【キャスター津田より】4月9日放送「福島県相馬市 新地町」

 東日本大震災から11年が過ぎ、新年度も番組をどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今回は“緊急取材”として、先月16日深夜に発生した、福島県沖を震源地とするM7.4の地震についてお伝えします。宮城県と福島県にある30の市と町で、震度6強ないし6弱を観測し、震度5強と5弱は、東北地方の79の市町村に及びました。津波も発生し、東北新幹線も脱線した大地震でした。

 宮城県と福島県では、屋根瓦の落下、壁の損傷、倉庫などの倒壊、地割れや道路の亀裂、断水、水道管やガス管の破損、墓石の倒壊…など、多くの市町村で被害が発生しました。宮城県内では、大手企業の工場で操業が停止し、商業施設の休業も相次ぎました。秋保(あきう)温泉などでは、多くの旅館やホテルで水道管やガラス窓が破損し、音楽ホールなど公共施設での天井落下もありました。仙台城址では伊達政宗の騎馬像が傾いて石垣も崩落し、白石(しろいし)城の外壁も剥がれ落ちました。また福島県では、阿武隈川に架かる4つの橋の損傷し、修復困難な橋も出ています。首都圏や東北地方に電力を供給する複数の火力発電所の設備も損壊し、操業再開には時間を要する見通しです。
 福島県沖では、去年2月にもM7クラスの大地震が起きています。この時は宮城県と福島県の25の市町村で震度6強や6弱を観測しており、福島県相馬(そうま)市と新地町(しんちまち)は、去年2月の地震と今回の地震で、1年のうちに2回も震度6クラスの地震に見舞われました。
 そこで今回は特に、相馬市と新地町に向かい、大地震の被害を取材しました。

 はじめに、相馬市に行きました。今回の住居被害(6日現在)は、福島県全体では全壊が56棟、半壊が567棟、一部破損が6140棟です。そのうち相馬市は全壊が9棟、半壊が40棟、一部破損が788棟ですが、市による被害判定はまだ途中であり、今後の増加は確実です。市内では犠牲者も1人出ており、断水も1週間ほど続きました。11年前の地震と津波の後、相馬市は3年前に台風19号、去年2月に震度6強の地震、そのひと月後の3月と5月にも震度5弱の地震があり、今回はまず震度5弱の地震が起きて、その2分後に震度6強の地震が来ました。驚くほど、災害が頻発しています。

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 まず、景勝地の松川浦(まつかわうら)に向かいました。24軒ある旅館すべてが被災し、くり返される災害とコロナ禍で多くの旅館がすでに借金を抱えており、再建の見通しは立っていません。以前、取材した旅館を5年ぶりに訪ねると、玄関の壁には床から天井まで数センチ幅の亀裂が入り、エレベーター前の天井も落下、去年2月の地震後に借金して修復した風呂場は、男湯も女湯も壁には大きな亀裂が入り、床には壁材やタイルが散乱しています。特に女湯は天井が完全に落下し、屋根裏のダクトホースもむき出しでした。階段の踊り場の壁も大きく剥がれ落ち、2階に上がると、畳3枚分ぐらいの天井が落下して鉄骨が丸見えです。2階の客室や廊下では、壁が浮き上がって広く剥がれ落ちた部分もあり、廊下も少し波打っていました。11年前の津波で旅館は全壊し、台風や地震、コロナ禍が続いています。両親と旅館を営む30代の男性は、5年前とは全く違う、完全に生気を失った表情でした。

 「風呂場は、お客さんがいたら死んでますね。すごくショックです。だってもう、こんなんじゃ復興できないですよ。地震が来るたびに、何千万、何千万って借金していったら…。“上向け、上向け”ってみんなに言われるんですけど、できないですよ。“寝ている時なら上を向いてます”って言っています。3・11よりひどいです。今回の地震のほうが本当につらいです。国と県にみんな助けてもらわないと、この松川浦はなくなると思います」

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 また、松川浦漁港でも大きな被害がありました。至るところに地割れが生じ、地盤沈下で岸壁には段差があります。海水を市場内に送る天井のパイプが破損して、所々外れており、ホースから水を出すことができず不便を強いられています。原発事故後、長らく制限されていた漁が去年大幅に緩和された中での被災で、3年前に取材した20代の漁師の男性に再び聞くと、こう言いました。

 「岸壁って大きく使えないと、せっかく鮮度よく港に持ってきても、水揚げするのに時間かかっては何の意味もないでしょう。地震の次の日から、(港が壊れたので)“そんなに獲って水揚げするな”って騒ぎでしょう。自分らが進みたい方向と、反対方向に進まないといけないのが、すごくもどかしいです」

