【キャスター津田より】11月26日放送「宮城県 女川町」

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 今回は、宮城県女川町(おながわちょう)です。人口は約6000で、震災直前の2011年2月と比べて40%も減っています。震災では最大14.8mの津波に襲われ、800人以上が犠牲になりました。住宅の約9割が被害を受け、被害のうちの75%(3000棟近く)は全壊です。
 復興事業はほぼ完了しており、町は防潮堤の背後をかさ上げして市街地を造成し、住宅地を高台に集約しました。4年前に災害公営住宅(859戸)の整備が完了し、3年前には集団移転事業の12地区、土地区画整理事業の4地区で宅地の供給も完了しました。この年、仮設住宅の入居者がゼロになりました。
 以前から女川といえば、カキやホタテの養殖、中でもギンザケの養殖が有名です。サンマは近年不漁ですが、全国有数の水揚げ港として知られてきました。5年前には魚市場が復旧を終え、全面稼働しています。震災後、小学校や中学校の統合を経て、2020年には新しい小中一貫教育の学校が開校しました。

 

 はじめに、役場から車で20分の野々浜(ののはま)漁港に行き、震災のひと月後に避難所で取材した夫婦を訪ねました。現在どちらも70代で、今がちょうど出荷シーズンの、カキ養殖を営んでいます。ご主人の養殖歴は半世紀にわたり、津波被害を免れた船で今も海に出ています。津波では自宅と作業場を流された上、奥様は親しい友人たちも亡くし、以前の取材でこう言っていました。

 「生かされた命だと思いますけど、仲良くしていた友だちも何人か亡くなって、まだ遺体も見つかっていない…そういうのを考えると切ないですね。人のありがたみを、この年になって本当に感じました」

 震災の2年後、夫婦は養殖を再開しました。さらに2年後には、仮設住宅を出て高台の災害公営住宅に入居しました。奥様の友達の遺体はまだ見つかっておらず、今回、スタッフにこう言いました。

 「会いたいです。いつも付き合っていた友達が急に亡くなったのが、今でもちょっと信じられないです。今が“普通”というのが一番大事だったんですよね。普通が無くなったんだもんね」

また、ご主人はこう言いました。

 「過去を振り返ったってどうにもならないし、“とにかく前に進む以外にないな”と思いながらも、途方に暮れていた…というのが現実だったと思います。ただ、世間の人たちにいろいろ励ましの言葉をもらって、それで“何とかしなきゃいけないんだ“という気持ちに変わってきたのは事実でしたね。やっぱり、あの震災後に辛抱してこの集落に残ったことが、今となっては一番の幸せなんでしょうね」

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 次にスタッフは、同じく震災のひと月後、別の避難所で取材した老夫婦を訪ねました。現在は小乗浜(このりはま)地区の災害公営住宅(全15世帯)に住んでおり、長男と3人暮らしです。自宅は津波で跡形もなく流され、当時、避難所だった1軒の旅館には、付近の4つの集落から約190人が避難していました。ご主人はこう言っていました。

 「私はもう80歳近いんで、みんなから“いいから、そんなことしなくても”と気をつかってもらいます。みんなで仲良く生きていかなくては、人間だめだと思います」

 その後、2018年に2人は一戸建ての公営住宅に入居しました。最近、コロナ禍で中断していた住民交流も再開し、2人よく集会所に通い、社会福祉協議会が主催する小物づくりの活動や茶話会、運動などを楽しんでいるそうです。89歳になったご主人はこう言いました。

 「集落のみんなで手をとって、生活してきたんです。みんな、きょうだいと同じですよ。よくここまで…みんな助け合ってやってきたと思います。今の暮らし?…苦しいことはないね」

 また、86歳になった奥様はこう言いました。

 「年をとって、2人で楽しい生活をしていきたいなって…ただ、そういう気持ちです。あと何年生きられるか分からないし、この公営住宅でも、15軒なんですけど1人亡くなったので、とにかくここにいる人たちで、楽しい生活をしていきたいです」

 目下、奥様の心配は移動手段だそうです。高台の団地と中心部の各所を結ぶ5路線の町民バスのうち、2人の住む小乗浜を含む路線は、一日に片道3便しかありません。奥様は今も運転免許を更新しています。

 

