【キャスター津田より】3月12日放送「岩手県 陸前高田市」

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 東日本大震災と福島第一原発の事故から11年。
 被災地・石巻(いしのまき)出身の私にとって、3月11日は何より、知っている人が亡くなった命日です。皆さんにとっても、震災を振り返る日や防災について考える日など、それぞれ特別な1日だと思います。たとえ1年に1度でも、震災のことを思い出すとか、家庭内で防災を話題にするだけで、被災した方や亡くなった方は救われると思います。

 今回は、岩手県の陸前高田(りくぜんたかた)市です。人口が18000あまりで、震災では約1800人が犠牲になり、約4000戸が全半壊しました。5年前に災害公営住宅が全て完成し、大型商業施設、市立図書館、震災津波伝承館、道の駅、市民文化会館、運動公園…等々、様々な施設もそろいました。さらに去年は、市が管理する6つの漁港の復旧工事が完了し、震災から10年でようやく、仮設住宅からの退去が完了しました(陸前高田市を最後に県内の仮設住宅は全て解消)。名所だった高田松原(たかたまつばら)では、再生に向けた4万本の植樹が完了し、砂浜が10年ぶりに開放されました。津波の浸水地には、民間企業による観光農園や海藻の陸上養殖施設も完成しました。震災遺構の旧気仙(けせん)中学校の校舎と、旧道の駅の一般公開も始まっています。

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 はじめに、市中心部の高田地区にある布団店を訪ねました。店主は70代と60代の夫婦で、津波で自宅と店を失いました。なじみ客の半数も亡くなったそうです。震災の約3か月後には、店舗がない中で御用聞きをしながら商売を再開したそうです(当時、家財道具を失った被災者には布団は必需品)。その後は仮設店舗で営業し、3年前に店を再建しました。住まいは7年間の仮設暮らしを経て、戸建ての賃貸住宅に移ったそうです。毎年、桃の節句には店内にひな人形を飾っていて、本当に偶然だそうですが、震災の前日に奥様の実家に人形を預けたため、無傷で残ったそうです。仮設店舗の時からずっと、お客さんがお茶を飲んでくつろぐ場所として、店内にテーブルと椅子も置いています。2人はこう言いました。

 「全部流されましたから…私たちの財産は人形だけ。震災前から残っているのは、これだけです。毎年、子どもや孫に写真を撮って送るんです。喜んでくれますしね。震災から1年、2年は、お客さんとお茶を飲みながら、ずっと喋っているんです。一緒に泣いたりすることも多かったですね。3年、4年経つと子どもや孫も大きくなって、“頑張んなきゃならない”という言葉が出てくるんですね。今はもう前と違って、楽しいお茶飲みです。あとは私たちもふるさとで、仲良く暮らせればそれでいいと思います」

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 次に、郊外にある畳店の作業場に行きました。一角では3月11日の催しに向け、地元の人たちが準備を進めていました。8年前、追悼を目的に始まった“つむぐイルミネーション”という催しで、夜、会場でたくさんのキャンドルやイルミネーションを灯します。主催団体の代表は30代の男性で、小学校の教師です。祖父母を亡くした上、フットサル仲間だった同級生の親友を津波で失ったことが、この催しを始めるきっかけになりました。現在の活動場所は、その同級生のお父さんが営む畳店の作業場です。

 「本当にすごく仲が良かったので…。3月11日が近づくと悲しかったり、つらかったりすることがたくさんありますけど、そういう思いだけに支配されないのは、こうして同級生が集まって、みんなで同じ作業をするからなんだろうなと思うようになりました。イベントを続けて、震災に対するいろんな思いに触れる機会がたくさんあって、すごく悲しい思いをずっと抱えている方もいていいと思うし、そういうのは耐えられないから、明るくしていきたいという人がいてもいいと思います。いろんな人の、いろんな思いを広く受け入れて、イルミネーションを楽しんでもらえるようになればと思います」

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 その後、7年前に取材した居酒屋の店主を再び訪ねました。60代の男性で、高田地区にある店は、35年続く市民なじみの居酒屋です。津波で自宅と店を失い、3カ月後、避難先の盛岡市で同郷の人が集える場をつくろうと店を始めました。沿岸部の避難者が集まる場として賑わい、当時はこう言いました。

 「物や形はできてくるけれども、震災前にあった本当に何気ない幸せが、いつ訪れるのか待ち遠しい…。震災前の陸前高田を再現した模型を見に行ったら、自分の店のところに“陸前高田で一番の店”と誰かが書いていて、脇に“早く帰ってきてね”と書いてあって…涙が出たね、やっぱり。陸前高田に早く帰りたい、帰って店をやりたいのは本当に本音だね」

