【キャスター津田より】7月30日放送「福島県 葛尾村」

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 7月中旬の大雨は、東北各地に大きな被害を及ぼしました。特に今回は宮城県の被害が深刻で、15日夜から16日にかけての記録的な大雨で、床上・床下浸水を中心に県内の住宅被害が1500戸近く、農作物の冠水は15市町村に及び、河川、道路、水産、林業など、宮城県の被害額はあわせて141億円です(7月28日現在)。中には、豪雨や台風により、この7年のうちに3回浸水した地域もあります。
スタッフ一同、心よりお見舞い申し上げますとともに、一刻も早い復旧を切に願っております。

 さて今回は、福島県葛尾村(かつらおむら)です。人口1300あまりの山あいの村で、原発事故により全村避難しましたが、6年前に避難指示が解除されました(帰還困難区域は除く)。現在、少ないながらも店や食堂があり、生協による宅配サービスや診療所もあります(診療は曜日限定)。小中学校や幼稚園が再開して4年が経ち、肉牛の生産、牛乳や卵の出荷も行われ、コメの作付けは震災前の4割近く(約49ha)まで戻りました。去年、コメの乾燥や貯蔵を行うライスセンターも完成しています。

さらに村では今、中心部に約100人が暮らせる新たなエリアの整備に乗り出し、集合住宅や子育て世帯に対応した一軒家を建てる予定です。今年3月には、移住相談や空き家のあっせん事業を行う“移住・定住促進センター”も開設しました。特産化を目指したコチョウランや羊肉の生産、エビの陸上養殖の実証試験も始まっています。産業団地は2カ所が完成し、ニット製品や木材チップの工場が進出して、残る区画もほぼ全て埋まる見通しです。

また、先月12日には、帰還困難区域の野行(のゆき)地区の一部(=優先的に除染などを進めた“復興拠点”と呼ばれる区域。地区の6%にあたる95ha)でも、避難指示が解除されました。ここでは、去年からコメの試験栽培も行われ、ホウレンソウやコマツナなど、一部の野菜は出荷が可能です。しかし、解除範囲にある30世帯のうち、帰還希望は4世帯で、そのうち実際に帰還したのは2世帯です。

 はじめに、野行地区に帰還した2世帯のうち、60代の夫婦を訪ねました。奥様が葛尾出身で、高校を出て上京し、東京出身のご主人と出会いました。東京で30年以上暮らした後、奥様の故郷に移住しましたが、そのわずか4か月後、避難のため東京に逆戻りしたそうです。それぞれの母親と4人で野行地区に住む予定でしたが、帰還前に母親2人は他界しました。避難中の心の支えは福島県内に避難した奥様の兄や姉で、夫婦の自宅に頻繁に通い、家を維持・管理してきたそうです。奥様はこう言いました。

「せっかく住もうと思って建てた家なのに、原発事故があって“住めるまで、あと10年かかるよ”と言われて、それが一番ショックでしたね。私よりショックだったのがお父さんで、しばらくうつ状態になって、ぶつぶつ言っていましたね。ここまで住めるようになったのは兄夫婦や姉夫婦のおかげで、本当に2人だけでやっていけるのか不安はありましたけど、いざここに住んでみたら、兄や姉もしょっちゅう来てくれて、寂しさっていうのは今のところないですね」

 ご主人も“家があるだけじゃ帰って来られない”と語り、兄夫婦や姉夫婦の存在に感謝していました。

次に、去年5月にオープンした観光ヤギ牧場に行きました。1.5haの敷地で80頭ほどのヤギを飼育し、散歩やエサやりなどを体験できます。代表は70代の男性で、震災前は夫婦で養豚業を営んでいましたが、原発事故で廃業しました。村の再生に協力しようと、仲間と共同出資して会社を起こし、土地を借りて牧場を開いたそうです。ヤギに着目したのは子どもの頃の思い出が理由で、男性は3歳の時に家族とともに満州から引き揚げて葛尾村に入植しましたが、戦後はどの家もヤギを飼っていたそうです。

「まだ小学生になったばかりで、ヤギの乳搾りが日課でした。入植した当初は、母親のおっぱいが出ないという人がかなりいて、ヤギの乳で育った人が結構いましたね。村を活性化するには、人を集めなくてはどうしようもない。だから葛尾村にこういう場所があれば、いろんな所から人が集まって、それなりに村にもいくらか落としてくれますし…。子どもたちが喜んで騒いでいるのを見ると、こっちも心が和みます。なかなか都会では自然に囲まれ場所はないし、ここは空気もいいし、本当に喜んで、気に入ってもらえる場所になるよう、ふるさとは大事にしておきたいです」

