【キャスター津田より】11月6日放送「福島県 双葉町」

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 今回は、福島県双葉町(ふたばまち)です。人口が約5700で、事故を起こした福島第一原発が立地しています。面積の96%は放射線量が高い帰還困難区域で、県内の除染で出た土などを保管しておく中間貯蔵施設も作られました。10年経った今も、全住民が避難している唯一の自治体です。
 去年3月、帰還困難区域ではない地区(面積の4%)と、帰還困難区域内にあるJR双葉駅周辺に限り、避難指示が解除されました(同時にJR常磐線が全線再開)。解除された地区は生活インフラが未整備で、結局居住はできませんが、新たに造成された産業団地には県内外から20社以上が進出、ないし進出が決まっています。“東日本大震災・原子力災害伝承館”も整備され(去年9月完成)、1年間で全国から65000人が訪れました。今年5月にはビジネスホテルもオープン、野菜の試験栽培の結果、両竹(もろだけ)地区の5品目は出荷制限が解除されました。

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 一方、帰還困難区域では、国が優先的に除染やインフラ整備を行ってきた“復興拠点”(約550ha)に限り、通行証なしで自由に出入りできます。前述のJR双葉駅周辺も、ここに含まれます。駅の西側では80戸余の災害公営住宅を整備中で、駅の東側には役場の仮設庁舎を整備し、来年には役場機能を町内に戻す予定です。近くには商業施設も整備し、診療施設も設置する計画です。今年に入り、復興拠点内では、農業再開に向けてコメや野菜の試験栽培も始めました。帰還準備のための長期宿泊も、来年1月の開始が目標です。町は、来年6月には復興拠点の避難指示を解除し、念願の“帰還”を目指しています。
 ただ、復興拠点から外れた地区(4000ha近く)は、“2024年度をめどに帰還希望者の自宅の除染を始め、希望者が2020年代には帰還できるよう取り組む”という政府方針があるのみです。

 

 はじめに、2100人以上の双葉町民が暮らすいわき市に行き、以前取材した方を再び訪ねました。現在91歳の女性で、これまで福島市、喜多方(きたかた)市、仙台市、いわき市と避難してきました。3年前、今の中古住宅に落ち着き、福島市に住む次男が週に数日は訪れ、寝泊りしています。以前取材したのは双葉町から100㎞も離れた喜多方市のアパートで、80代の夫を前に、こう言いました。

 「双葉に早く帰りたい…帰ることを願っております。皆さん同じ苦労しているから、自分ばかりじゃないから、我慢しています。前向きに考え直して、爺ちゃんのことをなだめて、2人で暮らしています」

 その5年後、ご主人はいわき市で、89才で亡くなりました。今は双葉町内の墓に眠っています。女性の自宅は復興拠点の外にあり、今も帰還のめどは全く立っていません。

 「爺ちゃんは“家に帰りたい、帰りたい”って…。“お上(国)の言うことばかり聞いていられるか”って、荷物をまとめて背負って、双葉に歩いて帰ろうとしたこともあったの。途中、店の前で転んで顔をすりむいて血だらけになって、大騒ぎになってね。その時も“爺ちゃん、帰れないんだよ”って言って…。私も双葉町に帰りたい気持ちは変わりません…帰って、あそこで旅立ちたいと思っています」

 次に、いわき市に移転した双葉町役場に行き、広報課で働く21歳の女性を訪ねました。今年5月、原発事故後はじめて双葉町内で開催した成人式で、実行委員を務めた女性です。式では、事故当時のままの教室や児童館など自ら撮影し、スライドショーを上映しました。

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小学4年生で被災し、叔母の住む兵庫県に避難した後、小5~中3までは大叔父の住む静岡県で過ごしたそうです。2年前、家族はいわき市に自宅を新築し、今は3世代7人で生活しています。双葉町の自宅は、来年6月の帰還を目指す復興拠点からは外れており、解体予定です。しかし女性は、復興拠点の中に家を借り、町に戻るつもりです。

 「一度は避難してしまったんですけど、戻ってきて町に携わる仕事をして、“やっぱり双葉が大好きだ”と痛感しました。町に戻って息をついて、“ああ、やっぱり双葉がいいな”って思うので…。私は町に戻りたいっていうのが一番なので、昔のような生活もしていきたいですし、若い人でも住めないことはないと思います。若者の先駆けになれるのであれば、なりたいです」

