【キャスター津田より】9月10日放送「宮城県 気仙沼市」
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今回は、宮城県気仙沼(けせんぬま)市です。人口は約59000で、震災で1400人あまりが犠牲になり、被災家屋は15000棟以上です。5年前に災害公営住宅の整備が完了し、3年前には集団移転の土地整備が完了しました。市内4地区(約90ha)の土地区画整理事業も完了し、2年前にプレハブ仮設住宅の入居者がゼロになりました。市中心部の内湾(ないわん)地区では、震災後に大きな観光施設や商業施設が4つも完成し、様々な飲食店やビール醸造所、高級食パン店など、震災前にはなかったタイプの店が数十軒も並んでいます。一方、土地区画整理事業の完成延期が続いたため、元々あった店舗や住民の流出に拍車がかかりました。内湾地区の商店街は8つから2つに減り、町の姿は一変しています。
2019年、離島・大島(おおしま)と本土を結ぶ『気仙沼大島大橋』が開通し、去年は『気仙沼湾横断橋』が完成して三陸沿岸道が全線開通しました。現在は青森県八戸(はちのへ)市から、気仙沼を通って仙台まで高速道路がつながっています。
はじめに、市の南部にある本吉町(もとよしちょう)に行き、11年前に取材した70代の男性を訪ねました。定置網の漁師で過去には船頭も務め、高台の自宅は津波を免れたものの、船は損傷し、漁具は流されました。前回はがれき撤去の現場で、こう言いました。
「生活の糧は100%海でしたから、現状を見るとまだまだ手がかかるところがいっぱいあるんですけど、この先、元に戻れば“本当にいい場所だな”って改めて分かると思います。我々の集落の子どもたちもまだまだいっぱいいるんで、海だけは子どもたちに絶対残さなくてはいけないと思います」
今回、11年ぶりに男性に会うと、まだまだ足腰もしっかりしており、朗々とした声で話をしてくれました。震災の2年後に漁を再開し、今も漁に出ているそうです。
「あの時は、何年かかるんだろうと思ったんですが、昔の人たちもここで生活してたんだから、ここを離れられないっていう気持ちで、頑張ろうと思ってやってきました。おかげさまで私どもの定置網にも、30代、40代、1人若い女の子もいますけど、若い人たちが入ってきて、何とか、この先も長くできるかなって気がしています。小中学校や幼稚園の子どもたちに、定置網漁の見学なんかもやっています。楽しいですよ、本当に。毎日、沖に行ってね、“何の魚が入ってるかな、どれくらい入ってるかな”って、毎日が冒険みたいなもんですから。みんな健康でいれば、何でもできる!という気持ちがあります」
次に、市の東端にある唐桑町(からくわちょう)に行き、震災の11日後に出会った10歳の男の子を再び訪ねました。男の子は自宅が津波で全壊し、避難所となった福祉施設でこう言いました。
「地震が来て校庭でしゃがんだら、しゃがんだところがビリって割れて…。津波でいつも通っていた道がどこだか分からなくて、意味が分からなくなって、真っ白で、いつもの地区じゃない感じでした」
あれから11年…。男の子は21歳になり、6年前に高台に再建した家で両親と暮らしていました。現在は水産加工会社に勤め、気仙沼の海産物の営業をしています。
「昔は、歩いて5秒くらいで砂浜に着いて、海に入るみたいな…やっぱり気仙沼は、海が近くにないと落ち着かない人がほとんどじゃないですか。皆さん高台に移転しちゃうと、海を避けているような気がして寂しいですね。遠くにいる友だちと話した時、“帰りたい”とか“早く戻りたい”と言うのを聞くと、“ここにずっといられるって幸せなんだな”と感じるし、反面、“僕もちょっと遠くに行きたいな”と思ったり…幸せな悩みですね。充実しているからだと思います。この町にいる以上は海との関わりは避けられないし、津波も含めて僕を成長させてくれた要因ですし、海は愛すべき存在と思っています」
その後、再び本吉町に行き、まもなくオープンする酒店を訪ねました。店主は50代の男性で、地元の米を地元の蔵で醸造して販売するなど、20代の頃から精力的に働いてきました。津波で自宅と店舗を失い、仮設住宅を経て6年前に自宅を再建し、両親と妻、長女と暮らしています。震災の2か月後にプレハブの仮設店舗で商売を再開しましたが、元の土地での店舗建設にこだわり続け、周辺の復興事業の完了を待ちました。しかし結局、道路のかさ上げで立ち退きを迫られ、同じ地区内で新たな土地を探し回ったそうです。コロナ禍の影響で去年ようやく工事に着手しましたが、オープン予定だった今年4月、仮設店舗を火事で失いました。オープンは半年延期となり、配達だけで生計を立ててきたそうです。