 その後、5年前に再開した、村の中心部にある食堂に行きました。創業50年以上で、避難先では6年間、仮設店舗で営業しました。名物は700円のチャーハンで、普通の1人前でも1㎏近くあります。3代目の30代の男性に聞くと、お腹いっぱい食べてもらうため元々多めでしたが、お客さんから盛りの良さを褒めてもらううちに後に引けなくなり、さらに支援物資でもらった皿がやや大きめで、皿にあわせて作るうちにますます大盛りになったそうです。

「やっぱり慣れた土地だし、みんなから感謝されるし、除染関係や復興関係のお客さんも食べる所がなかったんで本当に喜んでもらえて、戻って来てよかったです。過疎化が一気に進んだので、いま村をPRしようと団体を組んでやっている若い人たちもいますし、私は“食”という分野で少しでも支えていけたらと思います。震災前でも震災後でも、食べる顔って同じだなと思いました。食べている時に怒っている人はいないですから。笑いながら楽しそうに、食べてくれるし…。おじいちゃんが始めて、ずっと続けてきたお店なので、“こっちに来たから寄って行こうか”って、ふるさとの一部分として、懐かしい場所になっていけばいいなと思います」

 さらに、村役場から車で5分ほどの野川(のがわ)地区に行き、5年前に取材した農家を再び訪ねました。コメやソバを栽培する60代の男性で、農地管理などを行う会社を設立し、避難先から通いながら村内の田畑を耕し、草刈りなどの手入れをしていました。当時はこう言いました。

「以前に耕していた所は全部、元どおり耕したいんだ。そういうふうになれば最高だね。葛尾村で農業をやっていけるんだってことを、みんなに見せてやりたい」

 今回、改めて男性に聞くと、取材の2か月後に夫婦で村へ帰還したそうですが、63世帯あった集落で、帰還したのは28世帯でした。会社は今も継続しており、避難した家の土地を借りて耕作しています。栽培面積は前回の10倍以上(14ha)になりましたが、物価高で大きな打撃を受けているそうです。

「以前は集落全員、コメを作っていたけど、今は7人くらいしかいないよ。帰ってきたけど、寂しいもんだもの。ここじゃ誰にも会えないし、話し相手もいないし、避難先は友だちがいて毎日出歩いていたのにね…。それでも住んでいるのは、やっぱりここが生まれた所だからよ。なんだかんだ言っても、ここが一番落ち着し、生まれた所が一番いいよ。不安なのは、これからの農業がどうなるのか…化成肥料の値段がとにかくもう、上がりに上がって、燃料代も軽油だって40〜50円高くなっているでしょう。何とか落ち着いてくれるといいんだけど、これじゃとても頑張り切れないもんな」

 昨今の物価高とコロナ禍で、すっかり復興が逆戻りしたと語る被災地の方は多く、大きな問題です。
 
最後は葛尾村を離れ、村出身の高校2年生の女子生徒から話を聞きました。避難開始時は5歳の幼稚園児で、その後、一家は避難先の田村(たむら)市に新居を構えました。現在、人口の65%は避難先などの村外に住み、村内居住者は35%(460人ほど)で、その半分は65才以上と言われています。彼女は自ら設定した課題について調べる授業で、葛尾村の魅力を取り上げました。前述の食堂や村内にある磨崖仏(まがいぶつ)まで、村の様々な場所を取材して、他の生徒の前で発表したそうです。

「自然の匂いは違いますよね。建物がいっぱいある所の空気と、本当の自然の空気では…。やっぱり葛尾村の自然はきれいだったんだなって思うようになりました。村にいる半分以上が高齢者って言われて、このままじゃ村がなくなっちゃうんじゃないかと思って、葛尾村をずっと好きでいてくれる人が現れたらいいなって思います。今年と来年は同級生に村に行ってもらって、こんな所がよかったという意見を集めて、その場所をアピールポイントにしてツーリングコースを作りたいと思っています」

彼女が最近一番うれしかったのは、幼稚園で仲良しだった子の連絡先が分かったことです(避難後の消息が分かるのは2人だけ)。村を離れることは、決して村との縁が切れることではなく、5歳で避難した子どもでさえ、村との繋がりを深めようとしています。葛尾村は避難指示が出た自治体の中で一番小さく、少ない人数で助け合って生きてきました。だからこそ、村への愛が薄れないのだと思います。