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 また、市中心部にも被害は広がっていて、小さな祠のある神社の鳥居やブロック塀が倒れ、店の外壁や窓ガラスが壊れている光景も目にしました。2階の全面にブルーシートを掛け、“倒壊するかもしれません”という手書きの紙を貼った家もありました。福島県を代表する伝統行事『相馬野馬追(そうまのまおい)』の出陣式が行われる神社も、灯篭がことごとく倒れ、石畳の参道も波打っています。6代続く市内唯一の豆腐店を訪ねると、作業場は建物ごと完全に傾いており、倒壊の危機でした。中もめちゃくちゃで、油揚げを作る機械なども排気口が落下して壊れていました。この店は市内の全小中学校の給食に豆腐を卸し、油揚げは隣町の給食も一手に担っていましたが、店主夫婦は高齢のため再建を断念したそうです。相馬から豆腐店が消えるにあたり、60代の奥様はこう言いました。

 「1年前の地震でも、こんなに瓦は落ちなかったのよ。少し傾いたりしたんですけど、屋根も直して、“あと5年ぐらい頑張るか”と言っていた矢先にこうなったから…。友達に“辞めるんだよ”って言ったら、“えーっ”ってびっくりして、地震直前に作った豆腐をみんな買ってくれたんです」

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 また、70代のご主人は、廃棄のため機械をたった一人で解体をしながら、こう言いました。

 「うちの豆腐を利用して下さったお客様に、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。この現場を見てからは、立て直すというのはちょっとできないもんね…」

 その後、郊外の石上(いしがみ)地区に行き、つい3か月前に取材した70代の女性を訪ねました。石造りの2階建ての納屋は、外壁の石のブロックが所々落下して穴が開き、内部の梁も折れ、天井は落ちかけて倒壊寸前です。母親と長男と3人で暮らす母屋は、瓦が落ち、壁に亀裂が入りました。階段の壁は、内部の石こうボード1枚分がきれいに判別できるくらい、長方形の亀裂が入っています。3か月前、カメラに向かって“笑顔で進みましょう”と言った女性の顔からは、明るさが完全に消えていました。

 「揺れは3・11より強いです。もうダメだ、終わりだと思ったもん。納屋は解体するしか…300万ぐらいかかるんじゃないかな。とにかく瓦だけ直してもらえればね。これから頑張らなくちゃと思っていたら、これですもん。今は面白くなくても、(無理にでも)声を上げて笑うようにしているんですけど…」

 さらに隣町との境に近い磯部(いそべ)地区で、3年前に取材した兼業農家の40代の男性を訪ねると、家の外壁を指さしてこう言いました。

 「去年地震が起きて、被害が出たのを直したんですが、直した所も今回やられました。あそこの外壁、剥がれているんです。左上が新しく張ったんですけど、今度は右が全部剥がれてしまって…。地震が続いて徐々に壁の中にひびが入っているから、また続けば、もっと崩落する恐れがありますけどね」

 次に、相馬市の北隣、震度6弱を観測した新地町に行きました。まだ調査途中の数字ですが、町内では400件近くの住宅に被害が出ています。駒ヶ嶺(こまがみね)地区では、地震から2週間たっても家の片づけをしている人と出会いました。70代の男性で、会社員の息子と2人暮らしです。家は地震で大きく傾き、玄関の戸をはじめ、ガラスというガラスがほとんど割れています。家の中は家財が散乱し、奥の部屋も仏壇の遺影などは落ちたままです。男性は家を解体し、借家を探すつもりだそうです。

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 「今も中で、おっかなびっくり寝ているの。まだ、倒れるまでにはなってないから。ボランティアは、息子がいるから頼めない…世帯に70歳以下の人がいると頼めないんだって。去年は新地町の福田(ふくだ)と、隣の山元町(やまもとちょう)がやられて、ことしは駒ヶ嶺がどーんとやられて…」

 片付けを手伝っていた70代の友人の女性は、“床下だって地震でやられているんだから、下も上も、とんでもないよ。今度、余震が来たら死んでしまう”と、壊れた家で寝起きする男性を心配しました。新地町はボランティアを募集していますが、コロナ対策で町民に限定しているため、1日1~2人しか応募がありません。派遣の対象は、高齢者のみの世帯やひとり親世帯などが優先になります。
 また、杉目(すぎのめ)地区では、3年前に取材した40代の男性から再び話を聞きました。男性は津波で自宅を失い、7年前、家を新築しました。部屋の壁のあちこちで縦や横にひびが入り、テレビや炊飯器といった家電も倒れたり落ちたりして壊れ、食器やインテリアの品々も散乱して破損しました。

 「正直、もう唖然としましたよね。震災の時は流されたけど、今回は直す家もあるし…って、そういう前向きな気持ちでいます。生きていれば仕方ない、直せる家があるだけいいじゃないかって。またかという思いもありますが、何度来ても立ち上がるという気持ちで、生きていくしかないと思っています」

 相馬市の方々も新地町の方々も、去年2月の震度6強の地震では、お金をかけて復旧や修繕をしました。それがわずか1年で元に戻ってしまった心理的なダメージは、相当深刻です。