【キャスター津田より】7月2日放送「宮城県 亘理町」

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 今回は、宮城県亘理町(わたりちょう)です。人口が33000あまりで、震災では300人以上が犠牲になり、2500棟を超える住宅が全壊しました。7年前には、集団移転先の宅地と災害公営住宅、あわせて677戸分の整備が完了し、3年前には保健センターを併設した町の新庁舎も完成しました。ハード面の町の復興事業は、2020年度末に完了しています。

 はじめに、荒浜(あらはま)地区に行きました。今月、12年ぶりに荒浜海水浴場が海開きし、夏の賑わいが戻ってきます。海岸で会ったのは中学1年の息子を連れた40代の父親で、新築して数年だった自宅が津波で全壊し、仮設住宅に1年ほど住み、震災翌年には修理した自宅に戻ったと言いました。5年前、荒浜小学校の親の会で、子どもの“海離れ”が話題となり、この父親らは地曳き網体験や海岸清掃を行う会を結成しました(本人が会長)。12歳になる息子も、一度も荒浜の海で泳いだことがないそうです。

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 「海が近くにあるのが普通で、夏に暑くなったら“海行こうぜ”、友だちが失恋したり、僕が失恋すると“海行こうぜ”で、身近なところに海があったんです。震災後の子どもって、泳いだこともなければ、魚に触れたこともない、釣りをする子も少ないし、荒浜の子だけど“海で遊んだことある?”って聞くと、全然ないという感じで、“ちょっと、まずいよね”という話になって…。震災を思い起こすと胸が痛くなるんですけど、何とかしなきゃいけない、みんなで支え合う、それで頑張ってきたと思いますね」

 荒浜地区は津波で最大7mも浸水し、住宅や店が流され、漁港の施設も大破しました。町の犠牲者のうち、約半数は荒浜の住民です。それでも震災の3か月後には港で水揚げが再開され、「鳥の海(とりのうみ)ふれあい市場」や「荒浜にぎわい回廊商店街」もオープンし、観光に来て鮮魚を買ったり、食事を楽しめます。温泉施設「わたり温泉鳥の海」や海洋スポーツを体験できる「B&G 海洋センター」、サッカー場や野球場などもある広大な「鳥の海公園」も整備されました。公募で選んだ民間事業者に災害危険区域(60ha)で事業展開してもらい、“10年で年間20万人の集客、2億円の経済波及効果、50人以上の雇用創出・定住促進”を目指す計画も始まりました。若手アスリートやアーティストなど、全国から30人もの地域おこし協力隊員を採用し、全員が移住して荒浜を拠点に活動を始めています。地区の人口は震災前から半減しましたが、荒浜は新たな姿で賑わいの中心になりつつあります。

 次に、開墾場(かいこんば)地区に行き、11年前に避難所で取材した、イチゴ農家の老夫婦を再び訪ねました。震災の数か月前にリフォームしたばかりの自宅が津波で全壊し、隣に新築した、まだ入居前の長男一家の自宅も浸水しました。当時、2人はこう言いました。

 「早く孫と一緒に暮らしたいです。ことし来る予定だったんですけど、津波のせいで来られなくなってしまって…学校の送り迎えをしてやろうと思って楽しみにしていたんだけど、残念ながらこういうことになって…。海が憎いです 本当にあんなにきれいな海がね」

 その後、夫婦は農家をやめ、2013年に自宅を修繕して戻りました。8年前に長男一家も隣の家を直して移り住み、孫と暮らす夢は叶いました。夫は80代、妻は70代となり、奥様はこう言いました。

 「私はもう絶対戻らない、震災直後にこの家を見たら、もう見るに見られない、直したって無理だから私はアパートを借りるって言ったら、お父さんが“俺だけでも戻るから、離婚届に判を押せ”なんて言うのね。まさかそうもいかないから、“じゃあ、私も戻るから”って…。そしたらやっぱり、我が家がいいね。ますます元気になって、楽しく暮らしていきたいですね。お父さん、よろしくお願いします」

 ご主人は、今年も妻と一緒に過ごしたいと言いました。その目が少し潤んだようにも見えました。
 その後、内陸部の下茨田(しもばらだ)地区にある災害公営住宅に行き、同じく11年前に避難所で会った方を訪ねました。当時50代の女性で、20年ほど暮らした家が全壊し、趣味の絵を描くことが避難生活の支えとなっていました。“家もあんなふうになっちゃったけど、こうやって描ける幸せがあるんだから、私は幸せだよな”とつぶやき、スタッフに絵を見せる姿が印象的でした。

