【キャスター津田より】11月13日放送「宮城県 石巻市」

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 今回は、宮城県石巻(いしのまき)市です。人口約14万の県内第2の都市で、震災では3600人以上が犠牲になり、全壊の家屋だけで約2万に上りました。東日本大震災の被災自治体の中では、最大の被害です。2015年、全壊した石巻魚市場が再建され、2017年には観光施設の「いしのまき元気いちば」が開業しました。2018年に集団移転事業の造成工事が全て終わり、翌2019年に災害公営住宅が全て完成しています。去年1月には、プレハブ仮設住宅から全ての入居者が退去しました。
 いま中心部では、集合住宅と商業施設などが一体となった再開発ビルがいくつか誕生し、今年に入ってからは、1200席以上のホールや博物館が一体となった複合文化施設、石巻南浜(みなみはま)津波復興祈念公園、県が整備した「みやぎ東日本大震災津波伝承館」などがオープンしています。

 

 はじめに、石巻駅近くにあるステンドグラス工房を訪ねました。ステンドグラス作家の40代の女性は、2004年から地元の石巻で工房と教室を主宰し、今は約40人の生徒が通っています。震災で工房と自宅は浸水しましたが、教室に通いたいという生徒の声に押され、震災の4年後に再開しました。震災時、女性は出産予定日の直前だったそうで、検診の帰りに訪ねた妹の家で被災し、2階に避難したまま3日間も外に出られませんでした。その後は病院の床で3日間過ごし、震災6日後に無事長男を出産しました。

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 「レスキュー隊に助けてもらって、担架で1キロ近く運ばれている途中、涙が止まらなくなるような風景で…。会う人会う人が私のお腹を見ると近寄ってきて、“こんな時だけど頑張りなさいよ”って、みんなにお腹をさすってもらったことが、昨日のことのように思い出されます。“あの時、この子がいたから、あんなに頑張れたんだ”という思いが、口に出さないけど心の中にあります。“やっぱり心が洗われるよね”って言ってくれる拠りどころ、生徒さんの笑顔が絶えない教室になっていてほしいです」

 長男はいま10才。7歳の弟とともに元気に育っています。

 次に、上釜(かみがま)地区に行きました。この地区だけで200人以上が犠牲になっています。自宅が全壊した70代の農家の女性は、地区を離れる住民も多い中、元の敷地に夫婦で家を再建しました。

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 「お隣の孫2人、おじさん、おばさんの4人が亡くなったの。その隣も2人、とにかくほとんどの人たちが…。だから私ね、朝起きると玄関を開けて“おはよう”って、外に向かって自分なりに言ってるの。近所の方たちとパークゴルフに行ったり、今はコロナでできないけど、お茶飲みをしたり グループで出かけたりするのが楽しみ。人と人とのつながり、地域のつながり、とにかく大事なのは絆です」

 そして、海と川に面した門脇(かどのわき)地区に行きました。100年の歴史がある、味噌・醤油の醸造会社を訪ねると、4代目の50代の男性が話をしてくれました。津波で工場が全壊し、事務所は1階の天井近くまで浸水しました。一度は再開を諦め、失業保険で生活できるよう従業員も解雇したそうです。しかし、“協力するから再開したら”と声をかける同業者や、“泥が付いていてもいいから、醤油を売ってください”という声に心を動かされ、再開を決意したそうです。補助金も活用し、2015年に工場を新築して自社製造を再開しました。それでも経営再建の道のりは険しく、販路拡大のために他の被災企業と連携して、サバだしのラーメンスープやホヤのつけだれ、ドレッシングなどの新商品を開発しました。さらに練り物加工が盛んな石巻らしい、サバだしの“石巻おでん”を去年開発し、販売中です。

 「震災前はライバル関係にあった会社が、被災したこともあって協力してやっていこうと…。ここまで来られたのは、会社の間の壁を越えたのが一番大きいと思っています。震災前には無かった仲間と、いま一緒にやっていますので、そういう人たちとのつながりが何よりの財産です。本当に1人では生きられない…いろんな人との関わりで、ここまで来られたのが身に染みているので、1人1人に感謝することを心に刻みながら、日々頑張っています」

 震災後、特に水産加工業では、復旧中に他産地に奪われた販路がなかなか戻りませんでした。補助金で整備した立派な生産設備は稼働率が低く、自己負担分の借金も重くのしかかりました。不漁による原料高騰も経営を圧迫し、複数の会社が互いの得意分野を生かして新商品を作り、全国に営業していく動きが出始めました。水産加工から始まった取り組みが、石巻の中で着々と広がっています。

