【キャスター津田より】10月9日放送「宮城県 南三陸町」

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 今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。人口が約12000の町で、震災の津波では800人以上が犠牲になり、住宅の6割近く、3000戸以上が全壊しました。
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2年前、仮設住宅から全員が退去し、集団移転事業や災害公営住宅の整備、被災した学校、保育施設、公民館、図書館の復旧も全て完了しました。新しい総合病院(病床数90)も、2015年から診療を始めています。町が管理する漁港の復旧率は9割を超え、養殖業の売上額も震災前とほぼ同じ水準に戻りました。一方、被災した470余の事業所のうち、再開したのは6割ほどです。浸水した農地で営農を再開したのは、約半数にとどまります。

 はじめに、震災の2週間後に会った小学生(当時12歳)を捜すことから始めました。避難所の保育園で暮らしていた男の子で、しっかりカメラを見つめ、強い口調でこう言いました。

「懐中電灯と電池、ガソリンとお風呂と発電機、男物のズボンが足りないので欲しいです。ここにいるみんなは、お風呂に入れないです。こういうときに入らないと風邪とかひいてしまうし…」

 あれから10年…。男の子は23歳となり、地元では数少ない若手漁師として活躍していました。今の時期はサンマ船に乗り、2~5月は家業のワカメ養殖、7月~8月は流し網漁の船に乗ります。自宅を流され、3か月に及ぶ避難所生活を経て仮設住宅に入居し、2015年に両親が自宅を再建しました。現在は、曽祖母に祖父母、両親と弟、それに去年結婚した妻の8人暮らしです。

「当時、俺たちは親に付いて行って、ただ避難していただけなんですよね。もし、また津波が来てしまったら、今度メインは自分たちじゃないですか。その時の大人みたいに立ち回れるか?ってことなんですよね。過去の経験を生かさなきゃいけないなと…自分が試される部分が出てくるじゃないですか。自分がしてもらったことを忘れては何もできないから、忘れないようにと思います」

 次に、同じく震災の2週間後に出会った男性を訪ねました。当時70代で、自宅を流され、避難所で暮らしていました。当時はこう言いました。

「お医者さんにここまで来ていただくのは大変うれしいんですけども、1回ごとに先生が変わるものですから、そのたびに病状を申し上げなきゃならないし、先生によって薬も多少は違っている…医療関係者の間でコミュニケーションをとっていただけたらと思います」

 今回、10年ぶりにスタッフが訪ねると、高台の災害公営住宅に妻と次女の3人で暮らしていました。仮設住宅を経て、5年前に入居したそうです。80代となり、過去の映像を改めて見て、“よく今日まで生きてきたなあと感じます”としみじみ言いました。また奥様とともに、こんなことも言いました。

「復興って何なんだろうと思っているんですけどね。新しい防波堤を造ったり、盛り土、かさ上げをして、安心だ、安全だということをやるのが復興なのかなと…。町に色がなくなったね。川の周りには木とか花があったんですけど、それが今はコンクリートの色だけですよ。春先、川でとれるのはシロウオで、スズキ、ハゼもとれるし、今頃はサケがとれる、そういうことも夢のまた夢って感じで…」

 南三陸町の志津川(しづかわ)地区や岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市では、建物がほとんど流された跡に10mぐらい盛り土をして、平地や道路を整備しました。山を切り崩して宅地や災害公営住宅をつくり、高台には立派なニュータウンが生まれました。安心・安全できれいな町に住める幸福もあれば、故郷の面影が変わらないという幸福もあります。二者択一で選択できる人は、なかなかいません。
 ちなみに男性は今、震災でのつらい体験や苦しい体験の支えになった“人の温かさ”に感謝し、その気持ちを形にしようと、地域のために子どもたちの登下校の見守り活動を行っています。80代の体にむち打ち、“生きている間はできる範囲で恩返ししたい”と言いました。
さらに、同じく震災直後に避難所で会った、当時60代の女性を訪ねました。連絡を取ってみると、中心部から車で10分の高台移転先に住んでいました。
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自宅を流された後、避難所、仮設住宅を経て、6年前に自宅を再建したそうです。以前取材した時は、こう言っていました。

「ずっと確かな情報が入ってこないので困っています。新聞はほとんど見てないです。自分たちがどんな被害にあって、全体でどのくらい大きな震災なのかも、全然分からないんですね。原発が爆発したとか噂が飛び交っていますが、真実か嘘かを見分ける根拠が何もないので、本当に不安です」

