【キャスター津田より】9月18日放送「宮城県 女川町」

 東京オリンピック・パラリンピックが終わり、2か月ぶりにこの番組も再開です。
 思えば8年前、“復興五輪”という言葉でオリンピックを招致しましたが、そもそも被災地には最初から、この“復興五輪”という言葉に違和感を持つ方が多く存在しました。8年前は、“復興を世界に示す”などとのんきに言える状況ではなく、“被災地にも五輪の恩恵を分け与える”という、国や東京の“上から目線”的な空気を何となく感じた人もたくさんいました。結局はコロナ禍で、復興を世界に発信する取り組みは非常に機会が限られました。アスリートの努力と活躍は実に見事でしたが、“復興五輪”が成功したかどうかは、また次元の違う話でしょう。

 

 さて今回は、宮城県女川町(おながわちょう)です。人口は約6100で震災前より4割近く減り、高齢化率も約4割と県内では高い数字です。震災では約14メートルの津波に襲われ、800人以上が犠牲になりました。中心部の大規模なかさ上げなど、町の大改造に着手しましたが、復興関連の工事はおおむね終了しています。2015年、様々な店が並ぶ商業施設“シーパルピア女川”がJR女川駅前にオープンし、2016年にはその隣に、海の幸の販売店や飲食店が入る観光市場“ハマテラス”が開業しました。

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2018年には災害公営住宅が全て完成し、新しい役場庁舎での業務も始まりました。2019年には、集団移転と土地区画整理での宅地供給がすべて完了し、仮設住宅の入居者もゼロになりました。去年は震災遺構“旧女川交番”の整備が終わり、新しい小中一貫教育の学校も開校しました。町は今年4月、復興事業の中核を担ってきた復興推進課を廃止しています。

 

 はじめに、観光市場“ハマテラス”に行き、震災翌年に取材した、4代続く水産加工品の店を訪ねました。店主は70代の女性で、震災前に夫を亡くしています。震災では自宅も社屋も工場も全て流されましたが、3か月後には、知り合いの工場を借りて加工と販売を再開しました。以前は海から離れた仮設店舗で取材させていただき、こう言っていました。

 「たくさん泣きました。ここにいると、お客さんがいろいろ来るから、それで心が和みます。夜になると、(新商品を)あれも作りたい、これも作りたいと考えてしまいます。仏壇の前に立っても、夫に“お前に泣いてる顔は似合わない”と言われるのではないかと思って、ちょこちょこ泣くのをやめます」

 その後、女性は他社の工場を間借りしながら4回も製造拠点を移転し、6年前に自社工場を再建して、手作りにこだわった商品製造を続けています。“ハマテラス”のオープンと同時に、飲食も兼ねた直営店も出店しました。人気商品のマグロやサンマの昆布巻きは、亡き夫と2人で考えたものです。

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 「頑張ったね。大変だった…苦労したもの。こういう立派な店(ハマテラス)を建ててもらって、本当にありがたいです。夫には、“おかげさまでいい商品を作ったおかげで、なんとか生きてるよ”って報告したいです。10年たっても、お客さんから“母ちゃん、母ちゃん”って言っていただけるから、本当、全国の皆さんに支えられているとつくづく実感します。ありがとうございます」

 次に、そこから100m先にあったパンとお菓子の店を訪ねました。女川の特産物を利用した商品で知られる人気店で、女川のサンマを骨まで柔らかく煮込み、フレーク状にして生地に練りこんだ“さんまパン”や、サンマ味を筆頭にした15種類の“おからかりんとう”もあります。

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作っているのは、障害のある人や難病の人の就労を支援するNPO“きらら女川”で、24人が働いています。理事長は60代の女性で、2010年12月に法人を設立しましたが、その3か月後に震災が発生しました。事業所の建物はすべて流され、利用者2人も亡くなり、施設を再建できたのは震災の2年後でした。

 「全国の障害のある方たち、(福祉の)事業所や助成団体、いろいろな企業であったり、皆さんからのご支援が非常に大きかったです。利用者の皆さんが目の色を変えて働かれる、ずっと2年間 、行き場もすることもなかった人たちが、それを一気に花開かせた…“私たち、ここでできるんだ”という言葉を聞いたり、姿を見た時に、全国の皆さんにあんなにお世話になったけど、でもこれは“お世話になってよかったんだ”というのを感じました。ちょっとずつ前に進み続けたいと思います」