 さらに、双葉町から90キロ離れた仙台市でも取材しました。宮城県には242人の双葉町民が暮らしています。仙台市には双葉町民でつくる双萩会(そうしゅうかい)という会があり、お茶会や旅行などで、親睦を図っています。元東電社員だという会員の70代の男性は、原発事故後に定年退職し、長男一家が住む宮城県利府町(りふちょう)に自宅を構えました。仙台の隣町です。夫婦2人暮らしで、趣味のテニスと水彩画を通じ、利府町でも友達の輪が広がったそうです。もともと千葉県出身で、東電に就職したあと双葉町へ来たそうで、自宅は解体して帰還の予定はありません。

 「会のみんなは、やっぱり同じ境遇ということで親しみは感じますよね。国による新たな産業をつくって、それを求めて双葉町じゃない人が来る…私が昔、よそから来たように、その産業の魅力で外から人を呼ぶことで、新しい人たちによって双葉町をつくってほしい、そういう願いです」

 また、別の70代の男性は、生まれも育ちも双葉町です。事故前は地元の銀行に勤め、息子夫婦や孫と3世代5人で暮らしていました。避難により、隣に住んでいた両親も含めて家族は離散。男性と奥様は福島県内など8か所を転々とした後、青森県に避難していた息子と相談して仙台のマンションを購入しました。今は同じマンションの違う階に息子家族も住んでいます。ただ、近所との交流は少ないそうです。

 「双葉から来たことは、こちらでは一切話していません、原発事故で被災したって言うと、変な色眼鏡で見られるのがあるんですよね。言葉には出さないんですけど、やっぱりこう、原発事故の被災者っていうのは言いづらい…。双葉町に帰れるようになったら、とりあえず駅の西側に家屋を借りて、週末に帰って田んぼや畑などを見ながら過ごそうかな。ふるさとなんですよね、私にとってはたった一つの…。心残りって言ったら変ですけど、関わっていきたいなっていう思いですよね」

 

 その後、スタッフは再び双葉町に戻り、4年前に取材した男性と再会しました。現在40歳で、17歳で町を出て東京で働き、Uターンして双葉駅前で飲食店を営んでいました。経営は順調でしたが、原発事故で関東に避難。神奈川県で働いた後、東京・世田谷区で飲食店を開きました。その世田谷の店で取材した際は、こう言っていました。

 「震災直後からネガティブな気持ちは一つも無くて、自分の可能性をどこでも試せるんじゃないかって…。震災が起こったから、“もう、こぢんまりやっていきます”というのは違うと思うし、どこで何をやろうと自分次第、リミッターをつけるのも、外すのも自分。そこは常に自由でありたい…」

 4年後の今も、男性は東京で妻子と暮らしながら飲食業に携わり、12月には新規出店も予定しています。一方で双葉町に帰る機会も増やし、アート関連の会社社長と手を組んで町内に7つの壁画を制作し、関心を集めています。

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さらに登記上の住所を双葉町にして企画会社を起業し、浜通り地方の食材を使ったクラフトジン(地元特産の蒸留酒)を開発しました。“ふたば”と名付け、年末に販売開始の予定です。

 「壁画のアートがきっかけで、“双葉町を知ってもらうんだ!”とか、それが自分の中ですごく大事に思えるようになったんです。精神的に癒される所って、不自由な(不便な)世界なのかと思って…。自由を手に入れるなら東京にいた方がいいと思うんですけど、双葉でしか感じられないものがある…だから僕もわざわざ4時間かけてここに来ますし、存在する価値のある町になってほしいと思います」

 最後に、郡山(こおりやま)市に行き、ある寺を訪ねました。住職は40代の男性で、寺といっても郡山駅から車で10分の一軒家で、門に看板があるだけです。元は双葉町で700年続く古刹で、男性は48代目の住職です。山梨県などに避難した後、7年前に郡山市に移り、寺と自宅を兼ねた家を購入しました。檀家は全国各地に離散し、この10年で1割減りました。それでも双葉町にもう一度寺を建てる決意を固め、賠償金なども活用しながら再建中です。

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 「檀家さんのもとに向かうには、郡山に拠点を置いた方が、いろんな方向に行けると思いまして…。寺の再建に迷いはなかったですね。私の代で潰すわけにはいかないっていうのが一番…室町時代から代々続いてきているので。檀家さんは泣いて喜ぶ人もいますし、建ててどうするんだと言う人もいます。でもやっぱり、檀家さんがいる限りは頑張るしかないと思っています。お寺がやっていけるのか?、でもやっていく、檀家さんが離れていく、でもまだ残っている人もいる…その繰り返しじゃないですか。転んでも起き上がればいいっていう考えで…」

 現在、双葉町で工事が進む新しい寺は、2022年秋には完成の予定だそうです。