【キャスター津田より】1月22日放送「福島県 新地町」

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 今回は、福島県新地町(しんちまち)です。人口が約7800の宮城県境の町で、震災では119人が犠牲になり、460戸あまりが全壊しました。役場やJR常磐線の新地駅周辺など、中心部も津波で大きな被害が出ています。福島第一原発からの距離は50㎞あまりで、国の避難指示は出ていません。
 復興事業は終了し、現在、高台など7カ所の集団移転団地(計157区画)には、新しい家が整然と並び、災害公営住宅は129戸が整備されました。津波被害を受けた新地駅は線路ごと内陸側に移設され、駅から役場周辺にかけての約24haは、町がかさ上げして宅地の分譲を行いました。駅周辺には、防災センター(兼消防署)、ホールを備えた文化交流センター、8つのテナントが入る商業施設、フットサル場などを町が新設し、民間企業もホテル(全108室)や露天風呂や岩盤浴のある入浴施設を建設しました。
 防潮堤を以前より1m高くする県の事業は全区間で終了し、漁港では岸壁のかさ上げ工事が行われ、荷捌き場や加工施設も完成しました。2020年には、漁港にある卸売市場で競りが再開されています。

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 はじめに、津波でほぼ全ての家(約160世帯)が流された釣師(つるし)地区に行きました。集団移転の跡地には、2019年に防災緑地公園(約18ha)がオープンしました。町が約4000万円を投じた国内最大級のMTB(マウンテンバイク)コースがあり、国際大会にも対応可能で、スケートボードで利用する人も多くいます。遊具やバーベキュー広場、オートキャンプ場もあり、海水浴場と隣接しています。
 ここでインストラクターを務める30代の男性は、仙台出身のプロのMTBライダーで、世界レベルのコースの管理や活用を手伝いたいと新地町にやって来ました。震災当時は大学生で、被災地に運び、自転車のパフォーマンスショーで元気を届けるボランティアなども行いました。現在は興味を持ってMTBのコースを訪れる子が増えたそうで、熱心に指導しています。

 「自分の人生で、自転車ってすごく大きな力を割いてきたことなので、そのことで復興に携われる、被災地を少しでも盛り上げていけるのは、東北に生まれた人間として、とても意義のあることかなって思います。ここで競技を始めた子たちがどんどん上手になっていて、ジャンプをしたり、別の技がしてみたいとか、成長している姿を見るのは感慨深いですね。被災していろんなことがあった場所ですけど、10年たって、笑顔があふれる場所になっていけばいいなと思います。国際大会とかいろんな大会やイベントをもっとやって、この場所を起点に、新地町の元気を広く伝えていければと思います」

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 次に、町役場のすぐ近くにある喫茶店に行きました。店主は70代の女性で、津波で店を失いましたが、 その年の11月に場所を移転して店を再建しました。再開当初は“ご飯もおにぎり1個だった”とか、自らの被災体験を話すお客さんがたくさんいたそうです。

 「津波の時は、店の前に川があったんですけど、お布団が流れてきたり、横を見ると家の屋根だらけだったり、はっきり言って悪夢ですね…。私も何か、うつ気味になっちゃって家にしばらくいたんですけど、“それでいいの?”“店をやらない?”って常連さんから声をかけられて、決心しました。いま私は、毎日お客さんと一緒に笑います。お上品には笑わない、おっきな口開いてね。(無理矢理でも)笑って大きな声を上げていると、本当に笑っている気分になるんですよね。だから常連の人には“笑って”って強要します。“朝から笑えねえ”って言われるけど、朝から笑います。後ろばっかり見てると景色が見えないし、何かにぶつかっちゃうと大変だから、前から来る景色をよく見て、進みます」

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 さらに、中心部から離れた小川(おがわ)地区へ向かい、震災前から続く地元の民話伝承団体“新地 語ってみっ会”を訪ねました。メンバーは中高年の女性たち8人で、震災前は、新地駅前にあった茅葺きの大きな建物『観海堂(かんかいどう)』(県指定文化財)が活動拠点でしたが、津波で完全に流されました。明治5年、新たな学校制度が始まる直前に開校した、福島県でもっとも古い学校の校舎です。民話を披露する場を失った女性たちを見かね、新たな活動の場を提供したのは旧家の70代の男性でした。90代の親戚が民話の語り手を務めており、以前から民話は身近な存在でした。伝承を途絶えさせてはいけないと、震災の被害で解体予定だった母屋を私費で修繕し、提供したそうです。