 避難所暮らしの後、女性は仮設住宅に入りました。仮設住宅では趣味の裁縫が心の支えだったそうで、作った小銭入れはNPOを通じて全国で販売され、人気を集めました。
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今も毎日、裁縫を続けています。

「(取材を受けた)あの頃は本当に夢中でした。毎日、着の身着のままで、30分もしないうちに目が覚めて眠れないんです。人間って立脚点がないと、ダメなんですね。あの根無し草の心境は本当に忘れられないです。家を再建した時、とにかく大の字になって床に寝転びたいと思いました。私の作った物でも買ってくださる方がいるんですよ。うれしいし、まだ役に立てるのかなって思います。震災で無くしたものばかり考えていた時期もありましたけど、“自分はいま生きているじゃないか”と思い直したりして、とにかく今は、ゆっくりし過ぎず、頑張り過ぎず、淡々と日々を送っていこうと思っています」

 その後、町の東側・歌津(うたつ)地区に行きました。
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100人以上が暮らす災害公営住宅では、自治会の副会長を務める70代の男性に話を聞きました。自ら声をかけて高齢者を集め、集会所の広場でグランドゴルフを楽しんでいます。震災前に妻を亡くして一人暮らしで、娘2人を育てた思い出の家を流されました。仮設住宅を経て、5年前に公営住宅に入居したそうです。家賃の上昇が悩みの種でした。

「3倍だもの。えー、何で?って。俺なりに自分で蓄えたものを崩したりして、1杯のお酒と家族葬をするぐらいは貯めておこうと思って…。前は自治会でも、いろんな人を呼んで講話を聞いたり、昔の歌を聴いたりしてたんだけど、コロナのご時世で全然活動しなくなったんです。私はにぎやかなのが好きなんですよ。みんなで飲んだり話し合ったりするのを、もう一回、生きている間にやりたいなと思います。もう一回、“あはは”と笑って生きる、そういう生活をしたいというのが夢です」

 災害公営住宅では、給料や年金などの月の所得が8万円以下なら、10年間は国から家賃補助が出ます。入居から5年は最大7割減額され、6年目から補助が徐々に減り、11年目で通常の公営住宅の家賃になります。逆に、家族の中で働き手が増えるなど、世帯所得が増加した場合も、徐々に補助が減らされます。入居3年後に15万8000円を超えれば、翌年から家賃は上がり、最終的には近隣の民間の賃貸物件と同じ水準まで上がります。“入居10年目まで家賃は据え置き”など、市町村が独自に補助を出して減免措置をとるケースも多々ありますが、南三陸町では収入が著しく少ない世帯を除き、ルール通り家賃が上がります。家賃上昇により、自治体によっては問題も指摘されています。
 最後に、歌津地区で6年前に開業した整体院を訪ねました。
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整体師の60代の男性は、震災前はガソリンスタンドを経営していて、津波の被害を受けたものの、2日後に再開したそうです。しかし、敷地が復興工事の対象となったことで廃業し、持っていた整体師の資格を生かすことにしました。津波で自宅を流され、母親が亡くなり、父親は今も行方不明です。今は災害公営住宅に妻と2人暮らしで、週末は町外に住む息子や孫のところで一緒に過ごす生活を送っています。

「私の親父も腰が痛くて、揉みほぐしてやったことも頭の隅にあったので、自分の残された人生で地域の皆さんに恩返しをするのもいいかなと思いまして、整体院を始めました。私にとっては、あの震災のあの時で、そのまま止まったままなんです。息子が結婚したら変わるかなあとか、孫が抱っこしたら変わるかなあとか、希望は持ちますけど、でもその希望を乗り越えると、またずしっと何かが…自分でも分からないんですけど、自分をコントロールできなくなる時があるんですよね」

 男性は客と会話を重ねるうち、自分と同じく心に重荷を抱えた人が多いと気づいたそうで、少しでも助けになりたいと、無料で“出張整体”を始めました。

「お年寄りの集まりがある時に私が出向いて、ボランティアで揉みほぐし…まあ、要は会話ですよ。この地域のために何とかして恩返しをしていきたいという気持ちは、変わらないと思います」

 息子の結婚、孫の誕生と、男性は震災後に新たな幸せをつかみました。でも何かの機会に悲しみで心が重くなり、時間が止まったままです。同様の経験をしている方は本当に多いと思います。“時間が止まったままではいけない”という決まりはありません。それぞれのペースがあるのが、心の復興です。