 そして、“きらら女川”の店から歩いて5分のところには、震災前から牛タン焼きが名物の食事処がありました。店主は50代の男性で、津波では自宅兼店舗を流されました。震災翌年、町内の病院の中に共同経営で食堂を開店し、3年前には補助金やローンなどを活用して、自らの店を再建しました。店内をよく見ると、『父さんの 牛タン定食 たべたいな」と書かれた紙が立てかけてありました。

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 「これはね、息子が中学2年生の時に国語の授業で書いた俳句です。泣きましたね…“父の背中を押してくれてありがとう”ですかね。正直、ホテルから“住む所も用意するから、来て働かないか?”という話もいただいて、迷ったんですけど、7年かかるか、8年かかるか分からないけども、“自分で店を再建しないとダメだな”って思ったきっかけが、この俳句です。オープンしてまず、息子に食べさせたんですけど、“やっぱりお父さんの味付けが一番いい”と言われたのがちょっとうれしかったです。今はコロナで、オープン当時と比べたら売り上げは5割くらい減っています。今は信号の赤から青に変わる瞬間なのかな。もうちょっと我慢したら、赤が青に変わるのかな、そう思って頑張っております」

 息子さんは今、公務員として働いています。自宅も高台に新築しましたが、家のローンは80歳まで、店のローンは70歳まで残っているそうです。

 

 その後、中心部から車で15分の尾浦(おうら)地区に行きました。津波で70戸ほどが流され、現在は高台にある集団移転先の団地で、42戸が暮らしています。

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ここでは、震災翌年に取材した3人の女性を再び訪ねました。現在、1人が80代、2人が70代で、津波で自宅を流され、この団地に家を再建しました。いずれも家業はギンザケやカキなどの養殖ですが、今は海の仕事を引退し、穏やかな日々を送っています。以前会った時はギンザケ養殖の稚魚の放流を再開したばかりで、3人はこう言いました。

 「私たちは必死です。ギンザケは震災前よりかなり安い値段ですね。カキは風評被害で売れない感じなんですね。結局、私たちはここで生まれて、ここの仕事しか分からないものだから、ここで生きようと思っているんです。でも仕事が順調でないので、これからどうなるのかなと本当に不安です」

 あれから9年…。3人とも5年前に自宅を再建し、養殖も軌道に乗って今は幸せだと口を揃えました。

 「あの時はとにかく考える力もないくらい落ち込んでいたからね。ギンザケ養殖にすがって頑張ってきたかいがありますね。海で生まれて海で育ったものだから、街(中心部)に行くということは考えなかったです。最初からここに戻ってくるんだ、落ち着くんだ、ここに骨を埋めるんだ、そういう考えしかなかったんです。振り返ってみたら“自分たちも頑張ったんだな”と思います、今は…」

 そして女性のうち1人が、ギンザケ養殖をしている息子と孫にも会わせてやるというので、お願いしました。50代の息子と20代の孫の男性(=この浜で一番若い漁師)は、2人で力を合わせて直径15mのいけす4台を管理しています。

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息子はギンザケ養殖30年以上のベテランで、自宅と3つのいけす(ギンザケ約9万匹)を流され、被害額は約3000万円に上ったと教えてくれました。しかし、国の補助を受けて、翌年には養殖を再開したそうです。尾浦地区全体では、養殖用のいかだ約600台、ギンザケのいけす50台以上が流され、カキ処理場も全壊しています。

 「津波で船が助かっただけで、沖の方は全部やられた…次の日から水揚げだったんだけどね。裏の山から家が流されていくのも見てたから…。皆、いろんな物を流されたけど、結局命があれば、また手に入れることができるから、いつかは…。そう思って働かなければ、どうしようもないもの。命があっただけで拾いものだと思ってね」

 それを聞いていた孫は、横にいてこう言いました。

 「震災後はみんな無気力な感じに見えたので、(父が)また養殖をやってくれるなら、そっちのほうがいいなと思ったし、少しずつ戻っていって良かったなと思います。父の世代にみんな直してもらって、基盤はつくってもらったので、これからは若い世代の人でいい未来をつくっていけたらと思います」

 去年、女川魚市場全体の水揚げ金額の約35%は養殖ギンザケでした。漁師たちのこの10年の努力がしのばれます。