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 あれから11年…。今回、改めて過去の映像を見てもらうと、女性は当時の自らの姿や絵を見て、涙を流しました。仮設住宅を経て、2015年に夫と2人で災害公営住宅に入居したそうです。女性が描くのは可愛い子どもがモチーフの絵で、仮設にいた頃に出会った折り紙にも熱中し、今では折り紙教室も主催しています。2012年に絵本を発刊、この4月には震災をテーマにした画集を自費出版しました。

 「避難所で携帯電話が1週間で通じて、仙台の友人と話して“何か欲しいものある?”って言うから、“絵の具と筆と画用紙が欲しい”って言ったら、その日のうちに持って来てくれて…。誰かのためというより、自分のためにずっと描いてきました。絵を見て、“すごく癒やされた、ありがとう”と言ってくださる方もいます。人生って、逆風の時はそればっかり続くけど、一生懸命頑張っていれば、だんだん追い風になってくるんだなと感じています。“がんばれ東北”とか、そういうのに背を向けて、“頑張って生きているのに、これ以上頑張らなきゃいけないの?”という気持ちになっていたけど、今は頑張ることが生きがい、頑張れる自分が幸せですね」

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 さらに、町内で活動するNPO“亘理いちごっこ”も訪ねました。代表は5人の子どもを育て上げた女性です。震災で自宅は一部損壊で、すぐに被災者支援に動きました。一番はじめは、パンを100個作って、飛び込みで避難所に持って行ったそうです。その後も被災者に食事をふるまう活動を続け、学生ボランティアが被災した子に勉強を教える活動も行いました。コンサートの開催などを行う一般財団法人も設立し、事務局長も務めています。来月には、室内楽の全国コンクールを開催する予定です。

 「震災直後は、理屈も何もないですよね。食べられていない人が、そこにいるんですよ。体の冷え切った人が、そこにいるんですよ。とにかく何かしなきゃって…。震災を機に、慰問コンサートなどで生の演奏を味わったりして、“また明日から生活していこう”という元気をもらったんですね。ただ、それがだんだん減ってきて、だったら自分たちで立ち上げればいいじゃないって思って…。“地域は大きな家族です”って、よく言うんですけどね。どこかがバツになってもいいと思うの。別のどこかが引き上げれば、うなだれた時も元気になるきっかけができるじゃないですか」

4年前、女性は自宅の一部を改装して保育園も開きました。自身も一念発起して保育士の資格を取り、園長を務めています。

 最後に、亘理駅近くに住む、50代の女性を訪ねました。震災でも家は無事で、現在は大工の夫と次男の3人暮らしです。子どもは2男1女ですが、長男の3つ下だった長女が津波で亡くなりました。当時は18歳、今は30歳です。女性にとっては待望の女の子だったそうで、高校卒業後、就職を控えた彼女は、通っていた隣町の自動車学校で被災しました。発災から50分後、送迎車で自動車学校を出発し、帰宅途中に車ごと津波に襲われました。26人の教習生と11人の職員が亡くなっています(遺族らは学校側に安全配慮義務違反や過失があったとして、損害賠償を求めて提訴。2016年に和解)。
女性にとっての大きな存在は、1985年の日航機墜落事故で、小学生の息子を亡くした女性です。メールをきっかけに知り合い、今では女性も御巣鷹山(おすたかやま)に行き、慰霊登山を続けています。

 「最初の電話の時は、何も言わないで“うん、うん”って聞いてくれていたんです。いろんなことをぶつけて、話して、泣いて、“泣きなさい、泣きたい時に泣いていいんだよ”って…。体験を絵本にされたり、講演活動をされたり、全国を飛び回っている方なので、できたら真似してみたいと思います。どんな形でも、忘れられないためにやっていきたい気持ちはあります。実はいまだに、娘が“ただいま”って、帰ってきそうな気がしましてね。当時は本当に女子高生の姿を見ると、泣いてばかりいたんですよ。それを見た次男から“お母さん、いつまで泣くの”って言われたんです。それからは我慢じゃないけど、自然に涙の回数は減りました。多分、今は結婚して、孫ができて、その子をあやしていたらどんなに幸せだったかなって思います。スーパーに入っても、いろいろ見ると“これ食べてたな”、“こういうの好きだったな”って、毎日のように思っていますよ。まだ娘の部屋も片づけてない…そのままだし、まだ匂いが残っているんです。娘の匂いが…」

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この日、女性がしていたペンダントは、娘さんが修学旅行で買ったものでした。“お母さんには一番高いお土産を買った”と言われ、とてもうれしかったそうです。納骨は今もしていません。娘を一人でお墓に入れるのはかわいそうで、ご主人が“俺が入る時に一緒に入れろ”と強く言っているそうです。