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 さて、女川町では2015年にJR石巻線が全線開通し、女川駅前に造成した市街地に“シーパルピア女川”という商業エリアがオープンしました。翌年にはその中に、観光市場の“ハマテラス”が開業し、飲食店を中心に計40店舗ほどが並んでいます。今回ここでは、震災前から評判だったという焼き鳥店を訪ねました。60代の店主夫婦は奥様が中国東北部の出身で、本場の中国料理もメニューに並び、大人気です。以前の店は津波で流され、自宅も2階まで浸水しました。2人は親戚を頼って仙台に避難し、ご主人は焼き鳥店、奥様は別の場所で中国料理店を始めました。女川に戻りたくても希望通りの店舗物件が見つからず、10年経ってようやく“シーパルピア女川”内に空き物件が出て、故郷で店を再開しました。発災時、ご主人は隣町にいて、津波という日本語も知らなかった奥様は、自力で避難したそうです。

 「妻は車で、海のほうに坂を下りていったんですよ。それで途中、おばさんに“津波来るから戻れ、戻れ”って言われて、車を置いて逃げて助かったんです。女川に戻ってからは、やっぱり海が見えるのが一番いいですね。家から来る途中も海が見えるし…。あの津波の光景は今でも目に浮かびますよ。でも、こっちに戻ってきて、こういう新しい街になって、もう思い出さなくていいやって感じですね。夫婦2人で助かったし、あと何年か分からないですけど、妻と共に生きたいと思います」

 中心部では他にも、町内唯一の薬局が開業し、一昨年には町で唯一のスーパーも9年ぶりに再開しました。町が整備した海岸広場には、スケートボードや自転車競技のBMXを楽しめる屋外パークも完成しました。11年前、町のほぼ全てが壊滅した女川は、かさ上げや集団移転、中心部の再開発など大改造を行い、以前の面影がほぼ無い姿に変わりました。その姿に鼓舞されて前向きになる人がいる一方、これまで女川で会った人の中には昔の面影を懐かしむ人もかなり多く、何とも複雑な気持ちです。

 

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さらに、絵本作家の直筆画を展示している夫婦がいると聞き、中心部を離れて向かいました。60代の夫婦で、ご主人が女川町出身です。実家は流失し、両親が亡くなりました。長く福島県職員として働いてきましたが、定年を機に女川に新たに家を建て、今年7月に福島から移住しました。

 「両親には、“60歳で定年退職したら、女川に帰ってくるからね”という話をしていたんです。きょうだいが女川に帰ってきた時に、泊まる場所を長男として作ってやらなきゃだめだと思ったもんですから、女川に家を建てて戻りました。10年という、ちょっと時間かかりましたけどね」

 奥様は元・図書館司書で、長年、直筆画の展示会を企画してきたそうです。有名な絵本作家から新進気鋭の絵本作家まで、多くの直筆画を自費で購入し、70点ほどを自宅の一部を使って展示しています。

 「作家の方々って、命、生きることを大切にして描いている方が多くて、その思いが絵本の中にたくさんあるんです。それを見て、“生きる”ってどんなことか、“前に進もう”ってどんなことか、女川の人たちが元気をもらえるかもしれないと思っています」

 

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 最後に、過去に町の中学校に務めていた先生の講演会があると聞き、行ってみました。社会科担当で、生徒と一緒に町内に石碑を建ててきた50代の男性です。現在、女川町の21か所には、震災の津波到達点を伝える石碑が建っています。“この石碑よりも上に逃げてください”という文字が、特に目を引きます。きっかけは、この先生が行った“津波被害を最小限にする対策”という授業で、震災の年に石碑建立のプロジェクトが始まりました。資金のために生徒たちは募金活動を行い、修学旅行先の東京でも街頭募金をしました。総額で約1000万円を集めたそうで、成人となった今も活動を続けています。

 「子どもたちの議論では、記録を作っても、高台に避難できる町をつくっても、“津波から逃げない”って言う人がいるし、逃げない人にも必ず家族も親友もいるんだから、その命を守るためには“絆”のある街をつくりましょう、という話も出ました。子どもたちは石碑ができて、“これは終わりではない”って言ったんですよ。“ここからスタートだ”って。1000年後の命を守る…これが合言葉です」

 当初目標にした21基まで石碑を建てましたが、22基目も建てたいと言います。また、この活動を伝えていくための祈念館の建設も目指しています。