「どうしても本吉町の大谷(おおや)っていう土地にこだわりたかったんで…人の良さですよね。海も近いし、この土地から離れたくないという思いでしたね。火事に遭って、生きるって本当つらいなと思って、友人知人には“よく生きているよな”って言われます。新しい店のローンも払わなければならないし…。ただ、そんな時にいつも、遠方の友人だったり、一緒に飲んだりする親しい友人知人に助けてもらっています。仙台のお客さんなんですけど、酒を買いに来て、しかも私が松田聖子ちゃんのファンだと知ってるんで、わざわざレコードからテープにダビングして持って来てくれたんですよ。手間を考えたら、感謝しかないですよね。震災からの11年半っていう時間を、意味がある11年半だと思うためには、これから先の生き方にかかっているんだろうなって思っています」
本吉町も唐桑町も、住宅の高台移転や防潮堤などの整備でその姿は大きく変わり、被災して他の土地に家を再建した人もいます。震災後は本吉町で約14%、唐桑で約24%、人口が減りました。ただ、去年の三陸沿岸道の全線開通で、市中心部はもちろん、仙台に行くのも格段に便利になり、生活面や観光、物流、救急搬送など、多方面に恩恵があります。特に去年、本吉地区では被災した道の駅「大谷海岸」の再建や、11年ぶりとなる大谷海水浴場の再開があり、高速道路の効果も相まって、観光客数が前年の4倍以上、27万人を超えました。震災から11年半、今後の地域活性化に住民の期待が高まっています。
その後、気仙沼の湾内をめぐる観光遊覧船で、運航管理者を努める50代の男性から話を聞きました。遊覧船の会社は以前、離島の大島(おおしま)に渡る定期航路を運行していましたが、大島と本土を結ぶ橋の開通で3年前に定期航路が廃止となり、遊覧船事業に移行しました。定期航路は110年あまりの歴史があり、震災では7隻全てが被災しましたが、島民を守るために復活しました。男性は津波にのまれて命からがら生き延びたそうで、2か月あまり避難所で暮らし、仮設住宅も経験しました。その後、中古住宅を購入して家族と落ち着いたそうです。
「人生の中ですごい…本音を言うと、経験しなくてもいい経験、二度と経験しなくてもいい経験ですよね。本当にどうなるんだろう、本当に復旧するのか、この後どういう生活になるんだろう…全く見えない中での生活は、本当に不安でしたね。今後は観光遊覧船にシフトしましたので、カツオ船の出入港、マグロ船やサンマ船の出入港、いろいろな四季折々の見どころを強みにしていきたいと思います」
最後に橋を渡り、大島に向かいました。大島の展望台にあるレストハウスに行くと、その一角に、雑貨販売も行うカフェがありました。方言を印刷したオリジナルのポチ袋が人気だそうで、店主は30代の女性です。震災前は本土で飲食店を営んでいましたが、店は流され、大島に住んでいた母も亡くなりました。1人残された父のそばで暮らすため、5年前に夫や娘と故郷の島に移り住んだそうです。
「母も飲食店で働いていたので、悩んだ時とか、どうしたらいいんだろうと思った時に、“母がいればなあ”って感じますね。“いつまでクヨクヨしてんの!”っていうような母で、“終わったことは仕方ないでしょ”っていう性格の持ち主でした。私も最初は無理にでも笑っていたんですが、だんだん“これは心の底から笑わないと意味がないな”と気づいたのは、母の教えのおかげだなってすごく思います。11年経った今、だんだん過去を振り返れるようになってきたんですよ。私ができることは何かって考えると、私を支えてくれた人とか、後押ししてくれた人の力になったり、笑顔にしたいっていうのが一番にあって、全てを奪っていった震災ですけど、“それでも前に進むことはできる”と学びました」
災害や急病の際の命綱として、本土への橋は半世紀以上も要望を続けてきた島民の悲願であり、まさに復興の象徴です。橋の開通後、鮮魚店や飲食店など5つの店からなる商業施設や、産直市場と観光案内所を備えた『ウェルカム・ターミナル』が島内に新設されました(開通した2019年の観光客数は、前年の7倍以上の約68万人)。さらに市は、眺望の美しい亀山(かめやま/標高235m)の中腹と山頂をつなぐモノレール整備も計画中です。一方、コロナ禍により民宿や店は苦境にあり、島の高齢化率は50%を超え、橋の開通後に島民は160人減りました。生徒数の減少で大島中学校もなくなりました。明るい面もそうでない面も背負いながら、カフェの女性店主のような世代が、今後の島を支えていきます。