳以上という構成です。高台でのコミュニティ形成は、ご夫婦のおっしゃる通り、喫緊の課題です。

230121_4.jpg

その後、中心部に戻り、震災後に再建した海産物店に行きました。津波で店を流されましたが、元の場所の近くにこだわり、4年前に新店舗を構えました。経営するのは70代の男性と同じく70代の義姉で、高台からわざわざ買いに来る常連客もいるそうです。ただ、“さんさん商店街”から少し外れた立地で、周囲に住宅もないため、震災前より客は減少しました。2人はこう言いました。

 「何十年も店の土地があった所だし、長年いた所だから捨てられなかったの。海の見える所が一番お客さんも来るし。売り上げは落ち込んでいますね。だけど、それを頑張っていかなきゃならない。一番の心配は物価です。原料から資材から、全部上がっているような感じで…。昔、ここは“おさかな通り”って言って、一番賑わっていたんです。震災後は歩く人も少なくなって、寂しい気持ちになります。でも、明るい希望を持って、徐々に変えていくしかないのかな…一人だけではできないけどさ」

 町によれば、473の被災事業所のうち、再開したのは6割強の294です(他は廃業など)。コロナ禍により“観光客は水物だ”という本質が社会的に明らかになり、やはり地元客が欠かせない訳ですが、町では人口が減り、購買力そのものが落ちています。事業者が直面するのは、根本的な課題です。

230121_5.jpg

そして、中心部から離れた歌津(うたつ)地区にある漁港に行き、9年前に取材した、当時20歳の漁師の男性を再び訪ねました。高校卒業後、父のもとでワカメ養殖などに携わっている若者で、家族は無事でしたが、自宅や船、作業小屋を流されました。以前、男性はこう言いました。

 「まずは家族に恩返しがしたいです。苦しい時、一番先に手を差し伸べてくれたのが家族だったので。親父も自分の中では、すごく憧れなんですよ。家族を守ってきて、震災の時も守ってきて、今こうやって暮らしていけるのも、親父の存在がすごくでかいので…。これからも一緒にやっていけたらと…」

 あれから9年…。男性は今も、父親と養殖に励んでいました。最近は、作業を1人で任される機会が増えたそうです。5年前、父親は高台に自宅を再建し、震災で失った船も購入しました。

 「9年…あっという間でした。防潮堤ができたり、岸壁が広くなったり、町の風景も日々変わっている感じだったので、それがようやく落ち着いてきたのかなと思います。恩返しですが…父親と母親を温泉に連れていくことができました。岩手県の花巻(はなまき)市に1泊2日で行ってきて、体を休めてもらいました。珍しく父もお酒を飲んでご機嫌だったので、2人のために半年前から貯金して企画したんですけど、頑張って良かったと思います。仕事には、誇りとやりがいを持っています。漁師としても人としても、成長して頑張っていきたいです。やらなくちゃいけないという決意みたいなものも感じます」

 最後に、同じ歌津地区で、震災遺族のご夫婦からも話を聞くことができました。ご主人が70代、奥様が60代で、役場職員だった長男(当時29歳)を津波で亡くしました。避難所開設のため、地元の中学校に走って向かう途中、帰らぬ人となりました。次男は結婚して家を離れ、現在は三男と暮らしています。2人は近くにある慰霊碑を月に1度は訪れて、手を合わせています。8年前に再建した自宅には長男の部屋もつくり、たった1枚残った顔写真を居間に置いています。ご主人はこう言いました。

 「はじめの2~3年は、1日に1回は泣いていたんですよね。何で息子が…というのがありますね。本当に気持ちとしてはやるせない、この気持ちをどこにぶつけていいんだか、そういう感じでした。今でも思い出していますけども、忘れようと思っても忘れられない、一つも忘れられませんね。写真も必ず置いてるんですよ。家族がずっと一緒にいるようにって。部屋は作ってやんなきゃ…家族としての思いやりっていうのかな。だから必ず毎日、この部屋に来ていますよね。今の楽しみは…そうですね、次男のところに孫が2月に生まれますので、誕生を心待ちにしております」

 南三陸町では大半の町民が、身内かそれ以外かを問わず、知っている人の誰かを津波で亡くしています。次の3月11日は十三回忌です。ご遺族にとって大事な命日がやってきます。