【キャスター津田より】5月28日放送「岩手県 山田町」

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 今回は、岩手県山田町(やまだまち)です。震災直前(2011年3月1日)と比べて人口は4分の1も減少し、現在14000あまりです。“山田湾のカキ”で有名な水産の町で、震災では津波と火災で全家屋の46%、3300戸以上が被害を受け、その8割は全壊でした。宅地造成(455戸)と災害公営住宅(640戸)の整備は2018年度で完了し、1900戸以上あった仮設住宅も2020年に解消されました。他にも道路の整備など、主な復興事業は全て完了しています。3年前には三陸鉄道リアス線が開通し、三陸自動車道の山田インターチェンジ付近には、近々“道の駅”も誕生する予定です。
 震災前に点在していた店舗は、三陸鉄道の陸中(りくちゅう)山田駅の周辺に可能な限り集約され、中でも核となるのは、地元スーパーを中心に10店舗ほどが入る共同店舗です。図書館が入る交流拠点施設や大型駐車場も配置され、駅周辺に行けば、食料品はもちろん、理髪店、クリーニング店、書店、写真館、金融機関、郵便局が揃い、最低限の生活はまかなえます。少し離れた国道沿いにも別の商店街があり、高台には県立病院や消防署、交番が再建されました。高齢化に対応し、高台の住宅地など各地域の生活拠点と、駅や公共施設、県立病院をつなぐ循環バスも、2年前から運行しています。
 一方、ここ数年は、秋サケなどの記録的な不漁が続き、台風19号での大規模な被災もありました。土地区画整理で造成した土地や集団移転で町が買い取った土地には未利用地も多く、課題となっています。

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 はじめに、今年4月にオープンした国道沿いのカフェに行きました。店主の71歳の女性は、生まれも育ちも山田町です。人気は地元食材を使ったタコスで、アメリカに留学した息子の勧めで始めたそうです。女性は店の傍ら、37年間、町内2ヶ所で学習塾を経営してきました。津波と火災で両方とも失いましたが、流されずに残った自宅を“子どもたちが勉強する場”として震災直後から開放し、2020年まで続けました。子どもたちには、軽食もふるまっていたそうです。そして女性は、若い人たちのために少しでも働く場をつくろうと現在の店を始め、積極的に地元の人を採用しています。

 「仮設住宅ではあまりスペースがなくて、隣近所の音もうるさくて、なかなか集中して勉強する場所がないって、みんな困っていたんです。いくら勉強しろと言っても“腹が減っては戦はできぬ”なので、必ず何か食べさせて、気持ちを満足させて、“さぁ、やるぞ”って感じにしていました。山田を元気にするには 若い人のパワーが必要なので、1人でも山田に残ってほしいんです。町外に行った人たちも、できたら山田に帰ってきて、山田で元気に子育てしたり、おいしいものを食べて、楽しく人生を過ごしていく、そういう生き方をしてほしいなと思います」

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 次に、山田小学校に行きました。2年前、6つの小学校を統合して生まれた学校です。校長先生は山田町出身の50代の男性で、震災時は同じ校舎で4年生の担任でした。自宅や実家が被災しながらも、先生の仕事を全うし、校内にある避難所の運営にも熱心に携わりました。震災の翌年に異動となり、泣く泣く故郷の小学校を離れたそうです。そしてこの春、校長として再び戻って来ました。

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 「大きなダメージを受けて、これからみんなで頑張ろうという時に、1年しかいられなかった…そこがすごく心残りでした。一番つらかった時、大変な時に、地元の学校で、もう少し何かできたんじゃないかと…。だから今は、子どもたちのためにいろんなものを作って、楽しんで、なんとか盛り上げようとやっています。返し方って、これしかないと思ったりするので…。町外から来ている先生方も多いので、“校長先生、なぜそこまで熱く話をするの?”って、ちょっと浮いてるかもしれませんね。山田湾は日光に当たると、水面がキラキラと光り輝くんです。その海面のように、子どもたちの笑顔がいっぱい学校で輝いて、それが地域の元気につながっていくといいなって思います」


 さらに、中心部から車で15分の船越(ふなこし)地区にある町の相撲場に行き、山田小学校の相撲クラブを指導している、50代の町職員の男性を訪ねました。元々あった相撲場は津波で流されましたが、震災の3か月後、横綱・白鵬以下の大相撲の力士会が町を慰問し、力士会の寄付により、翌年に新たな相撲場が完成しました。ところが立派な土俵はあるものの、相撲クラブは再開できなかったそうです。