 その後、中心部から車で50分の石巻市北上町(きたかみちょう)に行きました。震災の2年後、十三浜(じゅうさはま)地区の小室(こむろ)集落では、漁師の皆さんが話をしてくれました。定置網漁とホタテやワカメの養殖が生業ですが、集落の27世帯の大半が壊滅的な被害を受け、漁業設備も流されました。漁は震災翌年に再開しましたが、集落に建つのは仮の作業小屋ばかりで、住民は離れた仮設住宅で暮らしていました。当時、60代の漁師の男性2人は、こう言いました。

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 「みんな高台に移り住む前に年をとって、行けなくなるのではと心配する人も出てきているの。今は行事もできないんですよ。例えば、“獅子舞春祈祷(はるきとう)”ってやるんですけど、人数が足りなくてできないんです。早くみんなに戻って来てもらわないと…残っている私らもさみしいしね」

 あれから8年…。再び訪ねてみると、一方の男性は今も現役の漁師でした。残念ながらもう1人の方は、病気で他界したそうです。自ら家の設計図まで作りながら、新たな家が建つ前に、住むことなく亡くなりました。今回お会いできた男性は、震災の6年後に高台の自宅が完成し、いま高台には18世帯が暮らしています。亡くなった仲間と別の仲間の3人で、補助金を受けてワカメの加工場もつくったそうですが、別の仲間も他界し、さらには漁獲量の減少にも悩まされています。

 「3人で建てたのに、2人とも亡くなって、残ったのは私1人なんですよ。加工場で3人いっしょに働けたのは、本当に1、2年だものね。獲れる量は、震災前の10分の1です。網に入らないの。特にここ6、7年は年々下降して、定置網のサケとか、まるっきり獲れない…。去年の3分の1か、4分の1。もう採算が合わないです。高台移転できて感謝していますが、昔のようにサケなんかが獲れる海に戻ってほしいです。浜に活気が戻らないし、人も寄ってこない…この地区はやっぱり海が頼りですから」

 ここ数年、記録的な不漁は全国的な傾向で、10月末現在、全国のサンマの水揚げ量は、過去最低だった去年をさらに下回っています。三陸のサケも極端に減少し、石巻の春のコウナゴ漁は、去年、今年と2年連続で水揚げゼロという前代未聞の事態です。復興が帳消しになるぐらい、不漁は深刻です。

 最後に、同じ石巻市北上町で、コメ農家の70代の男性を訪ねました。自宅は流されて田んぼも浸水しましたが、震災の2年後に親戚2人と農事組合法人を立ち上げました。津波をかぶった田んぼを借り受けて除塩作業を進め、地区の稲作を再開しました。その後、徐々に収量が安定し、耕作面積は6年前の30haから、現在100haにまで増えています。今年、被災した田んぼに実ったコメは、県の農林水産物品評会で“農林水産大臣賞”に輝きました。

 「がれきと一緒に田んぼに家が流れてきた状態で、もう農家はやめるほかないと思っていたんだけど、たまたま何とか作れそうな田んぼがあって、自分が食うコメを作ろうと始めたら、“おらの田も頼む、おらのも頼む”って広がっていって…。汗水流して除塩して、やっとコメが実った時はうれしかったですよ。なんとも言い表せない、本当に喜びで…。誰もいなかったら、万歳してたね。今から未来に希望をもって、農家をやっていきたいと思っています」

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 農事組合法人では、男性の40代の息子も働いています。担当はオリーブ栽培で、2014年に市の受託を受けて始めました。もとは復興庁職員の提案で、香川県の生産業者が技術指導してくれたそうです。

 「縁もゆかりもない果樹なんですが、栽培して1年目で越冬したんで、何とかなるもんだと思いまして…。人が住めない、災害危険区域になってしまった所をオリーブで埋められるようになればいいし、それも我々の世代ではなくて、私の息子の世代がもっと関わってくると思うんで、数十年後の未来に向けて礎を築いていきたいです。農林水産の盛んな町を目指してやっていきたいと思います」

 市はここ以外にも、津波の被害を受けた河北(かほく)、雄勝(おがつ)、網地島(あじしま)の3つの地区でオリーブ栽培を進めていて、この秋も計1600本以上の木から実を収穫しました。市がおととし整備した加工施設でオリーブオイルにして、今年中に商品化の予定です。