【キャスター津田より】1月15日放送「宮城県 東松島市」

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 新年も被災地の皆さんが健康に過ごされ、日々の幸せをできるだけ多く感じながら暮らしていけるよう、スタッフ一同、お祈りしております。

 今回は宮城県東松島(ひがしまつしま)市です。人口39000あまりで、震災では1100人以上が犠牲になりました。全世帯の70%以上(11000棟あまり)が、半壊以上の被害を受けました。
 ハード面の復興事業は終了し、2016年以降、約580世帯のあおい地区、約450世帯の野蒜ヶ丘(のびるがおか)地区など、集団移転によって大規模なニュータウンが誕生しました。特に野蒜ヶ丘地区は、高台の山林91ヘクタールを造成し、JR仙石線の野蒜、東名(とうな)の2駅が移設され、市民センターや福祉施設、観光物産交流センター、小学校、保育所、クリニック、消防署などもつくられました。2019年には、仮設住宅から全員が退去し、1100戸余りの災害公営住宅の整備が完了しています。大曲(おおまがり)地区の被災跡地は産業用地に転換され、企業を誘致して区画の9割以上が埋まりました。奥松島(おくまつしま)運動公園や矢本(やもと)海浜緑地も復旧し、防災体験施設や、庭園を配した観光施設、県内最大級のパークゴルフ場もできました。

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 はじめに、野蒜地区にある再建した体育館で、成人式を取材しました。震災当時は小学3年生だった338人が、晴れ着姿で門出を祝いました。実行委員を務めた新成人の1人、市場の花卉(かき)部で働く女性は、10歳だった年上の友だちを津波で亡くしました。

 「本物のお姉ちゃんよりも優しかったですし、宿題も教えてもらった記憶があります。妹が欲しいみたいで、“お姉ちゃん”って呼んでよって言われたんですね。呼んであげたかったです。『嵐』も大好きだったんですよ。なので私も最近、ジャニーズにすごく興味を持ち始めて、お母さんに“2人でライブに行きたかった”と言いましたね」

 去年 、『嵐』のライブ映画を観に行った際は、その友だちの写真をずっと手に持っていたそうです。

 「最初から最後まで自分が号泣しすぎて、何も覚えてない…これからもそういう思い出をつくって、自分が行くライブも一緒に全部行けたらいいなって思います。『Snow Man』『Hey!Say!JUMP』は前から気になっていたんですけど、絶対連れていきます。離れても、これからもずっと友だちです」

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 さらに同じ野蒜地区で、2019年に開所した老人福祉施設に行きました。被災して地元を離れた人がデイサービスに通うほか、週末は施設を開放しており、元住民によるカラオケ愛好会なども開かれます。経営者は野蒜で生まれ育った40代の男性で、奥様を津波で亡くしました。妻と過ごしたふるさとに交流の場ができればと、事業を始めたそうです。奥様は中学生の娘さんを迎えに行く途中で津波に遭い、翌月、遺体が見つかりました。自分を迎えに行こうとして母親が亡くなり、当時の娘さんがどんな心中だったか察するに余りあります。娘さんは自ら遺体安置所を回るなどして、お母さんを探し出したそうです。男性はこう言いました。

 「妻が見つかるまでは、娘はずっと泣いていたんですね。“見つからない”って、“寒いだろうな”“痛いんだろうなぁ”とか泣いていましたけど、見つかって以来、一切泣かなくなったんです。それを見て、自分はこれじゃいけないんだ、逆に自分がしっかりしないと、娘を守れないという思いになって、気持ちを切り替えました。今から本当に求められるのは、人のつながり…お互い助け合って生活していく部分を昔みたいに構築できるか、この施設でやっていきたいと思います。それが最後の復興かと思います」

 いま娘さんは24歳で、東京で保育士をしています。男性は、高齢者と子どもが集う、福祉施設と保育園が一体となった施設を目指していて、将来は娘さんも地元に戻り、2人で夢に取り組む予定です。

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さらに、市内最大の集団移転団地“あおい地区”に行きました。ここでは団地が完成する前から、居住予定の住民たちが“まちづくり整備協議会”を立ち上げて年間100回前後の話し合いを続け、まちづくりを進めてきました。隣地との距離や植栽の高さを独自ルールで定め、統一感のある景観をつくったのも一例です。今も自治会活動は活発で、ペットを通じた交流活動やイベントを行うほか、団地の高齢化率が4割を超えることから“見守り活動”も行われており、定期的に高齢者宅を巡回しています。活動のリーダーは70代の女性で、津波で自宅が全壊し、2015年にあおい地区に家を新築しました。長年連れ添った夫は津波の犠牲になり、現在は次女一家と3世代5人の暮らしです。