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 「再建してありがたかったですけど、全然先が見えなかったです。被災して練習をやる暇もないし、公式大会があるって言われても、大会に出る前に、自分の生活の準備をしないといけないしね」

 せっかく再建した土俵で県大会などが開かれても、地元の山田町から選手が出ておらず、男性は4年前、山田の相撲の伝統を守ろうと小学2年生だった息子と2人で相撲を始めました。そして息子の仲間に声をかけ、翌年、相撲クラブが再開しました。

 「練習相手を探して息子と2人であちこち行って、大会に1回出て…負けて帰って来てね。今、息子が5年生で、ここで県大会が開かれて、団体戦で準優勝を取ったんですよ。結果が出てよかったです。やっぱりメダル、かけさせたいですもんね。今後の町の発展を考えると、子どもたちは山田の宝ですし、できることをやってあげたいなって…今後少しでも、相撲で経験したことが糧になればと思います」

 現在、相撲クラブのメンバーは14人で、女の子も一人いるそうです。


 その後、陸中山田駅前にある書店に行き、7年前に取材した、50代の店主の女性を再び訪ねました。自宅と店舗を津波で流され、前回の取材時は仮設店舗で、こう言っていました。

 「お店がいっぱいあることによって、町民の方々が買い物に来やすくなる…町をつくるには商店街が頑張らないといけないですし、将来を考えた町づくりを、役場と話し合っていかなきゃいけない」

 取材後、仮設店舗は復興工事に伴う移動を余儀なくされ、数回移動した後、2017年に現在の店を再建しました。80代の母親と次男の親子三代で店を営んでいて、町の人々の欲しいものに応えたいと、文房具やキャラクターグッズ、お菓子なども揃えています。

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 「店を再建してよかったです。もう移動しなくていいので、すごく落ち着いています。今のようにお店が並んでいると、お客様も買い物しやすくなったと思います。交流センターも図書館も駅も近いので、すごく便利がいいと思います。未来につながる商店街づくりは、70%くらいはできたんじゃないですか。ただ、コロナでイベントができないのが申し訳ないと思っていますけど…。頑張ることに終わりはないと思うので、継続していければと思います。ずっと必要なお店でありたいなと思っています」

 買い物といえば、今や大型スーパーかショッピングモールが主流ですが、“よく知っている人に物を売り、よく知っている人から物を買う”という個人商店は、物と同時に“安心”を売り買いしています。個人商店は、高齢者の多い被災地の町では、まだまだ求められる存在です。


 最後に、中心部から車で20分の豊間根(とよまね)地区に行き、8年前に仮設住宅で会った男性を再び訪ねました。当時60代の大工の男性で、自宅を津波で流され、跡継ぎとして一緒に働いていた長男も津波で亡くしました。当時はこう言いました。

 「息子が生きていれば、また俺と一緒に動いたかもしれない…。ガクンときたわけだ。もう仕事もやる気なかったもん。だけど、こんなことしていちゃダメだと、自分が動けるなら絶対動いてやると思ってね。今は仕事がしたいです」

 あれから8年…70代となった男性は、災害公営住宅で暮らしていました。7年前に夫婦で公営住宅に入居しましたが、そのわずか1年後、最愛の妻が病気で亡くなり、一人暮らしになりました。現在は年齢的なこともあり、仕事はしていません。妻が残した、土だけの植木鉢から自然と芽が出て美しい花を咲かせていて、“こんなにいい花が咲くだなんて、おかしいよね”とスタッフに語りかけました。

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 「今となれば、ただ年とっても、お母さんが生きててくれればね…いくら杖をついてでも、もう少し生きててくれればよかったんだけど…。自分に尽くしてくれたお母さんと、亡くなった息子に“ありがとう”だね。彼も一緒に大工やって、それに対しての御礼だね。お母さんと息子がいなければ、自分はここまでやってこられなかった…2人がいたから、ここまでなれたと思う。その“ありがとう”だね」

 災害公営住宅は、自力での住宅再建が難しい高齢者が多く入居しており、夫婦の一方が亡くなったり、施設に入ることにより、今後高齢者の一人暮らしはますます増加します。避けられない流れでもあり、男性のような気持ちで暮らす方々は、被災地のあらゆる災害公営住宅に存在します。