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 「復興はいろんな方々の協力をいただいて、形というか、ハードはどんどんでき上がっていくんですね。やっぱり必要なのは、ソフトの部分だろうと…。心に残るもの、これからの子どもたちに残していけるもの、そういうものが大事なんじゃないかなと思うんです。町が復興していくためには、地域に伝わる話をもう1回思い起こして、心の安らぎっていうか、そういうものが大事なのかなと思います」

 その後、以前取材した方を再び訪ねました。5年前、杉目(すぎのめ)地区では、当時30代の花き農家の男性を取材しました。3才の男女の双子がおり、原発事故直後は東京に自主避難しましたが、すぐに地元に戻り、花の栽培を再開しました。当時はこう言いました。

 「土をいじる仕事なので、原発も正直心配でしたけど、この土地だけは守りたいという気持ちだけでやってきました。負けたくなかったのが一番ですね。全国的に福島っていろいろ言われていますけど、立ち止まっては何もならないし、農業をやっても、子どもを外で遊ばせても安心だよって、もっと伝えていきたいです。子ども達の笑顔をずっと見ていければいいなと思います。活力であり、宝です」

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 あれから5年…。男性は40代になり、子ども達は小学生2年生になりました。子ども達は、両親の仕事をいつも手伝っているそうで、男性は奥様と2人でこう言いました。

 「以前の映像を見て、涙が出ますね。うるっときちゃいます。当時のことを思い出して…。コツコツやっていれば、絶対いつかは認めてもらえると思って、一生懸命、ずっと出荷だけは切らさずに続けてきました。4月になると、ひまわりの種とか撒くんですけど、この子ら2人で撒いてくれるんですよ。作業場で手伝いしてくれて、一緒にいられるのは幸せなのかなって感じます。これからもずっと、自分の子どもや町の子どものためにも、もう本当に前を見て進んでいくだけだと思っています」

 最後にもう1人、以前取材した方を再び訪ねました。震災翌年に出会った70代の漁師の男性で、自宅を流され、現在は大戸浜(おおどはま)地区の集団移転団地に家を新築し、息子家族と3世代7人で暮らしています。以前の取材時は漁ができず、漁師たちは自分の船で海中のがれき除去作業を行い、国からの作業日当や東電からの賠償を受け、漁具の準備を進めていました。当時はこう言いました。

 「いま一番心配なのが、いつから魚が獲れるかということ。それが分かるなら、いいのよ。3年後か5年後か、我々漁民には分からない…。何をやったらいいか、どんな方向に進むか分からないのが一番の悩みの種。道具を発注したけど、いつ復興するか分からないなら、最終的に国に買ってもらいたい」

 その後、福島では漁の日数や魚種を制限した“試験操業”が始まり、ようやく去年3月末で終了しました。男性は先行きへの期待を込め、借金をして7000万円の新しい船も購入しました。しかし、わずか半月後、政府は福島第一原発で出るトリチウムなどを含む処理水の“海洋放出”を決定しました。男性は突如、風評への大きな不安を抱えることになったのです。

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 「ある中学生の子ども…親が漁師だから、漁師になりたい気持ちもあるのよ。彼に聞かれたの、“海にトリチウムを流して漁師ができますか”って…。俺、返答できないのよ。大丈夫だから漁師になってくださいとは言えなかった。だめだっていう学者もいるし、大丈夫という学者もいるんだから、いい悪いは別問題として、菅前首相には最初に会見する時に、我々漁業者に頭を下げてもらいたかった。我々は反対なんだけど、肝心な我々の海の仕事場を汚すのを国が押し切ったんだから。こういう訳で流すから、絶対迷惑かけないからお願いしますと言われれば、俺はそんなに怒らなかったよ」

 溶け落ちた核燃料に触れた地下水や雨水から、放射性物質を取り除いたのが“処理水”です。しかし、最新の技術でもトリチウムという物質だけは取り除けません。この物質は私たちの周囲の自然界にも存在し、世界保健機関(WHO)はトリチウムの飲料水基準も定めています。処理水の貯蔵タンクは容量の限界が近く、東電はWHOの飲料水基準の7分の1まで海水で薄め、海底トンネルを掘って1㎞先の沖合に流す方針です。仮に風評被害で価格下落や販売不振が生じた場合、政府は、冷凍できる水産物は一時買い取って保管することも検討しています。ただ、冷凍倉庫に入ると分かっている魚をあえて獲りに行くのは、漁師の誇りに関わります。風評は仲買業者や水産加工業者、福島県のイメージという点では農業や観光業にも影響します。そもそも2015年、国と東電は、“関係者の理解なしにいかなる処分もしない”という方針を県漁連に示していました。“漁師も事情は理解できる。なのにどうして我々に相談もしないで、いきなり発表したのか?”これが男性の怒りの根幹です。