 「自分も自分のことを、相手も相手のことを、お互いにいろんなことを話して、見守りというより“お茶飲み会”みたいな、そういう訪問ですよね。(遺族なので)カメラを向けられたら泣けばいいんでしょうけど、忙しくて泣いている暇がない…私が元気に喋るもんだから、夫を亡くしたなんて誰も思ってないでしょ(笑)。これからは夫の分も長生きしたいです。2人で列車で旅行しよう、夫は行ったことないから“京都に行きたい”って言ってたんです。孫が大きくなって私が丈夫でいたら、行こうかな」

 女性は元々、大曲地区の住民で、前に紹介した方々は野蒜地区でした。市内の犠牲者のうち約半分は野蒜地区、約2割は大曲地区で、2つで市の犠牲者の7割ほどを占めます。こうした地区の方々も、今となっては見ている限り、全国各地の町と大差ない暮らしがあり、笑顔があります。ただ違うのは、決して自分だけでなく、亡くなった人と一緒に、与えられた人生を大事に生きているということです。

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 その後、以前取材した人を再び訪ねました。震災の2年後、JR陸前小野(りくぜんおの)駅の近くにあった仮設住宅では、70代の女性が話をしてくれました。震災前は3世代9人で暮らしていたそうです。

 「災害から2年8か月たっても、変わりないです。家族はバラバラで、4か所の仮設にいるんです。家族がいればね…。みんなでご飯を食べるっていうのは、たとえおかずが一品でも、おいしく食べていたけどね。不安ばかりだね、本当に…」

 あれから9年…。仮設住宅があった場所の近くで聞き込みをしたところ、80代となった女性は、集団移転先の野蒜ヶ丘団地の公営住宅にいることが分かりました。お会いすると今もお元気で、5年前に1人で公営住宅に移ったそうです。家族は、職場の都合や孫の結婚などで結局バラバラに生活再建し、市内の別の場所や隣町に住んでいます。毎週、孫がやって来て、買い物や通院を手伝っているそうです。

 「孫は週に2回ぐらい来るよ。私が病院に行く日は塩釜(しおがま)に行くから、その時に来てくれるし。震災からまもなく11年、あっという間でした。落ち着くまでは、いろいろな不安はいっぱいあったよね。でもここに来てから、“ここで暮らすんだ”という気持ちになって、今は穏やかな気もします」

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そしてもう1人、以前取材した人を訪ねました。震災の翌年、市内の仮設住宅を取材した際に、集会所で仲間の女性たちと折り紙や紙細工を作っていた60代の女性です。当時はこう言っていました。

 「ここに来た時は、知っている人は1人くらいです。今はみんなお友だち、家族ですね。ここの仮設はすごく居心地がいいんです。本当に知らない人だったのに、ずっと昔から一緒にいる感じがします」

 スタッフがこの女性を探すと、集団移転先の矢本西(やもとにし)地区にある災害公営住宅に住んでいました。震災後にご主人が亡くなり、1人暮らしだそうです。7年前に仮設住宅を出ましたが、仮設では集会所に常駐してコミュニティーづくりに尽力しました。公営住宅に移ってからも、コミュニティーづくりのため集会所で体操サークルを始め、週1回、約20人の高齢者が体操に励んでいます。

 「昔だったら、公民館があっても、そこに行って何かをすることはないよね。津波の後に自治会活動を始めた人たちは、津波に遭って初めてコミュニティーの大切さが分かったんだと思います。体操では、しばらく来ないと“あの人どうしたのかな”って近所の人に聞いて、健康状態を教えてもらったりして、1人暮らしの人を見守れるじゃないですか。みんなが笑顔でいられるように願っています。“笑ってれば長生きするよ”って言うんです。笑顔がいいって言われるのは、美人って言われるよりいいです」

 集団移転団地であれ災害公営住宅であれ、もともと高齢者が多い上に、これからますます高齢化は加速します。女性のように自主的にコミュニティーづくりに力を入れる方がいるからこそ、被災地の地域社会が何とか保たれています。