 2017年、自分の店があった場所でかさ上げ工事が完了し、男性は陸前高田に戻り、民間事業者としては第一号の店舗再建を果たしました。三陸の美味を提供し、お客さんに元気になってもらうのが使命だと、コロナ禍でも懸命に営業しています。自宅も、店から車で15分の高台に再建しました。

 「周りになんの店もない中で、再建して始まって5年…。あっという間の5年だね。家では2階に寝てるんだけど、朝日が海から昇るのが真正面に見えるわけよ。エネルギーをもらえるような、やる気がみなぎる感じが大好きです。当たり前の生活、そういうのがようやく戻ってきたな。ほっと安堵する、心からの幸福感を迎える日までは、ゆっくり静かに前進していきたいです。心からの幸せは、ひなたぼっこしながら、家から海をじっと眺めているという、ただそれだけです」

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 そして、居酒屋と同じ高田地区では、かさ上げで造成された宅地に家を再建した、80代の女性と出会いました。自宅を流され、仮設住宅、災害公営住宅と住まいを移し、以前住んでいた地区に家を再建したのは3年前です。高台に移り住んだ人も多く、中心部に戻る住民は少ないため、周囲には空き地が目立ちます。そんな中、日々進んでいく公共施設の工事を見て、励まされたといいます。

 「毎日、復興されていくのを、ここ3年間、家からずっと見ていたの。ほら、あそこに見える市民会館の“一本松ホール”…うれしかったね。クレーンが上がって仕上がっていくところを、“できてきたな、うれしいな”って、毎日見ていたの。私たちが“早く戻って来て”と言ったって、みんないろんな事情があるじゃないですか。ポツポツと家が建って、空き地がふさがるのを楽しみに待ってます」

 今の女性の楽しみは、NPOが子どもやボランティアとともに津波の到達点に植えた、桜の成長です。

 「桜が咲き始めたら、すごいと思う。高田の町に、全国から桜を見にくる人も来るでしょう。私、こうやって目つぶると見えるの。大勢の人が桜を見に来てくれるのが…それが楽しみ」

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 最後に、高田地区で新たに美容室を始めた30代の男性を訪ねました。店があるのは高台の新興住宅地で、住民の多くは以前、中心市街地に住んでいた人たちです。男性は、津波で母を亡くし、自宅も失いました。震災前から美容師として勤務していましたが、震災後、故郷で自らの店を持ちたいと、東京で修行しました。3年後にUターンして開業し、自宅も再建しました。現在、市内で2店舗を経営しており、地域を盛り上げたいという知人に協力して、知人が始めたキッチンカー(ピザ店)にも出資しました。

 「単純に言えばこの場所が好きだし、ここにいる知り合いのみんなにお世話になっているから、その人たちにどうしたら自分なりの還元ができるのかを考えると、外のいろんな所で得たものを新しい形にして、陸前高田でやり続けるしかないですよね。やっぱり母の死がすごく大きくて、だいぶもがいて、もがいて、そこから自立しなきゃいけないと気づきました。今までの時間を取り戻すように、いろいろチャレンジしました。自分の子や地域の子ども達に、いろんな機会を見せてあげたいです。田舎でもやろうと思えばできる、自分たちが住みやすい町じゃなく、未来の人たちが住みやすい町をどうつくっていくか、それを行動に移して、子ども達に背中で語る…これだけはやりたい」

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 市内では、今まで出てきた高田地区と、今泉(いまいずみ)地区の2つの地区で、市中心部を形成しています。両地区では、山を切り崩し、総延長が約3㎞の巨大ベルトコンベヤーで運んだ土砂(東京ドーム約4個分)を用いて、広大な浸水域を10m前後かさ上げしました(高田地区186ha、今泉地区112ha)。費用は合計1000億円を超え、被災地で最大規模の事業と言われます。切り崩した山も高台の住宅地にして、両地区の合計300haに1464戸の宅地が造成されました。1年前に引き渡しも終わっています。
 ただ、工事の規模が大きいため長期化し、最初のかさ上げ地の宅地引き渡しは、2018年1月にずれ込みました。その間に別の土地に移る住民も増えた上、以前から家や土地を人に貸しているだけの所有者も一定程度いたので、結果的にかさ上げ地には多くの空き地が残っています。市の土地利活用促進会議の発表では、民有地と市の所有地をあわせた2つの地区の土地利用率は47%です(2021年11月末現在)。中間目標はクリアしましたが、まだ半分以上が活用されていません。民有地に絞れば利用率は27%で、28haもの民有地が手付かずです。今後の市の命運を握るのは、土地利用の実績をどう積み上げるかです。